辺りが徐々に薄暗くなり、部活を終えた生徒たちがぞくぞくと校門をくぐる様子を、咲夏は無表情で眺めていた。教室内には自分以外誰もいない。あるのは今朝作り終えたばかりのホールケーキと鞄のみ。

(来てくれない――か)

誰もいない教室に、咲夏の影だけがうっすらと映し出されていた。







「日番谷はん、悪いけど今日もよろしく頼まれてくれへん?」


放課後、部活帰りにふらりと寄って来た同級生を冬獅郎は即座に睨んだ。肩に置かれた手を、乱暴に払う。

冷たいなぁ、と後ろでこれ見よがしに聞こえる声を無視し、すたすたと足早に靴箱へ向かう。もうこれで何度目だ。問い詰めたくなったが、コイツに聞いても無駄だと思って止めにした。


「ボク。抜けられへん用がさっき急に入ってしもうたんやぁ。せやから咲夏んとこには行けないんよ」
「だからなんだ」
「咲夏にその事連絡しといてくれへん?」
「それ位のこと自分の口から言え」
「酷いわぁ。ボクに本当のこと言われたら、悲しむんは咲夏やろ?あの子の泣き顔、ボク苦手やねん」
「俺には関係ないことだ」


しつこく自分に話し掛けてくるギンに、より一層睨みを利かせる。自分の彼女の面倒を俺に押し付けるな。言わずとも容易に理解出来る事柄を、この男はわざわざ聞いてくる。

(こんな奴のどこかいいんだか)

悪態を吐いてもギンの表情は決して変わりはしない。この男は何ヶ月も前から約束していた彼女の楽しみを、その日の電話一本で簡単に破ろうとする。どうせ大した用でもないくせに。大方別の女のことだろう。

コイツが渡嘉敷の期待を裏切る時はほとんどの原因が自分の女関係にある。つくづくサイテーな野郎だと、俺は思う。


「なぁお願いやで日番谷はん。こんなん頼めるん、君しかおらんのや。咲夏に一言行けへんようなったって伝えてぇな」
「……」
「それとも、日番谷はんは――咲夏の悲しむ顔が見たいん?」


スゥと開かれる水色の瞳。普段から飄々とした態度の市丸がこの瞳を開くと、俺は何故だか不気味に感じる。おそらくそう思うのは俺だけではないハズだ。その原因はコイツは何を考えているのかさっぱり分からないところにあると思う。
俺と渡嘉敷は、市丸が気まぐれで頼む伝言を告げる方か告げられる方か希薄な関係。そんな奴が悲しもうが嬉しがろうが、正直なんとも思わない。

(なのに、なぜコイツはこんなことを?)


「じゃあよろしゅうな」
「おい!ちょっと待て!!市丸!市丸ッ!……っそ」


自分の彼女にくらい自分で連絡を取れ。なんで毎回毎回こう、いつも俺に押し付ける?渡嘉敷を大事に思ってないのなら、アイツの為にも別れればいいんだ。


既にどこかへと去っていたギンを冬獅郎は忌々しく見つめた。そこに奴がいた痕跡は、ない。

追いかける気力がないのか、これくらいなら手伝ってやってもいいと思っているのか、またはそれとは他に何か理由があるのか。検討もつかなかったが、何故か市丸にそう頼まれれば引き受けてしまう自分がいた。


「仕方ない。……行くか」


先ほどまで歩いてきた廊下を冬獅郎はゆっくりと引き返した。コツコツと自分の足音が廊下に響いた。

渡嘉敷が市丸と《別れたい》と切り出せば、市丸は引き止めることなくすんなりと承諾するだろう。渡嘉敷が一言伝えれば済む話。
――それを行わない理由はどこにあるのか。理解しかねる。

(他にも良い男なんてごまんといるのに)


バカなやつ。自然とそんな言葉が浮かんだ。本当に馬鹿な奴。黙っていればキツい性格も、上から目線の発言も気にならないくらい綺麗な女なのに。つっても俺には関係のないこと。さっさと用を済ませて、帰るとするか。
少し躊躇ってから、俺は思い切り渡嘉敷のいる教室の戸を開けた。そこには予想通り、一人で市丸が来るのを待っている女の姿があった。


『あ、……日番谷』


別段驚くことなく、渡嘉敷は俺の方を向いた。あぁまたか、と少し頷いたように見えたのは俺の気のせいでもなさそうだ。聡明な彼女のことだ。俺がここへ来た理由くらいすでに察しがついているんだろう。

(市丸が来ないことに慣れちまってる)

机いっぱいに広げられている色とりどりのケーキを、ゆっくりと皿によそった。


『味は保障するけど、日番谷もいる?』
「悪いが甘いものは苦手だ」
『そう。ギンね、ああ見えて甘いものすきなのよ』
「そうか……」


市丸ではなく俺が来れば、その日は奴が来ない。言葉にせずとも、俺がここに来るだけでそのことが伝わる。そしていつもならここで帰る。長居しても仕方がないのだから当たり前だ。

なのに、
今日はなぜかそんな気になれなかった。もう少しここに留まりたかった。なぜだ?普段なら関わりたくないと思う人物なのに。俺は自分の行動に矛盾を感じながらも渡嘉敷の前に座った。

ケーキにフォークをいれ、口にする。たったそれだけの動作に気品を感じた。市丸には勿体無さすぎる。

――そして繰り返し浮かんでくるのが


(ばかなやつ)


そんな揶揄を含んだ残酷な言葉

渡嘉敷はすべてを承知で市丸を受け入れている。どれだけ嘘を吐かれ、待たされ、浮気されても、それが《市丸ギン》だと割り切って付き合っている。

(その時、俺はそんな浅はかな考えしか浮かんでこなかった)


『今あたしのこと馬鹿な女だって思ったでしょ』
「……」
『びっくりした?日番谷って結構考えてること顔に出てるわよ』


何事もなかったように淡々と渡嘉敷はケーキを口に運ぶ。お前なんでそんな普通でいられるんだよ。市丸に、彼氏に、約束すっぽかされてるんだぞ?しかも一度や二度じゃない。もう何十回も、だ。
このケーキだって、きっとあいつのために作っただろうに。


それから一言も言葉を交わすことなく、俺たちは教室で一時間ほどを過ごした。黙々と手を動かしてケーキを口に入れる渡嘉敷と、それを呆然と眺めている俺。

(もう、こんな時間か)

気づいた時はもう外はすっかり闇に呑まれいた。人っ子一人いないような閑静な学校に俺と渡嘉敷がいる。

さすがにそろそろ帰らないとまずいか。そう思ったがなかなか簡単に俺の口はどういうわけか、言うことを聞いてくれなかった。







「……」
『……』
「……」
『――あたしね』


約一時間半あったこの沈黙に終止符を打ったのはやっぱり渡嘉敷の方だった。


『日番谷ってさ、もっと気の利く人だと思っていたわ』
「はぁ?」
『案外、気の利かない人なのね』


久々に発した声の調子がおかしくないか少し心配だった。が、それよりも渡嘉敷の妙な発言に俺は眉をひそめた。

自分のことを気の利いた人間だと思ったことはないが、それほど鈍い人間ではないと自負している――つもりだ。


「どういう……なっ!?」


聞き返そうとした言葉は、最期まで発せられることはなかった。なぜなら。




顔を上げた彼女の目には、大粒の涙が溜まっていたのだ。

まさか、と思った。渡嘉敷は普段の様子から決して泣くような人柄じゃなかったし、現にどれだけ市丸に酷くされても影で泣いたという噂を耳にしたことはなかった。


それでも目の前のやつの頬に伝う液体は紛れもなく、涙そのもの。


「おい渡嘉敷……」
『見なかったことにして』
「?」
『あたしは人前で泣かないって決めてるの』


体を横に向け、渡嘉敷は慌てて顔をぬぐった。ごしごしと何度も目を擦るが、それに呼応するように涙は量を増していく。

(あの子の泣き顔、ボク苦手やねん)

数時間前に市丸が言った言葉が頭の中をこだまする。もしかして、こいつ――ッ


「市丸のせいか?」
「市丸がお前の泣くの見るの嫌だっつったから」
「いつもお前は無理してんのか?」


自分でも驚くほど、低い声が出た。滅多に驚かない渡嘉敷の肩がわずかに揺れた。……そして確信する。

(こいつは市丸がああ言ったから、独りで泣いているんだと)

考えてみれば簡単なことだった。


市丸が来ないことを告げた俺はいつもその場で、渡嘉敷を放置していた。関わりたくない気持ち半分、面倒な気持ち半分で。
その強気な性格と、上から目線の口調から、渡嘉敷は女受けはよくない。そんな奴が独りで教室に残って市丸を待っていたって声を掛けるやつはいない。

当たり前だ。俺が出て行った後、こいつがどうしていたか知らないのは。


「いつも独りで泣いてんのか」


無性に腹が立った。市丸はあいつは、こんな些細なことまでも渡嘉敷を縛っている。人前で泣けないように、苦しめて、傷つけて、それでいて平気な顔していやがる。


だけど

市丸のいうことも判らなくはない、と素直に思える俺も同時に存在していた。 


『そんなの、あたしの勝手よ』


こいつの泣き顔はあまりも儚すぎる。触れてしまえば、その部分から壊れてしまいそうで……危うい。いや、むしろこれは恐怖に近い。

(だが、それでいて、美しい)

正直泣く女は面倒だ。むこうが悪いのに、自分が悪者のような錯覚に陥る。だけど渡嘉敷の場合はそんなことは微塵も感じられなかった。

単純にきれいだな、って。すんなりと言葉にできる。


きっと市丸も、この――人を惹きつける涙は苦手なんだろう。


『あたしが泣こうが喚こうが日番谷に関係ないでしょ』
「いいや、ある」
『……』
「市丸にいつも言伝を頼まれる。はっきり言って迷惑だ」


どうしてお前は市丸に愛されないんだろうな?
どうしてお前は市丸に嘘吐かれるんだろうな?


本当はそんなことばかり考えてるんじゃねぇのか渡嘉敷。だってそうだろ。お前はこんなにも市丸を愛しているっていうのに。

(明らか一方通行だ)


「あいつはお前のこと都合のいい女くらいにしか思ってねぇよ」
『知ってるわよ、そんなこと。ずっと前から……』


自分でも凄い酷いことを言ってるのがわかった。本来俺はこんなところまで口出しする権利を持っていない。

(でも目の前で泣いている女をほっとけなかった)


『分かってる。ギンにとってあたしは居ても居なくても何の変わりもない存在だってこと』
<別れて>
『何度も言おうと思ったわ』
<大嫌い>
『本当はもうずっと前からギンから離れたかった』
<だけど>
『偶にみせるギンの優しさに、あたしは……勝てないのよ』


日番谷の言うとおりあたしはバカな女よ。唇を血が滲み出るほど、強く噛んだ渡嘉敷はそう言った。

それから渡嘉敷は魂が抜けたようにぼんやりと、外を見ている。……涙の跡をくっきり残して。


「これ、貰うぞ」


見回りに来た守衛を適当に誤魔化して、俺は市丸のために作った最後のケーキを口に含んだ。 


「美味いよ、これ」


口に広がったのは甘さだけでなく、仄かにしょっぱさが混じっていた気がするのは、きっと……俺の気のせいだ。






泡沫人の泪
(家、送ろうか?)(結構)(あたしはそんなに弱くないわ)






*あとがき*
強気ヒロインと軽い市丸隊長。それを他人事だと思っていたのだけど、いつの間にかヒロインに惹かれている日番谷くん。みたいな?

あと藍ちゃん、今回は素敵な企画に参加させてくれてありがとね!もう少しマシな文になるかと思ったけど、やっぱ無理だった(笑)


企画サイト様→くしゃみ
2010/02/14