午後7時関西空港発、オーストラリア行き。夫である冬獅郎と共に新婚旅行へ行く咲夏は本来ならば幸せいっぱいの笑みを浮かべているハズだった。しかし搭乗を済ませ、座席に腰を下ろした咲夏はどこか浮かない顔する。隣で現地のガイドブックを眺めている夫に話し掛けられても、苦笑いを浮かべるだけ。


「さすがシーズンだけあって満席だな」
『そ、そうだね!席隣同士にして貰えて良かったよ』
「向こう着いたらお前が見たがってたコアラ、絶対見ような」
『うん、楽しみにしてるね……』
「やけに反応薄いな」


顔をしかめる冬獅郎に気付く余裕もないようだ。俯き加減の咲夏の顔色は青白い。

うぅー気分が悪いよぉ。前に余分な空間がないのがあたしは特に苦手。機内のニオイだけで酔っちゃいそうだよ。まだ離陸してないのに……!冬獅郎さんは平気みたいだけど。

パラパラと捲られていくページを横目で察しながら、深く息を吸った。大丈夫。オーストラリアまで5時間だし、機内食出てから寝ればあっという間に着いてるよ。あーでも離着陸の時は気圧の変化に耐えられなくなって耳が超痛くなるんだよね……!大人になったら平気になるのかと思えば、そんな様子微塵も感じられないし。むかし売店で買った耳栓を試しに付けてみたけど、全然効果なかったんだよ。


これから始まる長い飛行時間を想像するだけで、咲夏は憂鬱だった。


「大丈夫か」
『うん?』
「顔色さっきより悪いぞ。やっぱ仕事……無理させちまったか」
『違う違う!仕事の方は乱菊さんが引き受けてくれたから、大丈夫』
「あの松本が、か」


乱菊さんは冬獅郎さんの大学の先輩だ。偶然あたしが入った会社が乱菊さんと同じで、色々と仕事でお世話になった上に冬獅郎さんまで紹介してくれた。

寡黙で話し掛けづらい冬獅郎さんに、何かとあたしを傍に行かせてくれたお陰で接点がもてた。告白のセッティングから、新婚旅行先まで、何から何まで全て手を借してくれた。乱菊さんはあたし達になくてはならない存在だ。

(いいのよ、気にしなくて。新婚旅行くらい楽しんでらっしゃい。仕事のことはあたしに任せてくれて構わないから)

今回だって、長期間会社を休むのを躊躇うあたしの肩を押してくれたのも紛れもなく乱菊さんだ。ただ――、


「どうせアイツのことだ。免税店にでも行ったら自分に合いそうな化粧品かバックなんか買ってこい、てな条件付きだろ」
『あはは……スゴいね冬獅郎さん。それ、あたしが会社出て行くときに乱菊さん言われたよ』
「チッ。どうせ、ンなことだろうと思ったぜ。アイツはただ働きするようなアマじゃねえ」


数時間前に交わした会話が冬獅郎によって見事に再現された。それが何とも面白おかしくて、笑い声が漏れてしまう。うわぁ冬獅郎さんの顔が……!怒らせちゃったかも。

(笑うんじゃねえ)

とか言われそう。元々誰かから笑われるような行動する人じゃないから、たまにあたしがこうやって笑うとスゴく不機嫌になる。

みるみるうちに深くなっていく夫の眉間に咲夏は不安を募らせた。しかし、一度はそのような態度を冬獅郎は仄めかせたのだが、意外にも表情はすぐさま和らいだ。


「やっと笑ったな」


予想通りの夫が作った眉間の皺。予想外の綿菓子のように柔らかで甘い笑み。咲夏は目をパチクリさせた。あのいつも仏張面で、ポーカーフェイスで、あたしでさえも未だ数えるほどしか笑った顔を見たことがない冬獅郎さんが微笑んでる!ウソ!超レアじゃない!!出来ることなら記念に写真にでも残しておきたいところだったが、それは流石に逆鱗に触れるだろうと思い、とどまった。

それにしても、冬獅郎さんは笑った顔もカッコイいなぁ。こんな人があたしの夫だなんて――!

冬獅郎に見惚れて、にやけまくった頬が引っ張られたことで咲夏はようやく現実に呼び戻された。すっかり呆れ顔に戻った夫に、小さく舌打ちをする。もうちょっと見ていたかったのに。


「そんだけ元気なら心配なさそうだな」
『心配?』
「空港に着いてからオマエずっと深刻な顔してたろ」
『それは……』


ただ単に飛行機が苦手なだけだよ?
冬獅郎さんとの新婚旅行は前々から楽しみにしていたに決まってるじゃない。昨日も冬獅郎さんはさっさと眠っちゃったけど、あたしはバカみたいに興奮して眠れなかったんだから。

(そんなこと、知らなかったでしょ)


「楽しくねえのかと思った」
『え?』
「せっかく頑張って2人で休みとって海外行くのに、咲夏は全然嬉しそうに笑わねぇし。話しかけてもイマイチ反応悪いし」


照れくさそうに冬獅郎は顔背けた。まさか夫がそのようなことを内に秘めていたとは知らず、唖然とする。あたし冬獅郎さんが不安になるくらい酷い顔してたんだ……。

いつになく余裕のない冬獅郎に突き抜けるような愛しさを感じる。止めていたシートベルトを外し、咲夏は機内だということも忘れ、抱きついた。小さな悲鳴を冬獅郎が上げたが、お構いなしに腕をまわした。人目を憚らない嫁の行為に初めては驚いたが、ほんのりと赤く染まった頬を確認すれば悪い気はしない。


[ 当機は間もなく離陸体制に入ります。お手元のシートベルトをお締め下さい ]


頭上から聞こえてきたアナウンスで二人は体を離した。外したシートベルトを付け直し、深く腰をおろす。


『冬獅郎さん』
「なんだ」
『膝……借りてもいい?』


上目遣いで訊ねる咲夏の手には、備え付けのマクラが既にのっていた。離陸最中に外の景色を拝みたいのは山々なのだが、おそらく耳の痛みでそれは叶わないだろう。出来れば痛みがくる前に眠りにつきたい。せっかくの飛行だがコレばかりは仕方がない。

(どうかあまり痛みませんように)

飛行機が滑走路へ移動し始めた時には、咲夏は冬獅郎の膝の上に頭を預けていた。


『おやすみなさい』
「ああ。ゆっくりな」


呟かれた囁きに、咲夏は瞼を下ろした。冬獅郎は寝付いたのを確認すると、柔らかい髪に指をすべらせた。新婚旅行をオーストラリアに決めたとき、咲夏はどこか不安げだった。あれだけコアラやらカンガルーを見たいと騒いでいた妻の態度が一変する。不思議に思って問いただしてみれば、飛行機が嫌だ、と短く返ってきた。鉄の塊である飛行機が墜落する確率――それは限りなくゼロに近いだろう。しかし確率とはあくまで机上の空論。不安は拭いきれない。

(かと言って船で行くにはなぁ……)

時間が掛かり過ぎる。俺はまだしも咲夏は、そんなに長く休めないだろう。――という事はやはり飛行機しか交通手段は考えられない。ワルいが我慢してくれ、咲夏。
若干、飛行機が苦手の意味を取り違えている冬獅郎だったが、下でスヤスヤと眠っている妻の笑顔を見れば、自然と心は安らいだ。

それから1時間ほど経過し飲み物が配られたあと、咲夏はぼんやりと目を覚ました。備えつきの簡易テーブルの上には冬獅郎が置いてくれたであろうジュースがのっていた。ありがとう。お礼を言おうと体を起こしたとき、不意に違和感が体をおそう。うわ、耳全然聞こえない。なにか分厚い膜で妨げられているような、そんな聞こえ方。吐き気に近い気持ち悪さが体を駆け巡る。

(自分の声がよく響く)

三半規管が弱いあたしは小さい頃から上手く耳抜きができなかった。そのため飛行機の離着陸時に襲ってくるどうしようもない痛みは、トラウマになっていた。出来れば一生味わいたくないあの感覚。だけど、今回ばかりは仕方ない。なんてったって新婚旅行。我侭は言いたくない。


「起きたのか」


すぐ間近で発せられているはずの声が、酷く遠くのほうでしている錯覚に陥る。あぁまた、か――。あたし耳抜き下手すぎ。口内に唾をためて、ゴクンと強く飲み込んだ。続けて二度三度同様に繰り返す。変化は訪れそうにない。

様子のおかしいあたしに冬獅郎さんはどうかしたのか、と問うた。


『ちょっとね、耳が聞こえにくくって』
「どういうことだ」
『あたし耳抜きが下手糞でね、気圧の変化に耐え切れてないの』


いまいち状況を飲み込めていない様子が分かった。耳抜きなんて、意識しなくても冬獅郎さんはできるんだろうなぁと思う。事実痛がってるそぶりなんてないし。自分の母親もそうだったが、耳抜きの出来る人物は、あたしのいう意味を理解できないらしかった。やろうと思ってするのでなく、無意識のうちにするものらしい。隣で痛がっているあたしを母親はおかしな目で見たものだ。助けて、痛みから解放して。子供のときはよくこう求めたものだ。

(さすがに今はそんな無様な恰好みせられないけど)

窓側に体をむけ、鼻を押さえた。躊躇いがちに息をふきこむ。ジリ。耳の奥で何かが破ける音がした。それに伴い鋭い痛みが、一瞬だがする。しかめた顔全体に浮かんだのは不快感。

気遣うように背中をさすってくれる冬獅郎さんの腕さえも、そちらに含まれる。それに鼻をつまんで耳抜きをする姿は、決して好きな人に見られたい姿ではない。心配してくれるのは嬉しいけれど、ほんとうのところそっとしておいて欲しい。


「また寝るのか」
『うん……ごめんなさい。やっぱり気分悪い』
「いや、別に俺のことは気にするな。それより、機内食どうする?鶏肉か、魚だって」
『たぶん、貰っても残すだけだから要らないや。冬獅郎さんだけで食べて』
「果物くらい食ったほうがいいんじゃねぇか」
『ううん。今は何にも胃に入れたくない』
「……そうか。して欲しいことがあれば、遠慮せずに言えよ」
『あたしに構わなくていいから、冬獅郎さんは勝手に楽しんでて』


けんもほろろなあたしの態度に、冬獅郎さんは気を悪くしたに違いない。最低だ。いくら気持ち悪いからといって、自分を心配してくれる人を手荒く扱って良いはずがない。程よく引き締まった膝の上で、自己嫌悪に陥る。だけどあたしは謝罪の言葉を口にする余裕もない。きちんと冬獅郎さんに謝らないと――せっかくの新婚旅行なのに。

謝らないと。謝らないと。そう頭は理解していたのに、あたしの瞼はますます重くなっていく。ごめんなさい、冬獅郎さん……。
そのまま吸い込まれるようにあたしは眠りに落ちていった。


完全に塞ぎきった目蓋を確認してから、冬獅郎は背中にそっと触れた。さきほど話題に上った機内食はもう食した。飲み物と果物は、いつ咲夏が欲してもいいように、残してある。明らかに血の気が失せた顔。よほど気分が悪いんだろう。今まで――というか、冬獅郎が経験したことがないだけかもしれないが、咲夏が人に酷く当たるのを見たことが無かった。その対象が自分であることも、驚きを増幅させた。


「これぐらいでマシになるとは思えねぇけど」


何もしないよりはマシだろう。水で冷やしたハンカチを、額へのせた。ついでに服の上に手を滑らせ、ブラのホックもはずす。んんっ。僅かに漏れてきた声に内心ドキリとした。恐る恐る名を呼んでみると、冬獅郎さん?と返事がした。

目を開かずに、咲夏は言葉を繋ぐ。薄暗い機内でライトをつけずに顔色を伺うのは難しい。


『あとどれくらいで着く?』


依然うつ伏せたまま、尋ねてきた。約二時間ほど前に画面に出てきた、現在地を思い出す。モニターには到着予定時刻が記されていた。時差を計算して考えていくと――おそらくあと一時間もないうちに着陸するだろう。しかし俺が、そう伝える前に咲夏はもう下降してるね、と顔を上げた。両耳を押さえ込み、壁によりかかる。多少回復したのか、数時間前より幾分か力のある声だった。

水の入ったコップを手に取り、少量口に含んだ。乾燥して機内では、頻繁にのどが渇く。機内は空調機の関係か、地上よりもかなり乾燥している。こまめに水分を摂取しなければ、体に良くない。それは勿論咲夏にも当てはまることで……俺の姿を横目でみたあいつは、あたしにもちょうだいと予想に反さず乞うてきた。実は離陸した直後に配られたアップルジュースがあるんだけどな、と頭の端で考えつつも、俺は滑らかに手を動かした。満足げに水を受け取ると、そのまま一気に咲夏は水を飲み干した。ダラリと零れ落ちた液体が口元を伝い、首筋を濡らす。気に留めることなくそのままの状態で咲夏は背もたれに体重を預けた。

(なんかエロいな)

垂れている水に目が釘付けになる。見せつけられた気がしてならない……のは俺だけなんだろうな。きっと。


「咲夏」
『ん。なに?……えっ』


何だか無性に名前を呼びたくなった。柔らかく艶のある肌を感じたくなった。特に意味なんてないけれど、形のいい唇を自分のそれで塞ぎたくなった。短い悲鳴が鼓膜を震えさせた頃には、すっかり腕の中に咲夏はいた。今からすること、絶対に怒られるだろうと思いつつも、後のことは意識から飛ばす。性急に俺の身体はこいつを求めた。

人前では手さえも繋いだことのない俺が、薄暗いとはいえ機内で口付けをするのは勿論初めて。柄にもなく緊張する。いつものように舌が使えない。感じてるかな?咲夏は……。そうだと嬉しいんだけど。
もたついている間に甘ったるい嬌声が咲夏の口から漏れてきた。抵抗がほぼ皆無なのをみると、嫌がってはないようだ。もしくは気分が悪くて、抵抗する気力もないか?まあいい。そっちの方が好都合。やりたいように出来る。

(可愛い)

小さく身を捩るこいつにスゲェそそられる。シートベルトはしていないから、体勢を制限されることはない。ちゅ。ちゅ。リップ音を響かせれば、たちまち瞳は羞恥の色に染まる。だけど<イヤ>とは言わせない。咲夏にはめい一杯楽しませてもらう。せっかくの新婚旅行だしな。楽しまねえと損だ。それに、俺が体を触ってたら気が紛れるだろ。実はあんまり耳痛くねえんじゃね?


『ちょっ、とうしろさ、っん』


くぐもった声が頭に響いた。あんまり煽るんじゃねーぞ。日番谷咲夏サン?




飛行チュー

(続きはホテルでな?)(なぁっ!気が早すぎでしょ!)(新婚旅行だからな)(ていうかなんでブラのホック外れて……)



過去拍手→2010/04/23~