ニッコリと0円スマイルで接客してくれたお兄さんの手から、アタシはグラスを受け取った。向かいの席に腰掛けている銀髪の男は彼に目もくれず、注文したワインをグラスに注ぐ。なんて無愛想なヤツ。と思いつつ、アタシはお得意の猫被りスマイルで「ありがとう」とお礼を言った。うわ、よく観るとこの人めちゃタイプ。あーあぁ!もうちょっとしっかり化粧してこれば良かったかも。日番谷とディナーする時はどうしてもこうなっちゃうんだよな……と去っていくイケメン定員さんを眺めながら、気の抜けた格好の自分に少し自己嫌悪した。

一方で四六時中ポーカーフェイスのこの男は、アタシを待たず既にワインを口に含んでいた。おいコラ。普通は乾杯してからに決まってんでしょうが、非常識人!てめぇは礼儀というものが欠落してんだよ。


『アタシに無断で勝手に飲むな、日番谷!』
「あ?なんでお前にいちいち断らなくちゃなんねぇんだ」
『祝いの席では乾杯してから飲むのがマナーでしょうが』
「ばーか。誰かさんの失恋祝いに毎度付き合わされてる俺の身にもなってみろ。乾杯する前にグダグダ愚痴られて結局飲み始めるのが一時間後になることくらい、最初から分かってんだよ」
『仕方ないでしょ!あいつのこと思い出すだけで、マジむかつくんだから。つーか今回は失恋じゃないし。アタシが振ったんだし』


そう……今回は珍しくアタシから別れを切り出した。今までだったら絶対になかったことだ。好きなヒトには尽くしたいタイプの典型的なアタシはよく重いと言われ振られる。今まで付き合った男の9割以上はそれが原因だ。でも今回は違う。今回はこれまでの失敗から学んで、重くなり過ぎないよう日々心掛けて付き合った。周りからも、あんたにしては珍しい、とまで言わせる程に。あいつと幸せになりたくって嫌われたくなくって、結婚まで考えたほどにアタシはあいつに対し本気で、誰がみても自慢できる完璧な彼女でいた。それなのに、悪びれもなく他の女作るから。ケータイもう一個作って、下手な嘘で誤魔化すから。挙げ句の果てに手まで上げるから。

許容範囲を堂々と超えたあいつにアタシは呆れ果てて、付き合っているのが馬鹿らしくなったのが別れた主な理由。あのままの状態でいたって幸せを掴めやしない。悟ったアタシはさっさと荷物をまとめ、高校時代の友人である日番谷の元へ転がり込んだ。賃貸を探すまでホテル生活のような贅沢をできる余裕はアタシにはない。一介のOLごときでは無断使いできないのは当たり前。というのはあながち間違いではないのだけど、本音を言えば日番谷の高級邸宅に住んでみたかったのだ。おそらくアタシの下心くらいこの男にはお見通しだったはずだが長年の付き合いからか、めんどくせぇー、の一言で家に上げてくれた。
一通り日番谷宅を散策すると、まるでアタシのために用意したのではないかと錯覚するくらい、アタシ好みの部屋が一つ存在していた。家具やベッドを始めとして、周りの細かい小物までもがアタシの好きな装飾だ。日番谷にこんな可愛らしい趣味があるとは意外だ――っていうのは冗談で、まあ多分彼女さんのお泊まり部屋なんでしょうな〜と予想して立ち去った。適当な部屋を選べと言われたものの、綺麗に整頓されすぎた部屋はどうもがさつなアタシに合いそうもない。そんなこんなでウロウロしていると、いつの間にか持ってきたボストンバッグが行方不明になっていた。えェ!と捜索しだした頃には既にそれは、あのアタシ好みの部屋に置かれていて……さも当然だと言う口振りで日番谷は「勝手にうろちょろすんな。つーかここ以外は貸す気ねぇぞ」と呆けているアタシの背中を押した。

それから分かったことなんだけど、日番谷はモテモテで女に困る訳ない筈なのに今はちょうど彼女さんがいないらしかった。この前……と言っても半年くらい前のことだけど、黒髪お団子で清純そうな子とは別れたんだな、と思うとちょっと笑える。あの子完全に日番谷に依存してたっぽいし。なんかお気の毒だ。


「つーか渡嘉敷、卵焼き下手すぎだ。料理の出来ない女はNGのヤツには瞬間でアウトだろ」
『黙れ日番谷。アタシは卵焼き派じゃなくて目玉焼き派なの!目玉焼きの半熟加減とかプロってるから。今度作ってぐうの音もでないほど、アタシの神テクニックを見せ付けてあげるわ』
「へいへい。お好きにどうぞ」


泊めてもらう代わりにと、アタシはその夜から日番谷の食事を受け持つことになった。料理の出来ない女は男受けが良くないと勝手に思い込んでいたため、事実その通りだったわけだけど、アタシは彼氏に下手だとは感ずかれない程度にちょっとした料理はできた。ただ彼氏に対する気持ちと日番谷に対する気持ちは別次元にあることは間違いなくて……どうも最近は前のようにうまくはいかない。つまらないミスをしては、不味いと日番谷に文句を言われる始末。だいたい料理は女がするとかいう考えは時代遅れだっつーの。家事も仕事も男女平等!男も見てないで少しは手伝え。と反論したいのは山々なんだけど、この無愛想な男はなんと料理も完璧にこなしてしまうのだ。一度残業で帰ってくるのが深夜になった時に労ってくれたパエリアは認めたくないけれど、アタシの数倍旨かった。


『てかさー好きになるのに理由は要らないんだったら、嫌いになるのにだって理由は要らないよね普通』
「別れるとき揉めたのかよ」
『それはもう、めっちゃくちゃ!ビンタされたあと泣かれて抱きつかれてさ……あれは自分の元彼ながら酷かった』


すッと何の前触れもなく日番谷の手が頬に触れた。数ヶ月前に叩かれた場所を、優しい手つきで撫でる。恋人同士でもないアタシたちが恋人同士がするような行為を不自然なくしている。アタシは不思議とその行為に違和感を抱かないし、日番谷が付き合ってもいない女の頬に触れることは別に特別なことではないのだと思う。あの時はファンデで隠して出勤していたけれど、今ではすっかり元通りになったアタシのほっぺた。ほんと跡が残らなくって良かったよ。あんなの初めてだったからまだ幸いだったけど、二度三度となれば完全にDVじゃん。ねぇ?


『女に手を上げるとか最低。しかもそのあと平気な顔して、もう一回やり直そう、とか信じられない』
「まあな」
『アタシは暴力を奮う男を好きでいるような不幸中毒者じゃないし』


次々と運び込まれてくる、フレンチ料理を食しながらアタシはひたすら元彼のアリエナイ話を愚痴りまくった。携帯にロックかけるとか、怪しいと思わない?アタシ放っておいて合コン行くってどうよ?その上、別れるときの「嫌いになった理由教えて」とかもう本当に有り得ない。てめぇの行動以外になんの原因があると思ってんだ。あああーあ!思い出しただけでムカつく。ムカつく。今度会ったら、いや一生あんなタラシには会わないつもりだけど、万が一にも億が一にも出会ったらその時はぶん殴ってやる。だいたいアタシだってもう27だっつーの。アラサーよアラサー!そろそろ結婚したいお年頃なわけ。計画性や将来性のクソもないあんな奴となんてさっさと別れちゃえば良かったんだ。この二年間でアタシの婚期が過ぎてたらどうしてくれんの、って話よ。
その点、日番谷はいいよなぁ。まず第一顔が整いすぎてるし。エリートだし。年収なんか聞いた事ないけど軽く1000万くらい超えてそうだ。いや、絶対超えてないとあんな高級邸宅を維持できないだろ。しかも今は彼女いないし。奥さんも子供もいない独身の男が、高額の金持ってどこに金懸けるんだか。要らないんだったらアタシに恵んでくれ。身長がイマイチ低いってのが、唯一の欠点だけど、それも汚点というほどのことではない。こうやって考えるとアタシの選んだ男は過去も今もどうしようもない男ばっかりだな……比較対象のレベルが高すぎるのもあると思うけど、これは酷すぎるぞ。

ん。もしかしてアタシは俗に言う「ダメ男」に惹かれるのか!?え?うそぉー!


「気づいてなかったのかよ。つーか、周りに聞いてみろ。お前はそういう趣味なんだって解釈してる奴がほとんどだ」
『マジ?』
「まじ。正直、今更って感じだ」


メインディッシュを食べ終えた日番谷はナイフとフォークを4時20分の位置に揃えた。斜め後ろに座っている女の子たちがチラチラと日番谷を盗み見ている。見るからにお給料奮発して頑張って着飾りましたって感じの初々しさが漂っている。う〜ん、やはり銀髪は人目を惹くんだな。でもこいつ付き合うのも別れるのも本当に気紛れとしか云いようがない奴だから、止めといた方がいいよ?今まで何人の女な毒牙にやられたことか。まぁ目の保養には持ってこいだけどね。お皿が下げられるまでの間、アタシはキャッキャッとはしゃいでいる女の子の反応を楽しんだ。

半年に一回、アタシは気紛れで日番谷と夜に会う。内容は至って下らない恋愛話。しかもアタシの一方的な。基本的に日番谷は、またかよ、的な冷たい視線を送ってくるだけだけど文句も言わず毎回付き合ってくれる。悪酔いしたアタシを家まで届けてくれるのもお約束。アタシはこんな高級感溢れるお店で普段は食事をしないのだけど、というか本音ではこの会合ももっとワイワイガヤガヤした居酒屋で充分なのだけど、一緒にご飯行こうと誘えばいつもビルの最上階にあるようなお高いお店を指定する。アタシだってもうキャピキャピした高校生じゃない、大人の女性だ。テーブルマナーだって、正装だってきちんと理解している。こういう場所へ上司に連れられてきた経験もある。偶にボーナスが入った時とかには同僚と久々に行ってみよっかと会話する。だけどやっぱり半年に一度会うか会わないかの友人と喋るだけには勿体なさすぎると思ってしまうのだ。もっと特別な何かがあるとき、もしくは大事な人を時間を共有するとき。そんな時にこういう洒落た雰囲気のレストランに行くべきだと。別にアタシはこの場に不釣り合いな格好をしている訳じゃない。気の抜けた格好と言えど、ふつーに綺麗にしている域だと自負している。でもなぁこんなに良い待遇受けられる程アタシは、残念ながら良い女じゃないんだよね……。というかお金かけ過ぎでしょ、アタシ程度の女に。もっと上品で言葉遣いもキレイな子と来た方が、日番谷にとっても良いはずだ。口を開けばどうしようもなく下らない失恋話する友人とディナーなんて、アタシならお断りだ。それをこの男は返品どころか毎回購入してくれるのだ。
実際のところ日番谷の不可解な態度に気が引けて「俺が払うから」と言われても、結局半分は自分が出している。あんた毎回アタシの誘いに乗ってくるけど、そんな暇人なわけ?違うでしょ。有給なんて取ろうとも思わないけど、実際は取れないに近いって言ってたじゃん。一流企業の部長さまが、二流でそれもちょっとプライドの高い扱いにくい女と食事して楽しいわけないでしょ?同級生だったからで済まされる範疇はとうに超えているわよ。つーかいい加減気づけ!あんたが毎回毎回性懲りもなくアタシのグダグダ会話に付き合うから。こっちも味をしめて抜け出せなくなるのよ。半年経ったらポツンと碧の瞳が浮かんできて、あ〜日番谷に会いたいな、って思っちゃうわけ。

っていても。もう今じゃそんなことチマチマ考えているようなアタシじゃないわけだけど。飲むときは飲んで、割勘。遠慮も何も、アタシが半分出してんだから関係ないわけだしね。


『そういえばさ、日番谷はいつ別れたわけ?あのお団子ちゃんと』
「団子?」
『ほらっ無垢そうな顔して、実はベッドの上では積極的だっていう。確か名前は果物みたいな感じだったような』
「あぁ……雛森とは、確か今年に入ってすぐだったっけか」
『え、じゃあ付き合って3ヶ月で別れたことになるじゃん。はぁ、あんたも罪なやつ。予想はしてたけど』
「根拠はなんだよ?」
『人前で日番谷のこと、シロちゃん、とか言う子嫌いでしょ。なんか傍から見て、頭悪そうにみえるし』

「……まぁな」


日番谷は知的な女の子が好き。なんだとアタシは勝手に想像している。というのも、今まで日番谷が付き合ってきた女の子はどちらかというと美人で頭の良い子、具体的には某有名大学出身のお嬢様系の子がほとんどだったのだ。アタシは総てを把握してるわけでもないから、一概には決めつけられないけれど……強ち間違いではないと思う。勿論お団子ちゃんもその条件を満たしているわけだけど、初対面のアタシの前で日番谷のことをデレデレしながら「シロちゃん」と呼ぶのは、多かれ少なかれバカっぽい印象を残してしまう。実際日番谷はそのとき何時になく不機嫌そうに眉を寄せていた。人前でベタベタとくっついてくる女をあいつが好きなわけないし、必要以上にしつこく連絡を要求してくる束縛体質の女も嫌いな筈だ。まぁアタシも嫉妬深い嫉妬魔だから強くは言えないのだけど、というかお団子ちゃんの気持ちも理解出来ないわけではないのだけど、それじゃあ日番谷の彼女は無理だろな、って冷めた視線を送っていた。だからアタシは初めてあの子と日番谷の、既に亀裂が生じているツーショットを目にしたとき、すぐに別れるなこれは、と密かに予想していた。案の定この男は期待を裏切らずお団子ちゃんとあれから3ヶ月も保たずして別れを切り出している。これはもう確信といっても構わない域に達しているとみて間違いない。しかもこいつ否定してないし。

いつだったかどうして簡単に付き合って簡単に別れてようとするのかと、興味本位で尋ねたことがあった。別に日番谷がどうこうしようとアタシには無関係のことだし、他人の恋愛に口出しするようなお節介でもない。ただ毎回毎回、顔良しスタイル良しのお綺麗な美人さんを惜しみもなく振る日番谷が何を考えているのか知りたくなっただけ。確かあいつは……他に本気の奴がいる、だっけか?よく解らないことを口走っていた記憶がする。浮気するならバレないようにやれ思考はこの辺りからきてるんだろう。アタシが初めて浮気されて別れることになった時、それらしきことを言われた覚えがある。そりゃバレなきゃアタシも知らないままで傷つかないで済んだかもしれないけどさ。浮気なんか絶対イヤでしょ。バレるバレないの問題じゃなくてしちゃいけないのよ、普通は。


「おいおい。渡嘉敷、タバコ止めたんじゃねぇのかよ」
『いつも吸ってるような言い方止めてよ。誤解だから。彼氏と付き合ってた時は一本どころか、箱だって見たことないわ』
「俺は別にタバコを吸う女、嫌いじゃないがな」
『残念ながらあたしの付き合ってた奴はみんなタバコを吸う女を嫌ってたのですよ』


ヘビースモーカーではなかったけれど、アタシはどちらかといえば愛煙家だ。まぁ世間一般でもタバコは身体に悪いものであるし、政府のお役人さんもタバコ税を年々上げていくこのご時世。彼氏の影響もプラスして、アタシはここ二年付き合っている間は一度も手にしたことがなかった。だけど彼氏と別れた今、ちょっとしたストレスも溜まっているせいもあって、アタシは久方ぶりにタバコを購入した。ふぅと息を吐くと日番谷が俺にもくれと催促しだした。新しいのを一本取り出してバッグのライターと一緒に差し出してやると、ライターだけ手に取り、あろうことかアタシのくわえているタバコを引っこ抜いた。

機嫌よく味わっていたものを突然取り上げられたアタシは、躊躇することなくヒールの高い靴で日番谷の足を踏みつけた。なにすんだよ、とかギロって睨まれたけれどそれはこっちの台詞。なにすんのよいきなり。


「体に悪いもんあんま吸うなよ。長生き出来ないぞ」
『あんたアタシの話聞いてなかったわけ?二年振りだって言ったじゃん』
「はいはい。お前の彼氏狂は分かってる」
『彼氏狂とはなによ。あんたみたいにさっさと可愛い子捨てちゃうよりか尽くして付き合うほうがマシでしょ』
「まぁ否定はしないが、そうやって何回失敗してると思ってるかって話を俺はしてんだよ」


彼氏が出来れば禁煙し、フリーになれば喫煙する、をアタシは今まで繰り返してきた。タバコ一つに関しても、アタシの私生活の大半はその時付き合っていた男に影響を受けていることになる。ダメな男に引っかかって、時間を無駄に過ごしてしまうアタシが一番アホなんだけど――別に最初からこうなることを望んで付き合ったわけじゃない。別れるのを前提に付き合うカップルなんていないに決まってる。アタシだって、幸せになりたくって彼女になったんだ。それなのに何故か上手くいかなくって。アタシやっぱり男観る目ないのかな。それとも男運がないのかな。もしかして両方ともだったりする?


『な〜んで毎回こうなっちゃうのかねぇ』
「……」
『さっさと結婚して仕事止めて子供産んで、幸せになりたいだけなのにな』
「……」
『なんか全てが丸く収まる良い手はありませんかね日番谷サン』


からん。追加で注目したソーダ割りをアタシは少量口に含んだ。前の前の彼氏が好きだったその味を未だに覚えているなんて未練がましいな。うん。無い物ねだりしてたよ、あの頃は。若気の至りって言うほど若かったのかは微妙だけど、あの頃は結構荒れてて大変だった。日番谷はその度にアタシを構ってくれたなぁ。デートすっぽかされて、淋しくて悔しくて溜まらなかった夜。突如掛かってくるアポなしの呼び出しに日番谷は応じてくれた。だから彼奴は止めとけっつたろ?げんなりとした口調とは裏腹に、頭を撫でる手は驚くほど優しかったのを今でも覚えている。

からん。からん。手持ち無沙汰になるとアタシは意味もなく周りの物を触り出す妙な癖がある。空になったグラスをかき混ぜる度に氷の動く音が響いて、あいつとの間に流れる沈黙を浮きだたせた。ときたま日番谷は口を開かず、ひたすら此方にに無言の視線を送ってくることがある。そういうときアタシは決まって無防備な寝顔を覗き見されてるような錯覚がして、恥ずかしくなる。まさに、それが《今》であるようで……投げやりな発言をしたアタシは、日番谷から撫で回すような視線を受けた。言いたいことあるならはっきり言やあいいのに。あんたには余程のことでない限り、なにを話されても大丈夫よ。何を今更遠慮してんの?


『なに?なんか言いたいことでもあるわけ』
「……いや、」
『はぁ!?』
「無いわけでもない……ぜ。今すぐにでも、お前が望むものを簡単に手に入れる方法」
『アタシが望むもの?』
「前から会社辞めたいてボヤいてたろ。俺が今から云うことすれば、明日にでも退職届出したって今後一切困らねぇぞ」


やけに歯切れが悪い。日番谷らしくない。堂々として上から目線で自信満々の口調が君のトレードマークでしょうに。しかしあいつは訝しげなあたしの視線に我関せずを決め込んでいる。1人睨めっこ状態の中、ロマンチックな雰囲気を醸し出すライトがうっすらと頬を撫でた。いつになく可笑しな態度に訳も分からず緊張してくるのが、他人事のように思えてきた。ちょっとーどうなってんのよ〜!いきなり黙りこくるのはいつものことだけど、このタイミングで口噤むのはナシでしょうが。だってアタシお酒入ってるからもあるけど、尋常でないくらい心臓バックンバックンしてる。というかアタシもしかしてこの雰囲気に流されている?だとしたら酔いが程よくまわってマズいかも……。


『具体的にどうすりゃいいのよ』
「ある契約書にサインするだけでいい」
『……それちゃんと合法的なものなわけ?』
「俺を新手の詐欺師かなんかとでも思ってんのか」


緊張してることを悟られないよう、上擦りかけている声を必死で元のトーンに戻す。通常の日番谷ならば100%アタシのちぐはぐな口調に気づいていた筈だ。だけど今はそれどころじゃないらしい。向こうも向こうで取り繕うに精一杯といった感じで、アタシとの会話に応じているぽかった。

慣れ親しんでいるはずの鞄から、よそよそしい様子で一つのファイルを取り出す。かなり厳重にしてあるらしく、目的のそれは何重もの封筒に包まれていた。ちょっとちょっと……あんた、なにしようとしてんのよッ。マジで大丈夫なわけ!?


「ほら」
『……!?』


頼むぜ、みたいなアイコンタクが日番谷から来たと思うと同時に――アタシの手にはある紙切れが乗っかっていた。それは紛れもなくアタシが長年夢見た光景で、こんなロマンチックで綺麗な夜景が見える場所でされたいなぁと心待ちにしてきたものだった。だけど相手が、違う。絶対に違う。だってこいつ今までそんな素振り一度も……見せたことない。高校時代から今まで、一度たりとも。

文字通り、目が点になっているアタシの左手を日番谷はとった。おもわずアンタ正気?と本音が漏れる。だけどそれを気にすることもなく、徐にポケットへ入れた手をアタシのそれと重ねた。ひんやりと冷たい、金属が触れたような感触がした。確認するまでもない。この感じは確実に……指輪だ。


「俺だったら必ずお前を幸せにしてやる」
『いや、でも』
「ご託宣は要らねえ。渡嘉敷が本気で幸せになりてぇのなら、四の五の言わず、これにサインしろ」


んな無茶苦茶な話があるわけないでしょうが!なに?日番谷、アタシのこと好きだったわけ!?いやつーか寝言は寝て言えよ。堅物のあんたが珍しく冗談云うんだったら、笑ってあげるからさ。頼むからその真剣な表情止めてよね。じゃないとほんとにこれは仲良し同級生の域越えてるから。

そう――現在アタシの手元に乗っているものは、正真正銘の《婚姻届》だ。しかも記入事項は全て達筆な日番谷に字で書き込まれており、あとは渡嘉敷の印を押すだけで完成してしまう状態の。目を凝らすと、それが書かれてから随分と時間が経過していることまで見てとれた。しかもちゃっかり《同居を始めた時》が、アタシが日番谷宅へ転がり込んだ日になってるし。あれは、賃貸を借りるまでの仮の住まいというか、なんていうか同居目的じゃないし。その前にアタシこいつの彼女じゃないし。なに、よ……なんなの日番谷?こんなものにサインしたら、アタシ次の日から日番谷咲夏になってアンタのお嫁さんになっちゃうんだよ!その意味解ってんの!?そう身を乗り出して半ば怒鳴るように発言すると「結婚不受理申出をお前が出してねぇ限りは、この書類は承諾される。それに関して俺は特に心配することはない」とツンケンした物言いで日番谷は答えた。さっきまでの調子とえらい違いだ。変貌振りがハンパない。だいたい結婚不受理申出なんて提出してるわけないでしょ。アンタと結婚する可能性も予定も、これっぽっちだってなかったんだから!

キラリと反射した光をアタシの脳は捉えた。光源は左手の薬指にはめてある碧色の指輪。偶然か意図してかは知らないが、ちょうど日番谷の瞳の色にそっくりだ。吸い込まれるようなその輝きにアタシは魅入ってしまう。翡翠だよねこれ。高いな、きっと。もっと値が張るダイヤモンドやルビーよりも、多分アタシはこっちの方が気に入る。そう思って日番谷はこれを選んだのが安易に想像できるアタシが、なんだか信じられない。


『あの……』
「不服か?俺と一緒になるのは」
『いや、急すぎて何だかもう頭がまわんない』
「まぁ渡嘉敷の場合食ったら食った分だけ、脳じゃなくて腹に栄養が行ってそうだもんな」
『はぁ!?なんですって!お腹じゃなくって胸についてるんです。失礼な発言は控えてよ』


少なくとも、お団子ちゃんよりはアタシの方が胸もあるしスタイルだっていいんだからね。ボンッキュッボンとまではいかないにしろ、そこそこ誇れるような体格維持してますもの。だけど挑むような目つきのアタシに対して、日番谷の反応は「へぇー」と呆気ないものだった。

それから最後のデザートを完食するまで、アタシ達の間に会話らしい会話はなかった。元通りの寡黙部長さまに様変わりし、さっきまでプロポーズ(?)されていたとは思えないくらい落ち着いた静かな空気があった。そしてアタシの指にも依然としてあの翡翠の指輪があった。いきなり告げられて結婚するなんて常識じゃ考えられないし、日番谷の嫁になる気もない。だから本来ならさっさと外して要らないと返さなきゃいけない。それなのにアタシがすぐさま外す気になれないのは、やっぱり結婚しても良いと心のどこかで思っている証拠なのかもしれない。

だってよくよく考えてみれば日番谷みたいな誰もが羨むような男にこれから先、出逢える可能性はないかもしれない。女癖は悪い……という無意識で女を泣かせる点も、あいつの云う《本気の奴》がアタシだったとすれば、アタシは今まで付き合った子たちとは違う扱いってことでしょ?婚姻届がかなり前に書かれたやつであることは既に確認済みだし、今まで日番谷が高級レストランばかりに連れてきてくれたのもプロポーズのタイミングを計っていたというのなら合点がいく。大抵の場合アタシは別れた後すぐにカッコイい人見つけて騒いでたから、なかなか切り出せなかったのかもしれない。あいつが遠慮という言葉を知っているとは考え難いけれど、あいつなりの気遣いだったのかも……。


『ねぇ本当に本当に、アタシを幸せにしてくれる?』
「俺に出来ないことは殆どねぇよ。それに」
『それに?』
「好きな女を幸せにしてやれる器くらい持っているつもりだ」


ズキュンと日番谷の言葉が胸に刺さる。流石は長年ちまちま会っていただけあって、ツボをよく理解している。全部預けろ、任せとけ発言にアタシはべらぼうに弱い。今までの男は期待したって残念ながら中身が伴ってなかったけれど、この男は違うだろう。有言実行。きっと明日にでもアタシは退職したって問題ないし、憧れのセレブ暮らしさえも夢ではない。日番谷と、結婚、か……。

うっすらと瞼を閉じると、あの広いリビングでアタシと日番谷が朝食を取っている場面が浮かんできた。アタシの腕には絹糸ように綺麗な銀髪の赤ちゃんが抱かれている。
(まんまっ)
天使の微笑みはアタシを癒やし、あいつの眉間さえも白紙に戻っている。丸まるとした小さな手でぎゅっと指を掴む。どっからどうみたって、頬が緩むような微笑ましい光景だ。いいなぁ。可愛いなあ。幸せ……なんだろな。

今まで幸せになりたいとは思っていたけれど、じゃあ《幸せ》とは具体的に何かと言われると正直わからなかった。漠然として過ぎて、しっかり掴めない。結婚して子供産めばみながんなが幸せになれるとは限らないことだって知っていたけれど、アタシは今もそれを求めている。でも違うよね。当たり前だよね。例えば3年くらい前に付き合った、えーっと確か大手会社に勤務していた二枚目男と、あのとき上手くいって仮に結婚までこぎついたとしても、多分アタシは幸せになってなかったと思う。原因といえば大げさだけど、その人との未来が上手くイメージ出来なかったから……かな。真っ白だった。これからアタシはどうなるのか、全くと言っていいほど想像がつかなかった。計画的ではないアタシだってある程度は先が視えてから行動する。その、ある程度、という最低ラインでさえイメージ出来なかった。だけど日番谷は違った――怖いくらいすんなりと未来が思い浮かぶ。何だ幸せそうじゃんアタシ。素直に口にできる。


「渡嘉敷……それでさっきのことだが」
『すみません。追加で注文お願いしたいんですけど』
「おい、人の話を」


答えを求めてきてることくらい分かりきっていたけど、アタシは意地悪してさっきのイケメン店員さんを呼んだ。適当に開いたページの飲み物をお願いして、パタンとメニューを閉じる。うぉ!よく見てなかったけど、アタシが頼んだ奴かなり高い。あははッやばー。絶対一人じゃ飲めないわ。今後一生。


「お前なぁあれだけ飲んだあと、まだ飲むのかよ」
『お酒に付き合ってくれない人、アタシ好みじゃないけどなぁ』
「ちっ……さっきの酒かなり高級だけど大丈夫なのか。給料日前だろ?」
『そりゃあ代金は全部日番谷くんが払ってくれるんでしょ』
「は?」
『お願いしますよ、未来の旦那さま』


意地悪く微笑むとあいつは一度大きく目を見開いて、それからボソッと馬鹿野郎と呟いた。へへへっ今までやられっぱなしだったからな。ちょっとはアタシが主導権を握らせて貰おうじゃないの。かかあ天下になるつもりはないけど、亭主関白させるつもりだってないんだから。今までの生活では手に届かなかった高級酒を身体の前に持っていき、無理やりあいつのグラスと合わせた。乾杯!短く叫んで、アタシは口に流し込んだ。うわっきっつ。やっぱ強過ぎたかも……。口元を押さえて後悔してると、いわんこっちゃない、と言った風に日番谷はお冷を頼んでくれた。なんだかんだ言って、こいつ気が利くっていうか、アタシのこと解ってくれるのよね。





気紛れに永久寄生

(酒飲み過ぎてウエデェングドレス着れないとかベタなこと止めてくれよ)(だーかーら!アタシはそんなに太ってないってば!ていうかもうドレス決めてるの?)(まぁ目星程度だがな)







*あとがき*
背伸びしすぎで完全に失敗作ですな。なんかね、大人の世界に憧れているのです最近(笑)ちゃっちゃと大学に行ってスパッと会社に就職したいです。甘いですよね、んな上手くいくかいな。私の学力では就職氷河期なんか絶対に乗り越えられませぬ。頑張って勉強しないと。



2010/12/30