貴方の朝は早い。
常人よりずっと早くて、それでも貴方は一日とて欠かすことはなく、暖かく柔らかな世界から這い出る。
「名前、ランニング行ってくる」
「ぅ…………ぁぃ」
私の瞳はまだ開かないまま。それなのに、貴方はその唇を私の頬にむに、と押し付けるわけ。傲慢だって、思わないのかな。私はまだ眠い。眠くて、眠くて堪らない。返事だって、ろくに出来ないのに。
「相変わらず寝起きが悪いな。玄関先で見送ってチューしてあげるって約束は、一体いつになるんだか」
「ぅ……ぅぐ……」
「まあ、一周まわって愛おしくなるよ」
満面の笑みで、全く何を言ってるのか。さらりと頭を撫でられ、くすぐったくて、眠たくて、布団に潜り込んだ。「ははっ。邪魔してごめんな。けど今日も良い朝だぞ、早く起きろよ」って、悪びれたふうでもない声が聞こえる。程なくして気配は離れてゆき、やがてパタンとドアの開閉音だけが残った。衛輔のばか。毎朝、毎朝、いい加減やめてって言ってるのに。熱を押し付けられた頬が、緩んでしまう。
「……眠れなくなるじゃん」
布団の中でぼやいてから、もう一度瞼を降ろす。今日も良い朝なのか。けれど、この微睡みは、逃したくない。
◇
再び目を覚ますと、微かにシャワーの音が聞こえてきた。日課から帰ってきていたらしい。起き上がって、壁の時計を見やれば、なんということはなく針が普段通りの時刻を指していた。そう、今こそが私の起床時間なのである。衛輔は、やはり早起きが過ぎる。彼を否定する気は無いので、構わないけれども。
適当に掛布団を整えて、のそのそとクローゼットに向かう。どれに袖を通そうかと、ハンガーの洋服たちを手に取りながら、ぼんやりと考える。『本日のご予定、無し』。まるっと、まっさらな一日の始まりであった。彼にとっては淡々と刻まれる朝に過ぎないのだが、いち社会人にとっては貴重な休日の朝だ。正直に言えばもう少し寝ていたかった。昨夜はコヅケンお勧めの新作ゲームを衛輔と一緒に遊んで、ひと通りやり終えた。しかし、遊び足りない私は彼が寝支度を整えたあとも一人でいそいそお楽しみを続けたわけでして。
このとおり自由気ままな私は、ストイックな衛輔と一緒に住んでいなければ、昼夜逆転生活など日常茶飯事なのだと思う。彼と結婚したのが不幸中の幸いというのか、見方によっちゃ運の尽きというべきか。
そうして。コーディネートに悩む必要の無い、優秀な衣類ことワンピースを選んでさっさと着替える。洗濯ゆきのパジャマを持って、部屋を出た。
脱衣場併設の洗濯機置き場には、ほんのりと石鹸の香りが漂う。すぐ傍の浴室からはシャワーの音に混じって、小さく鼻歌が聞こえてくる。彼は今日もご機嫌がよろしいようだ。大変結構なことである。自然と込み上げる笑みを抑えることなく、パジャマを放り込もうとする洗濯機を何の気なしにひょいと覗き込んだ。
「……」
ドラム内の光景を目にして、一瞬で笑みは引く。衛輔が使ったのであろうスポーツタオル、トレーニングウェア、下着、それから靴下。タオルは良い。問題はそれ以外。
「なぜ、今日もまた裏返す……」
何度も、何度もお願いしていることだ。靴下も、下着も、ランニングシャツも。ロシアで同棲していた頃から、口が酸っぱくなるくらい言っているのに。向こうでも、日本に戻ってきてからも、彼は全く学習しない。むしろ甘えすら感じられる。もやもやと思い出されるのは先日の出来事────
『衛輔……!』
『どうした?』
『脱いだ服、裏返したまま洗濯機に入れるの、いい加減にして欲しいんだけど』
『おー?悪い悪い。次気をつけるな』
『それこの前も言ったね?』
『ごめんて。そんな怒るなよ』
『怒っちゃいないけど……いずれ怒るかもだけど』
『だから怒んなって。そうだな、お詫びに今日はお前の言うことなんでも聞くから』
『えっなにそれいいの?なんでも?』
『任せろ。なんでもしてやる』
『じゃあデート!デート行こ!』
『いいよ。どこ行く?』
『映画!』
『うわっまたか。もしかして……』
『“恐怖の皿屋敷〜RE:BORN〜”』
『やっぱりホラーかよ!俺いやなんだけど?!』
『なんでもって言った』
『それとこれとは』
『裏返しの靴下がひとつ〜ふたつ〜』
『怖ェよやめろ!怒ってんじゃねえか!悪かったってば!』
あの日は結局、映画でなくドライブに行ったっけ。その後は素敵なレストランに連れて行ってくれて、ワインが美味しくて、そのままホテルで……あら?なんか在るべき記憶が上書きされてしまいそうだ。私は思い出に浸っているのではなく、衛輔の怠惰に苦言を呈そうとしてだな…
「なにしてんのー?」
「わっ、え、」
浴室から声がすると同時に、ガパリとそのドアが少し開いた。立ち込める湯気の中、濡れ髪の衛輔が顔を出し、怪訝そうな表情を浮かべる。
「はよ。起きたんだな」
「あ、うん、おはよ……」
水を滴らせる衛輔の姿が、やけに眩しい。ちらり覗いた身体のなんと逞しいことか。この腕にどれだけ抱かれ、どれほど縋ったか。惚ける私に、彼はきょとんとしてから、にやりと口角を上げる。
「名前も一緒にシャワーする?」
「?!」
「なんならここで一回抱かせて」
「だっ、け、結構ですけど?!?くくく靴下…!裏返し勘弁してください!しシャワーごゆっくり!」
「わはは!カタコトなのウケる」
靴下はごめん、などというさらりとした謝罪を背中に受けながら、脱衣場からそそくさと立ち去った。結婚しているとはいえ、不意打ちはやっぱり恥じらいが押し寄せるもんで。普段から衛輔は「抱く」だの「愛してる」だのと恥ずかしげもなく発言するのだけど、どういうわけか私はそれに慣れる兆しがまるで無い。きっと、その類の言葉たちは私の引き出しに収まっていないんだと思う。“辞書にない”、とでも言えばいいのか。彼の愛し方は、私とはおおよそ異なる。それが、非常にむず痒くて。至極、恥ずかしくて。されど愛おしい。
「……すき」
誰にも、彼にも、聞こえない囁き。相手に届かなくても良い。特段の不具合は生じない。聞こえなくても、届かなくたって、一言一句無駄なんかでは無いのだ。だってこれが、私の辞書から引っ張り出した、私の愛し方であるから。
◇
キッチンへ向かい、フライパンをコンロに置いてから、普段と差程変わらない食材を冷蔵庫から取り出す。卵とベーコン、レタスにトマト。それから、牛乳。(あの人今でも身長を伸ばすことを諦めていないらしい。)
日本に戻ってからの衛輔は、腹が減るからと言いパンはほぼ選ばなくなった。主食はご飯、ともすればお味噌汁も所望する。これに焼き魚と煮物、和え物でもあれば完璧な日本の朝と言えようが、おかずは洋風で良いと言うもんだから私はそれに甘えている。私も働いている身なので、毎朝魚焼いて、野菜煮て和えてなど、正直やってられない。
…本音を少しこぼすならば、アスリートの妻として務めなければならないのかなって。そりゃあ思うんだけど。餅は餅屋に。栄養管理は管理士に。なんて言ったら、衛輔は怒るだろうか。それとも、笑ってくれるのだろうか。
眉間にシワが寄りそうで、実はもう寄っているんじゃないかなどと思っているところへ、足音が聞こえてくる。トコトコとドスドスの中間地点。そんな音を響かせながら、衛輔はダイニングへとやって来た。
「はー、今日は暑ちィな。シャワーの最後に水浴びたけど汗がすげえ」
「もうすぐ夏だからね」
「それな。ところでお前顔洗った?」
「誰かさんのせいでそんな暇はありませんでした」
「誰のせいだよ。洗濯回しといたから」
「衛輔だよ!ありが……ちょっと待って裏返したやつ直した?」
「あー忘れた」
「あほ!」
「ひでえな全く」
衛輔は朗らかな顔を見せたあと、先程取り出した牛乳をコップに注いで、豪快に飲み下した。残念だがもうその背は伸びんよ。「なんか失礼なこと考えてんだろ」「別に」。朝食を段どっていた思考からわき道に逸れながらも、ルーティンで動かす手が卵とベーコンを焼き上げる。お皿に移しているところで、ふとお腹周りに何かが触れた。腕。両の腕が、いつの間にか私を捕らえている。
「ちょ、まだご飯の準備終わってないんだけど」
「いいじゃん。今日仕事休みだからゆっくりしても平気だろ」
「……そう思うなら今朝は起こさないでくれても良かったんじゃない?」
「むり」
「なんで」
「チューはしたかった」
「……あっそ」
「なあ、腹減った」
「のんびりさせたいの、急かしてるの、どっちなの」
「のんびりしながら、早く飯が食いたい」
なんとまあ我儘なことで。
衛輔は結婚して以降、非常に子供っぽくなった。付き合っている時は頼り甲斐のある男だったのに、家の外じゃあ大人ぶって先輩風を吹かせるくせに、だ。男というのはそういうもん、と深夜番組のコメンテーターは言っていた。背も低いままで、童顔で、性格まで幼稚じゃあ、どうしようもないクソガ「お前やっぱ失礼なこと考えてるよな?」「顔色を窺わないでくださいます?」。“旦那って甘やかされちゃうと結局奥さんにずぶずぶなのよね”。辛い口調が脳裏をよぎる。甘やかしているつもりは、ないんだけどな。
「じゃあサラダ手伝って。そしたら早くなる」
「むり」
「は?ふざけてるの」
「ふざけてねえわ。抱きついてたいの。ここで見守ってるから頑張れ」
「……ねえ。今日なんでそんなに機嫌良いの?」
「んー。天気の良い朝だから?」
「意味わからん…………胸を揉むな!」
「ほら、もうちょっと育ててやんねぇとさ」
「うるさいわ!」
甘い。やけに甘どろい、シロップ掛けのような朝が、刻一刻と過ぎてゆく。
わたしはこんな朝を毎日は望まない。欲しくない。だって胸焼けがする。甘過ぎると、苦しくなる。何がどう苦しいのか分からない。単純に、恥ずかしくなるのかもしれない。
ただ、そんな朝に、彼は愛おしい眼差しをわたしに向ける。心底幸せそうに、まるい目を細めてから、許可なく柔い唇をそこかしこに押し付ける。「俺の愛情表現」なのだそうだ。これほど温かな表情をされたら、この手も腕も、払い除けるなんてとんでもない。過ぎた甘味さえ、飲み込んでみせたくなる。
それは、幸せの音が降るような良い朝。
或いは、胸焼けのしてしまう口説い朝。
悲しいかな、同じ朝でもひとが違えば沸き起こる感情などまるで別物のよう。この先、たとえ何年衛輔と寄り添っていこうと、同調しながら景色を眺めることなんてきっと数える程度だと思う。それも、奇跡的な数回。それくらい、彼と私はべつないきものだ。
もしかしたら、愛した感情さえ、彼と同じではないのかもしれない。
分からない。
それでも。
愛おしい人と迎える朝は、言わずもがな愛おしくて。
「衛輔。今日、出掛ける?」
「どっか行きたいの?」
「デートしたいなあ、なんて」
「この前も外でデートしたよな。たまには家でデートしようぜ」
「一緒に住んでるのにデートも何もないじゃん。珍しいね、外出るの嫌?」
「嫌っていうか」
「?」
「今日は気が済むまでくっついていたいんだよなあって」
頬を擦り寄せてくる彼の体温が、じんわりと滲み入る。
「……シロップ掛けというより、シロップ漬けだわ」
「は?」
「なんでもない。じゃあ今日は布団を洗おう。手伝ってくれる?」
「おー。任せろ」
「頼りにしてます」
べつないきもの同士、今日も折り合い、重なり合い。
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