ザーザーッ

この時期特有の雨が、俺を芯から濡らしていく――。目の前で泣いている女の体は酷く冷たかった。しかし俺はそいつに触れることが出来ない。パシっと振り払われた右手には、彼女からの明らかな拒絶の跡が残っていた。その事実を俺は受け止められないでいる。心境に呼応するかのように水気を含ん死覇装が重くなっていく感覚を、ただただ他人事のように思っていた。

俺がなにをしたっていうんだよ……?

黄梅の雨と彼女の涙が混じりあって色白の頬を濡らしていく。一本しか持ってこなかった傘を辛うじてさしてやろうとすると、その行為さえもはじかれた。泣涕し続ける彼女は何を話しかけても嗚咽を漏らすばかりだ。なんだっていうんだよ咲夏――。俺が泣かせるような事したんならいくらでも詫びるから、泣くなよ。頼むからなにか話してくれよ。


「俺が、悪いんだろ?」


依然として口を開かず、雨に打たれ続ける咲夏を抱きしめてやりたい――。それなのに、それが許されない。俺だって泣きてぇよ。お前がなにを思っているのか、全く検討がつかない。俺がどうせ、悪いんだろ。何が悪かったのかくらい、教えてくれよ。泣かれてるだけじゃ、何もわかんねぇだよ、俺、バカだから。

どれくらいこの状態が続いたのだろう……。辺りには人っ子一人いない大地で、咲夏の噎び泣く声がだけが静かにこだまする空間。居心地が悪いのは当たり前で、何も出来ずに突っ立ているだけの自分の力のなさを痛感した。


「もう、帰ろう咲夏。これ以上いるとお前が風邪引く」
『冬獅郎……くんは、いっつも、ずるい』
「……」
『普段はほったらかしのくせに、こうやってあたしが泣いてせがんだ途端優しくなって』


冷え切った指先で、俺の死覇装を縋るように握り締めた。ずぶ濡れになって、弱弱しい力で俺を掴んで、それでも声には明確な意思が宿っていて――。泣き声から零れてくる言葉に耳を傾けると、俺の不甲斐なさが露骨に姿を現した。あぁ俺はここまでこいつを追い詰めていたのか。



深夜まで俺の帰りを待って、お疲れ様と迎えてくれる咲夏。任務で重症を負った俺をなきながら、手を握り締めて心配してくれた咲夏。俺がやった簪を髪にささず、お守りの様に肌身離さず持ち歩いている咲夏。

約束を破ることなんて当たり前で、守ったほうのがきっと少ない。それでも今までやってこれたのは、総てに関して咲夏のおかけだ。いつもニコニコ笑ってるわけではなく、我慢もするけど、俺に言いたいことは遠慮しながらもはっきりという奴だった。色恋沙汰に疎く、女心の「お」の字も解からない俺にはそれがすごく有り難かった。

(桃ちゃんと二人きりにならないで)
(一日一回は必ず家に帰ってきて)
(半年に一回はあたしとデートして)

夫婦になってもう三ケタの年月が経つ。幾度となくぶつかり、その度に淋しい思いをさせ、泣かせた。それでも俺はこいつに心から幸せを与えてやりたいと思い続けている。出逢ったころから褪せない咲夏への想い。


それでも、一人では何も出来ない役立たずの俺は、いつもお前を泣かせてしまう。


『ずるいよッ。あたしばっかり情けない姿ばっか晒して、子供みたいに聞き分けのない発言しまくって……!』
「俺はそんな風に思ったことは、ない」
『冬獅郎くんはそう思わなくたって、事実なんだもん。……まわりの人たちからあたしがなんて言われているか知らないでしょ』
「……わりぃ」
『多忙な隊長を束縛する重い女、だよ』


隊長に就任してから100年間、俺はひたすら職務を全うに遂行するばかりの日々を送っていた。貴族の令嬢からの見合い話などはその間多々あったが、そのたびに特に理由もなく断り続けていた。別に特別な感情を抱いている女に出逢ったこともないため、適当に総隊長から指名されたやつと一緒になっても良かった。それでも長年、独身を保っていたのは、やはり俺にも生涯を共にしたいと願う人物が現れる可能性があると期待していたからだろうか。

(死神さま、ですよね……?)

咲夏には俺たち死神のように霊圧があったわけでも、朽木のように貴族出身だったわけでもなかった。至って平凡な流魂街の住民。そんな咲夏を久しぶりに行った流魂街での任務中に、俺は見つけた。彼女の容姿を眼球に収めた瞬間、俺は初めて強い欲に駆られた。


俺はこいつの全てが欲しい――と


それから考える間もなく体が勝手に動き、気づけば唇をうっすらと重ねていた。

(きゃっ)

目をぱちくりさせて俺を見据える咲夏を嫁にしようという考えに逢着するまでには、さほど時間を要さなかった。ほぼ強制に近い形で咲夏を瀞霊廷に連れて帰った後、すぐさま十番隊の――もちろん俺の自室に住まわせた。強引で相手の都合も考えず俺の勝手たるわがままで構成されたその行為は、通常ならば受け入れられずはずがない。しかし咲夏は違った。


『あたし言ったよね……?冬獅郎くんに初めてキスされたとき、驚きもあったけれど、それ以上に安らぎがあったって』
「あぁ」
『冬獅郎くんの腕の中にいると、あたしは安心できる。だけど離れちゃったらそれは感じられない』
「……」
『不安ばっかりに襲われて、壊れちゃうんじゃないかってくらい寂しくなって、それで……毎回毎回、冬獅郎くんに迷惑をかけて』


俺からの求婚をたったの一年で受け入れた咲夏は、次の年から正式に日番谷の姓を名乗るようになった。しかし護廷の一隊長を担う俺が、貴族でも死神でもない女を妻に娶る行為は、嫌でも騒ぎとなる。見合いを断った貴族からの圧力もあった。いきなり俺たち死神の世界へ連れてこられたこいつは、必死にここの生活に慣れようとしていた。周りからのやっかみにも耐え続け、一人で俺の空けた家を守ってきた。

負担にならないはずが、ない。当たり前だ。


『隊長さんの奥さんだからしっかりしなきゃって、だけどそう思えば思うほど空回りして』
「……咲夏」
『名前も知らない人たちから変な言いがかりつけられることとかもあって』
「……ごめん」
『あたしには冬獅郎くんしかいないのに、冬獅郎くんはずっと家に帰って来なくって』


ごめん、すまない――咲夏。浮かんでくるのは謝罪の言葉ばかり。俺やっぱり馬鹿なんだよ。仕事は出来ても好きな女さえ満足に支えてやれない、役立たずなんだ。少し考えれば誰だって気づくはずなのに。俺は言葉にされないと見えないまま。

家に独りきりでいるのが辛かっただろう。知り合いがいなくて心細かったろう。今までと勝手が違って戸惑ったろう。
唯一頼れるはずの夫は仕事でいつもそばにいない。ひとりぼっちの孤独な生活。――そりゃ泣きたくもなるよな、咲夏?


抱きしめた咲夏の体温は想像以上に冷たく、このまま消えてしまうんじゃねぇかって感じるほど儚げだった。


『隊長さんがそう頻繁に休みをとれないのも分かってる』
「……」
『でも寂しいんだもん。何年も何十年もあたしは家に隠りっぱなしで、もう嫌なの』
「……」
『あたしッ』


(流魂街に帰りたい……!)

そう続くであろう言葉を、俺は聞き入れたくなくて、激しく口を合わせた。手から滑り落ちた傘が地面とあたる音がした。逃げたって消えるわけじゃない。綺麗に溶けてなくなりはしない。咲夏の中でしこりとなって、蝕むだろう。今聞かなくたっていずれ、必ずその言葉を耳にするだろう。咲夏の悲痛な叫び声を、俺はつぶそうとしている。最低な男だ。誰に言われずとも分かっている。俺は、ズルイ。

身を知る雨が、俺の頬に降り注ぐ。冷たい雨と生暖かい塩分の含んだ物質が交じり合う。


『なんで、なんで……』
「ごめん」
『なんで、冬獅郎くんまで……泣くのよ』
「行かないでくれ」


行くな、俺の元から離れるな。俺のそばにいるって結婚するとき約束したじゃねぇか……!どうにか咲夏を繋ぎとめようと、言葉を羅列して足掻く。傍にいないのも俺で、約束破ってんのもこの俺。今更、こいつにすがる権利なんて俺にはない。それでも、もう遅すぎるけれど、失った時間は戻らないけど、俺は一人じゃなんにも出来ない無能なやつだけど

咲夏がいないとダメなんだ。


「俺は――お前がいないとダメな男になっちまう」


ザーザーッ

肌にへばりつく死覇装を握り締めた咲夏はゆっくりと手をはずし、俺の胸板を軽く叩いた。無気力な、何の意思も感じられない脱力したような、そんな行為。


『……ずるいずるいずるい。あたしがいなくたって冬獅郎くんは何だって出来ちゃうくせに』
「……」
『そんなこと言われたら、離れられなくなちゃうよ』










たまゆらの忘却

何もかも……今まであったつらい事すべて、冬獅郎くんの言葉で忘れてしまう。だけど、あたしは知っている。それはほんの短い時間だけで、いつもどおりの生活に戻ればまたあれを繰り返すだけってことを。


(愛してる――。俺、本当に咲夏が好きだから)


しだいに雨脚が遠ざかる中あたしは冬獅郎くんに身体を預けながら、変えることの出来ない関係を噛み締めた。もっとも……そんな風に冬獅郎くんの言葉を曲解して、被害者ぶるあたしは、きっと冬獅郎くん以上にズルい女だ。





*あとがき*
なんだか自分のテンション同様暗めの小説になってしまいました。いきなり流魂街から嫁いできたヒロインちゃんを頑張って書いたつもりです。自分がわがままを言うことで日番谷くんの評判が落ちたらどうしようとか、色々悩んでるんだと思います。分かりづらくてゴメンナサイ。

2010/06/12