相互記念・紅椏様へ






昨夜は久しぶりに空が晴れていた。不気味なほど綺麗な満月が辺りを照らす。月光が俺を露わにした。隣にいる女は目を閉じていた。俺はそっと縁側に出て、汚れた胸に手を当てた。浮かんでくる彼女の顔が酷く歪んでいることに慣れてしまった俺は、本当に最低な男だ。





『冬獅郎くん』


びくりと心音が跳ね上がった。たったの一日会わなかっただけなのに、匂う香水の変化や、髪のくくり方の違いに不安が募る。おかしな話だ。昨日家に帰らなかったのは俺の意思で、しかもその理由というのが他の女と一緒に居たから。最低極まりない行為だというのは百も承知している。愛する恋人を裏切りズタズタに傷つける行為。浮気をする前はそういう奴らを軽蔑していた。自分がするとは夢にも思わなかったし、どういう気持ちで行為に及ぶのか見当もつかなかった。しかし今は何かに取り憑かれたように、それに没頭している。正常とはほど遠い今の俺は、もう咲夏の隣に居るわけにはいかない。俺が今の恋人とという関係を続けたいのならば、他の女との縁を切るべきだ。向かうから誘ってきたから、は言い訳にもならない。それで許される行為かといえば違うに決まっているが、それでも先ずはそれから始めなければ意味がない。しかしどうしてか……踏ん切りがつかない。ずるずると引きずり、絶つこと出来ない。頭では分かってるのに。


『今日も遅くなりそうですね』
「まぁ松本の、出来次第だろうな」
『ふふっいつも通りですね。夕食作って待っててもいいですか?』
「……」


俺には勿体無いくらい、こいつは良い女だ。自分の元部下であるため贔屓目にとってしまっているかもしれないが、咲夏は俺にとって自慢の女だった。歳は軽く見積もっても100は違う。向こうから見れば、餓鬼の戯れ言に過ぎないであろう無様な告白を真摯に受け止め、数年を経た後に承け入れてくれた。好かれている自信なんて、付き合い出した時から相変わらず微塵もない。どちらかといえば《付き合って貰ってる》に等しいかもしれない。もしかして咲夏は俺が上司だから断れないのか、拒めないのか。そんな可能性が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。いや……今は消滅せずにふわりと浮遊している状態か。俺が誇れるものは隊長という名の権力程度で、男として胸を張れる要素なんぞあっても一つや二つ。咲夏に似合う男というのは、何事にも落ち着いていて、惨めな嫉妬心は抱かないくらい精神的に余裕があって、身長が高くて強くって。そういう非の打ち所がない立派なやつが隣にいるべきだと思う。というのも彼女が非の打ち所のない人間そのものだからであり、何度約束を破綻させようと何度身勝手な制約を結ばせようと、彼女は一度も俺を責めようとはしない。そういう時もありますよ、と微笑みかけ俺を抱き締めてくれる。母親のいない俺にとってそれは心がこそばゆくなるような不思議な感覚をもたらし、しかしそれが酷く自分を落ち着かせ安定させているのを実感していた。俺は恋人と母親という二つの存在を同時に彼女へ求めていたのかもしれない。

(俺は不釣り合いな男だ)

迷惑ばかりかけて失敗ばかりして、彼女を喜ばせることが満足に出来ない。でも俺はやっぱりこれから先も彼女に微笑みかけ、抱き締めて貰いたい。だから……今日で終わりにしよう。本当に今日でこの関係を清算しよう。俺は咲夏と一緒に生きたい。隣で生きて笑い合いたい。そのためにも自分の口できちんと告おう。


「今日……大事な話がある」
『?』
「必ず帰る。だから待っててくれ」


振り絞るように発した声は自分でも驚くほど弱々しかった。惨めなほど頼りなかった。咲夏の前ではいつもいつも俺は脆弱な子供に戻ってしまう気がする。だけどこれが本来の俺なんだろう。飾らないと背伸びしないと彼女に幻滅されそうだからといって作り上げた自分。もう終わりにしたい。俺はありのままを愛されたい。だけど、すっと首を撫でる彼女の手が、どうしようもなく勿体無いなく感じしまって。俺はそんな扱いを受けるべき存在ではないことをまざまざと痛感して。拭えない罪悪感は止まることをしらない。彼女は知っているのだろうか、あれだけあからさまに浮気していたのだから知っていてもおかしくない。それでも尚、俺に優しく接する手は何を意味するのか、知りたかった。








『お帰りなさいませ』


先ほど数年間俺の自分勝手な自己愛のために付き合ってくれていた女と話をつけた。そいつは俺に文句も不満も一言もいわず「咲夏さんと幸せになって下さい」とだけ告げられた。あっさりと身をひく姿に当惑した俺に、利用してすみませんでした、とも。結局俺がどうしてこんな行為に及んだのか、動機を取りこぼすことなく理解していたのだろう。どこまでも最低な男だな、俺は。束の間の放心の後、我に返る。俺のためにこんなにも綺麗に受け入れてくれたそいつに感謝をして、そっと部屋を出た。もう二度と来ることのない場所。俺が犯した罪が残る場所。彼女を愛することはなかったけれど、誰かに必要とされる存在でいられたという事実は、確かに俺の心に安らぎを与えていた。でも俺が本当に必要とされたいのは、他でもなく咲夏ひとりだ。今度こそは間違えることなく、真っ直ぐに愛そう。

約束通り仕事を終え、咲夏の好きな菓子を片手に家へ帰った。優しい声色で俺を迎える姿に不覚にも涙が出そうになった。それだけの行為にどうして彼女はこうまでも俺の欲しい言葉を欲しい時にくれるのか。俺に多大な幸福を齎してくれるのか。愛おしい愛おしくて堪らない。だけれども自分の不甲斐ない部分や弱い姿を晒したくもない。いつも穢れがなく綺麗な、そんな自分でいたかった。だけど実際の俺はそれから遠くかけ離れた、俺が最も嫌う《裏切り》行為を簡単にしてしまうような人間なんだ。彼女は総てを受け入れてくれるのか、俺なんかの?まさかな。そんな単純な話ではない。全て俺の未熟さが招いたことなのだから、悪いのは全部俺の方だ。


「俺は今まで、ずっと咲夏に隠してきた事があった」
『冬獅郎くん……』
「多分、もう気づいていると思うが」
『……』
「その、俺は」




(浮気してたんですよね?)


躊躇って口に出来なかった一言を、彼女は俺を遮るようにしてゆっくり囁いた。そして俺の肩に顔を埋め、体を引き寄せたあと、そっと唇に触れた。やっぱり気づいていたのかと思うと同時に、ならばどうしてキスなんかするんだよという疑問が入れ替わるように湧いてくる。抱き締められた腕が首にまわされて、それからもう一度唇が塞がれた。俺の思考をいとも簡単に奪っていく。うっすらと目を開けると、そこには咲夏が泣きそうになりながらも、だけどどこか安堵したような、そんな複雑な顔して微笑んでいた。いつもどんな時でも彼女はまぶしすぎるほど綺麗に笑う。俺には到底真似できない、無理だ。こんな状況でどうして相手を罵らず、微笑んでくれるんだよ。


『そんな顔しないで?冬獅郎くんは何も悪くないんだから』
「違う!俺が勝手に」
『私に不釣合いだとか、私に申し訳ないとか、そういうことで悩んでたの……ずっと知ってた』
「え?」
『無理して大人ぶってるのも我慢してるのも全部全部気づいてた』


でも私は気づかない振りをした。貴方がそうやって悩む姿を見た時が一番、愛されていることを実感できたときだったから。私みたいな年の離れた人のこと、本気で好きでいてくれる自信なんてなかった。私も貴方と同じでずっと貴方に愛されたかった。でも関係が不安定すぎて怖かった。だけどその不安定さが貴方を悩ませ、私に安心を与えていた。あぁ、まだ冬獅郎くんは私を好きでいてくれているんだって。貴方が私のことで苦しむ姿が私にとっては一番の愛の形だったのかもしれない。浮気のときも同じ。家に帰ってきて罪悪感に苛まれて、辛そうな顔をする冬獅郎くんを見て、私はちょっと安心してた。許して欲しそうに乞う瞳に、私は安堵した。でもそれは本当の愛じゃない歪んだ利己的な偽りの愛。私がもっと早く言えば良かったのよ。付き合っているのは私の本心だって。決して上司だからとか、そういう理由ではなくて、私の本心で貴方と付き合っているんだと。そうしていれば冬獅郎くんは苦しまずに、真っ直ぐに私を愛してくれたかもしれない。どちらかが負い目を感じて遠慮するなんて本当の恋人とは言えない。私たちは対等なんだから。
勇気が出ずに怖くて逃げて、背伸びしてたのはお互い様。私は貴方が考えているほど完璧な人間ではないの。だからね、冬獅郎くんが勇気をだして打ち明けてくれたんだから、今度は私からちゃんと言うね……


『私と付き合って下さい』


初めて咲夏が心の中をさらけ出してくれたと思う。微笑むだけの彼女の言葉はしっかりと響いてきた。俺が全部悪いのに責めないところはやっぱり彼女らしいが、それでも以前と違って吹っ切れたような清々しさが伝わってくる。互いに遠慮し合うのではなく、双方が相手を包み込んでいる感覚がした。それはまさに長年俺が夢見ていた光景だった。俺はお前と同じ目線でものを見たかったんだな。
胸に問いかける。きちんとやり直せるのか、俺は?同じ過ちを犯さないか?咲夏を傷つけたりはしないか?俺が素直に言葉を口にすれば……。


「俺はお前よりも人生経験が少ないし、まだまだ未熟な男だが」
『……』
「咲夏を幸せにしたいって気持ちは本物なんだ」
『うん……ニ人で一緒に幸せになろうね』





極夜に終末の杭を打つ
僅かに欠けた月が俺たちを優しく包み込んでくれたような気がした






*あとがき*
まず初めに紅椏さま相互記念遅くなってすみません。そしてなんだか無理やりな展開もすみません。日番谷くんて絶対に真面目だから浮気しないだろうな、を前提として書くと気づけばこんな感じに(汗)年上の落ち着いた女性と年下で焦る日番谷隊長?でも不釣り合いだって思ってると気持ちは不安定で危ういだろうと。申し訳なさとかが付き合ってるのに混じってる関係はちょっと悲しいなと。それを清算して、どちらにも自分の意思でこの人と一緒にいる、ってことを分かり合う場面を書きたかったんです。でもあんまりかな?下手ですみません。そして浮気ネタという珍しい体験をさせて下さいました紅椏さま、こんなんで本当に申し訳ないですが、私の頭だとこれが限界です><紅椏さまのような小説を書ければ良かったのですが、トホホな感じです。苦情は受け付けますのでお気軽にメールでもください。ほんとすみません。


20110627