誰も居ないと思っていた放課後の図書室の片隅で、よく知る人の声が聞こえた。
「あー、気持ちは嬉しいんだけどね……」
「黒尾先輩、彼女いないんですよね?お試しで付き合うだけでもいいの。お願いします…!」
図書委員として、作業机で仕事をしていた私の手が止まる。自然と、呼吸も密やかになる。なんで私が息を潜めなければいけないの。そうは思うけど、告白の現場に居合わせて「そういうの他所でやって」とか言えるほど私はクールな女じゃない。そもそも告白をされている相手が相手なだけに、多少なりとも動揺はしてしまう。黒尾は私がひっそり好意を寄せている男だから。私の後ろの席に座っていて、何かとイタズラをされるような関係だけど私は彼を好きになってしまった。あんまりモテなそうだなと余裕をかましていたけど、どうやらそうでもないらしい。
「俺ほんと部活ばっかだからさあ……ごめんね?ありがと」
「……分かりました」
黒尾の返事はノーだった。少しほっとしてしまう自分が情けない。自分の口じゃ好きだと言えない臆病者のくせに、他人が勇気を出した告白が遮られて安堵するなんて。私、性格悪いかも。そろそろ居なくなる頃か、と聞き耳を大きくすると黒尾が突然焦った声を出した。カタカタと図書室の棚が小さく揺れる。
「ちょっ、こら……!っんぅ…!」
黒尾のくぐもった声が聞こえた後、ばたばたと騒がしい足音はそのまま図書室を出ていった。先程、翻ったスカートがちらりと見えた。走り去ったのは女子のほうだ。この空間には、黒尾と私しか居ない。私もいつこの部屋を出ていこうか迷っていると、背後から聞き慣れた意地悪い声がした。
「盗み聞きなんてイイ趣味してんじゃないの、苗字」
「黒尾……見れば分かるでしょ。仕事してたの。聞きたくて聞いたわけじゃない」
黒尾は棚にもたれかかったまま私を見下ろす。私は動揺を悟られないように淡々と手を動かした。「全部聞いてたの」と聞かれ、残念ながらと答えれば黒尾は長い溜め息を吐いた。
「あー……今回はまじで油断した」
「今回はって。実はモテます発言」
「ボク意外とモテるのよ」
「キスされてんの、ほんと面白い。優しいね黒尾」
「……面白い?」
黒尾の顔が椅子に座っている私の目線まで下がって、作業をする腕を掴んだ。びく、と体を強ばらせる。黒尾は鋭い目つきで私をじっと見つめた。
「なんでキスされたって分かんの。ここからじゃ見えないでしょ」
「み、見なくてもあんな声出せば普通に分かるよ」
「あんな声?」
「黒尾が声出したでしょ……!わっ、」
黒尾は私の腕を引っ張って椅子から立たせると、本棚にどんと押し付けた。こんな場面で壁ドンなんてされても嬉しくないっつーの。黒尾はめちゃくちゃ機嫌の悪そうな顔をしている。いわゆる、ガチでキレた、みたいな顔。
「どんな声よ」
「黒尾、何怒ってんの……私が言ったこと、なんか気に入らなかった?あ、謝るから、」
「ねえ。お前が面白がった声ってどんなだった?黒尾さんに教えてちょうだいよ」
「やだ、冗談きつい…!離れて!」
両手首をぎゅっと掴まれて、痛いくらい鋭い視線が至近距離で私を突き刺す。怖くて、足が震える。ただでさえ身長が大きくて萎縮してしまうのに。こんなにも高圧的な黒尾は初めて見る。
「ごめんって、私もう何も言わないから……離し、!っ、んぅ、?!」
少女漫画でよく見る『何をされているのか分からない』なんて嘘っぱち。一瞬で分かってしまう。私は今黒尾に、好きな人に、キスをされている。付き合ってもないのに、噛み付くような、ちっともロマンチックじゃないその行為は、敵意さえ感じた。
「んっ、ぅ、…む、」
自分のくぐもった声が、図書室に響く。ようやく唇を離され、私は無意識に涙ぐんでしまう。黒尾からこんな愛情のないもの、受け取りたくなかった。
「そういう声ね。確かに面白いわ」
黒尾がそう言って口端を上げるから、私はカッとなって黒尾の頬を叩いた。最低。そう言い残して、私は委員の仕事を放り出して図書室を出た。何これ。なんでこんなことになったの。好きな人にキスをされたのに。事故でもなんでも、喜べばいいのに。どうしてこんなに苦しいの。答えは見つからなかった。
*
次の日の朝、教室に行くと後ろの席には夜久が座っていた。黒尾は居なくて、夜久が私に手を上げて挨拶する。
「はよ」
「おはよう夜久。なんでそこ座ってんの」
「さっきまで黒尾と喋ってたから。トイレ行くっつって出てった」
「……そう」
明らかに私を避けたな。別にいいけど。鞄から教科書や筆箱を取り出して机にしまいながら、夜久となんでもないお喋りをする。しばらく話していても、黒尾は戻ってこない。夜久が「そういえば」と言った。
「昨日黒尾がさあ、頬腫らして部活来たんだけど」
「っ、」
「その理由が猫パンチ食らったっつうわけ。どういう意味だよって皆で聞いてもそれ以外答えてくんないの」
「ね、猫パンチ……」
「どういう意味か分かる?猫パンチって女子の間とか苗字の周りで流行ってる?」
「さあ……」
「しかもなんかあいつ頬腫れてるくせに嬉しそうなんだよな。部活中ずっと頬さすってニヤニヤして、キモイのなんのって」
想像した。確かにきもちわるい。しかもなんか腹立ってきた。私はあんなに傷ついたのに、猫パンチってどういう意味。思考回路どうなってるわけ。人のファーストキスを強引に奪っておいて、こんなのキャットファイトのうちですよってこと?ふざけてる。最低すぎて殴りたい。いやむしろ顔も見たくない。黒尾が後ろの席でよかった。視界に入れずに済む。
「どしたお前、顔おっかないぞ」
「大丈夫。なんでもない」
予鈴が鳴って、夜久が自分の席に戻った。授業開始ギリギリになってから、黒尾はふらりと戻ってきた。そこまで徹底的に避けるのか。私は黒尾が何を考えているのかさっぱり分からない。いつものようないたずらのない授業は、長くてしんどくて堪らなかった。
放課後、図書委員の仕事をやり残したことを思い出した。私は先生や委員長に注意されないうちに終わらせようと、もう一度図書室へ向かった。カラカラと扉を開けて、今日は誰も居ないということを確認してから入室する。昨日とまるで変わらない状態の作業机を見て、色々思い出しそうになって頭をブンブン振った。最低。嫌い。私が軽口を言った腹いせにキスをしてくる黒尾なんか大嫌い。
「嫌いになれたら楽なのに……」
か細い声が図書室に虚しく響いた。
仕事に没頭していたら、もう外は暗くなっていた。見回りの先生が「最終下校時刻だぞ」と声をかけてきて、私はようやく作業の手を止めた。これほどまでに熱中しないと、黒尾という存在が私の中で大きくなってしまいそうだった。必要以上に作業を進めた私は堂々と図書室を出る。昇降口に行くと、運動部も続々と帰り始めていて、なんだか嫌な予感がした。
「こんな時間に何してんの」
「……黒尾」
やはり嫌な予感というのは、世界で一番よく当たると思う。今このタイミングで私と黒尾を鉢合わせる神様は一体どんだけ意地悪なの。私は分かりやすく顔を背けた。
「そういうあからさまな態度、傷つくんすけど」
「どっちが。黒尾だって避けてたくせに」
「お前なんで怒ってんの」
「おこ、怒るでしょ怒らないほうがおかしいでしょ?!」
だいたい猫パンチって何よ。そう言うと「なんでそれ知ってんの」と黒尾が珍しく動揺した。手で口元を覆ったものの、黒尾の顔が赤面してるのが分かる。なんなの。人に嫌がらせレベルのキスをしておいてなんでそんな顔できんの。頭おかしいんじゃないの。私は黒尾に背を向けて下駄箱からローファーを出して靴を履き替えた。上履きを雑に片して、挨拶もせず立ち去ろうとした。
「苗字待って」
「嫌ですけど」
「ちょーっとだけ!」
「なんなの本当に」
「まじでちょっとだから!ただ俺が靴履き替えるだけだから!」
「……あそ、」
私がその場に立ち止まっているのを見てから、黒尾はバレーシューズからスニーカーへと履き替えて側まで来た。何を言うのか待っていると「んじゃ帰りましょっか」なんて言うもんだから、私は呆気にとられてしまう。分からない。黒尾のその精神が私には分からない。よく意地悪くキスをした相手にそんな態度が取れますね。やっぱりあれですか、私とのキスは黒尾さんにとってはノーカウントなわけですか。私はファーストキスだったんですけど?!などと、悶々としながらも黒尾の後ろを歩いている自分に呆れてしまう。結局嫌いになんてなれないんじゃん。
「こんな時間まで何してたの」
「委員の仕事ですけど何か」
「ああ、そう……」
「よく話しかけてこれるね。私なら腹いせにキスした相手となんて喋れない」
「は?腹いせって何」
黒尾が立ち止まったので、私も立ち止まる。黒尾は心底驚いているらしく、私の顔を見つめて固まった。私がからかったから腹いせにキスしたんでしょ、と言うと黒尾は頭を抱えた。
「ええ……お前……なんでそういう考えになんの……ワケわかんねえ……」
「ワケわかんねえはこっちの台詞なんだけど!」
「お前、あの時全部見てたんでしょ?俺が後輩に告白されてキスされたの分かったんでしょ?」
「そうですけど」
「じゃなんで俺がお前にキスすると腹いせになんの」
「わ、私が黒尾を怒らせることを言ったから?」
キリがねぇ、と黒尾が項垂れた。なんでそんなに呆れられなくちゃいけないんでしょうか。私は果たしておかしいんでしょうか。黒尾はいつも肝心なことを何も言わない。だから私は何も分からない。上辺の感情を掬うことしかできない。あの日の黒尾は怖くて、私に対する敵意を感じた。そう伝えると、黒尾は眉尻を下げた。
「そう思ったんなら、俺が悪いのかもね」
「なんなの。はっきり言ってよ。黒尾の考えてることもう私分かんないよ」
本音を知る必要はないと思っていた。黒尾は私を友達以上に見てはいなかったから。大勢の女子と変わらない扱いで、特別な関係になる見込みのない未来をわざわざ開示してもらう理由なんてなかったから。けど、黒尾の焦りといい、言動といい、私は彼を解き明かさなくちゃならない気持ちになった。この気持ちに名前をつけるなら、多分、期待。私は黒尾の目を真っ直ぐ見つめた。彼は観念したように目を伏せてから、渋々、というように呟いた。
「上書きしたかったんだよ……お前で」
ふうん。黒尾にしては素直だけど、もうひと越え欲しい。私が傷ついた代償として、引導を渡す役割は彼にパスしたい。つまりどういう意味ですか、と黒尾の眼前に迫る。ぐっと喉を詰まらせた顔をする彼は、がしっと私の両肩を掴んだ。え、これは聞いてない。
「あんまり調子に乗られんの、条件反射的に好きじゃないんですよねボク」
「く、黒尾、人はいつだって言葉じゃないと伝わらない感情というものがあるでしょ、その前にしていいことって自ずと限られてくるでしょ、仏の顔も三度までって言うけど正直二度目で既に許されないと思うのね、」
「黙って」
「っ、」
黒尾は私の言葉を遮るようにして唇を塞いだ。図書室でされたキスとは違う。穏やかで、唇から愛を伝えてきそうなキスだ。私は黙って瞼をおろした。少し間をあけてから黒尾は離れて、私に触れたその口で「ずっと好きデシタ」と少しおちゃらけた。仕方ない、許してあげよう。私も好きでしたと言うと、知ってたと返された。腹立つ。
「やべえ、路チューしちまったな」
「黒尾さんフケツ」
「お前って結構根に持つよな」
私たちは恥ずかしいから、と手を繋ぐことなく程々の距離を保ちながら帰った。これまでの距離感が分からなくなると普通に話せなくなりそうだったから。想いが通じ合ったと自覚するには、まだもう少し時間がかかるかもしれない。
後日、バレー部は見事に私たちのキスを目撃していたらしく、夜久始め部員たちに散々いじり倒された。そんな黒尾を見て、私はようやくすっきりした。ひどいファーストキスの奪われ方をしたけれど、全てを水に流してあげよう。
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