天気は快晴。補習は満点。お肌の調子も絶好調。愛を育むには最適な一月下旬である。冬休みが終わり、季節にそぐわない暖かな陽気のもと、私の足取りは軽く弾んで。階段なんか、あって無いようなもの。頭に詰め込んだ苦手分野の知識たちがぽろぽろ落ちるような感覚はあるけど、そんなの関係ない。私は、残り少ない彼の高校生活が覗ければ、それでいいのだから。
「失礼しますーーーッ!」
ガラリ、教室の扉を開ける。お昼休みでざわめく中、室内にはクラスの方々がまばらに居た。一年である私が三年教室の扉を開けたって、もう誰もなんにも言わない。この一年間、開けて、開けて、開け続けた。愛想良く挨拶をすれば、あの人は可笑しそうに口の端を上げて「今日も元気だこと」なんて言いながら迎えてくれる。くれるのだけれど。
「……居ない」
「お?苗字じゃん。どうした?」
「夜久さん!こんにちは」
いつも見つけてくれていた人に会う前に、入口付近に居た夜久さんが声をかけてくれる。傍まで寄ってくれて、「なんか久しぶり」と笑ってくれた。
「最近五組来なかったよな。黒尾に飽きたのか?」
「そんなまさか!飽きてないです!ちょっと補習が多くて担任の魔の手から逃れることができなかっただけです」
「なんだ。お前実はバカだったのか」
「バカだなんてひどい……!冬期テストに苦手な範囲が多くて成績落ちちゃっただけですから!」
「こら苗字!落ちるとか言うな受験生が居るんだぞ!」
「ギャーッごめんなさい全員アゲアゲ!」
「ふふっ名前ちゃんなんかそれ違うし〜」
「じ、じゃあ満点合格!サクラサク!」
「相変わらず苗字来るとうるせえなあ」
「ひどい!」
「黒尾どこ行った?」
「トイレじゃね?」
「職員室じゃなかった?」
「名前ちゃんお菓子あげる〜」
「わあい!」
夜久さんと会話をしている最中、私という一後輩の存在に慣れ過ぎた五組の面々が続々と話しかけてくれる。みんな私の保護者気取りですか。優しい人々ですか。照れます、嬉しいです。しかしながら、肝心の人が見当たらない。えっちゃん先輩がプリッツを食べさせてくれる間も、きょろきょろ見回すけれど、やっぱり黒尾さんは居ないらしい。不在…悲しい…
「……ていうか夜久さん!私、黒尾さんに飽きるとか無いですし!」
「え、そうなのか?」
「もうすぐ自由登校、果てはご卒業ですけど、その前にはあのハートを射止めなきゃって思ってるんですよね。割とガチで」
「ふっ、割とガチでな」
「笑わないでください!マジでガチなんですから!ところで、黒尾さんはどちらに?」
「あいつ今、俺らのパン買いに購買走ってる」
「なんということでしょうパシリ!!!」
「違ぇって。昼飯賭けた勝負に負けたのは黒尾だから。言い出しっぺのくせに」
「そうなんですね……黒尾さん、詐欺師っぽさでは誰よりも勝るのに……」
「わははははは確かにな!」
「だ〜れが詐欺師だって?」
背後、いや、頭上から待ち侘びた声が降ってくる。黒尾さん!絶対に黒尾さんだ!振り返ろうとするも、何やら背中にはピタリ温かい感触がしており。まさかとは思うけどこれゼロ距離じゃない?黒尾さん、私にピッタリ寄り添ってない?徐々に頬が熱くなる。もしそうだとしたら勿体ないので身動きはやめておく。せめて視線を向けようと頭を動かすと、つむじ辺りに何かがぽこぽこ乗った。ころり、ひとつ落ちてくる。…パニーニ?
「あ、賭けの……」
「それ俺のだから持ってて。ほれ、皆様お待ちどう」
「てめっ昼飯投げんな!」
「いやあ一人くらいヘルプ来てくれると思ったのに、誰も来ないの酷くない?俺何個買ったと思ってる?」
「知るか!おい俺のカレーパンどこ?!」
「今投げるから」
「投げんな!!」
「夜っ久んなら上手く掴めるって。ねえ苗字チャン。みんな酷いと思うよね?」
「へっ」
夜久さん達の元へパンがひゅんひゅん飛んでいくたび、私の頭の上のそれらは減っていく。黒尾さん、私は体のいいテーブルではないのですが。けど、こんなに近くに居てくれるならなんでもいいか。のんびり、飛び交うパンと罵声を聞き流す。背中、ほんのり暖かい。こんなに密着してくるなんて、今日の黒尾さんてば大胆。
普段の黒尾さんは、一年の私からすれば「とても」先輩だ。彼は大人びている。部活の主将という枠に、ぴたり収まっているのかもしれない。素行に問題は無いし、ルックスやら頭脳派(策士ともいう)な部分に憧れたり、惹かれたりしている後輩も少なくない。私だって、言ってしまえばその中のひとりだ。
数多のひとりになりたくなくて、特別枠或いは彼女になりたくて、この一年は必死に努力した。そんな私だけしか知らないこと。それこそが、今現在、同級生とおふざけをしている彼の姿だと思っている。三年五組というホームで暮らす黒尾鉄朗さんは、主将でも先輩でもなく、等身大の高校生男子をやっている。黒尾先輩がお昼を賭けた勝負を持ちかけたり、パンを投げるなんてこと、大半の後輩は知らないと思う。イメージ的に、食べ物で遊ぶのはやめなさいって言う側だ。
私は、そんな飾らない彼を見るのが、とても好きなのだ。
「ふひゃっ?!ふほおはぅ…?!」
いつの間にか、私の頬は背後から伸びてきた指で摘まれ、ぐにぐにと揉まれる。くっ黒尾さんが私のこと思いっきり触ってるゥ…!こんなこと、今まで無かった!今日は大安?!
「人を詐欺師呼ばわりするのはこの口か?」
「へひっ、ほへ、ほへふ」
「おい黒尾。苗字の顔が崩れるからやめてやれ」
「ンー。やめて欲しい?」
「ヒエッ!」
「“いいえ”だって」
「本当かよ」
頬を伸ばされ続けながら、愉しげに笑う黒尾さんの表情を見上げる。この人、本当に楽しそうだな。遠くで見る顔とは、全然違う。無邪気で、悪戯っぽくて、かっこいい。私のことをどんなふうに思ってくれているかは分からないけど、少なくとも、他の後輩よりはちょっとだけ距離が近いと感じる。物理的じゃなく、精神的というか。懐かれている?というか。ちょっかいをかけてくれるというか。私が異常なまでに、黒尾さんに懐いているが故なのは否めないけれど。
再びぼんやりしながら身を任せていると、黒尾さんは「ウーン」と唸って頬を摘んでいた指を引っ込めた。血行が良くなったのか、じんわりと温かさが残る。そんな頬をさすりながら、ようやく振り返って黒尾さんの姿の全貌を視界に映した。
「はあ……やっと喋れるゥ……黒尾さんお久しぶりです!今日も素敵です!」
「開口一番にそれって。まあ、お久しぶりデスネ。寂しくなかった?」
「キュンッ」
「その効果音って口に出すもんなの?」
ときめく胸を抑える私を見て、彼はまた可笑しそうにする。寂しくなかった、ですって?寂しかったですよそりゃあ!会えなかった時間はもう地獄のようでした。毎日毎日、古文に歴史年表。黒尾さんに会えるから登校しているようなものなのに、テストの点数がよろしくなかったからって補習の嵐とは。先生というものは、高校生の青春の大切さを分かってない。学生時代なんて、光の速さで駆け抜けちゃうんだから!春高が終わってようやく朝練の無くなった高校生黒尾さんは、今この時しか無いんだから!
「ほんっっっと、会いたかったです黒尾さん……」
「しばらく見なくても相変わらずなのね」
「黒尾さんが居るから生きてるんで!」
「ブフッ!ボク、苗字チャンの生きる意味にされてんの?どうしようね、責任重大。ちょっと夜っ久んどう思う?」
「暗に自慢すんな。まだ愛されてて良かったな。まあ苗字は相変わらず残念系女子だよ」
「そんなことないですーーー!」
「はい。そんな、今日も残念な苗字チャンにはこれあげる」
「(黒尾さんまで残念言うんか)なんですか?あっ、えっ……幻の、購買ワッフル!」
「一年も知ってんだね。俺も初めて見たからつい買っちゃった」
「いいんですか……?!」
「そんなに生クリーム盛り盛りだと、俺多分無理だから。苗字チャンいけそうなら食べてちょーだい」
そう言って、黒尾さんは光り輝くワッフルを差し出してくれる。口ではなんだかんだ言うけど、結局黒尾さんは私に優しい。黒尾さんが私に幻のパンをくれた。私の為にプレゼントしてくれた。「苗字チャンが大好きだから、食べて」って言った(言ってない)。嬉しすぎる。
ありがとうございます!
「好きです!!!」
「はいはい出た出た」
「まっ間違えた……!待ってください間違えたんです、私はちゃんとお礼が言える系女子です!ありがとうございますって言おうとしたんです!」
「ほほう?それなのに、キミはなんて言っちゃったの?」
「好きです!」
「二回目も声張るねえ。ちなみにだけど、ワッフルのこと?」
「えっ?違います黒尾さんのこと……」
「だよね。そっちで良いんだよネ」
そっちって、どっち?
私の疑問を口に出す前に、お腹の虫がきゅうと悲しげに鳴る。お昼まだだった…!黒尾さんに盛大に笑われてから、自分の席を使って食べるように勧められる。いいんですか?なんて、お言葉に甘えて席につけば、ワッフル以外の惣菜パンも恵まれた。いただきます。ペリペリ開封して、もふり頬張る。黒尾さんを見ながら食べる焼きそばパン、至高。人生で一番美味いパン。黒尾さんは前の席の椅子に座って、もふもふ咀嚼する私を何故か、じいと見つめた。
普段どおり、その視線に自分のそれも合わせていたものの、どうしてか黒尾さんはなかなか逸らさない。なんで?いつもならすぐに逸らすのに。逸らして「苗字チャン見過ぎ」って笑うのに。照れが押し寄せるも、プライドがあるのでしばし見つめ合いのバトルを続行する。けれど、やがて根負けした私は恥ずかしくなって、ふいと視線を下げてしまった。
「(見つめ合いに負けた…悔しい…)く、黒尾さん……なんで今日はそんなに見てくるんです?」
「なんでだろ。充電?キミしばらく来なかったし、飽きたんだと思ってたから」
「飽き…え、なんかデジャヴ……夜久さんにも言われました。私って、以前そんなに五組来てましたかね?」
「来てたでしょ?朝昼夕。欠かさず、黒尾さん黒尾さんって」
「そうだったかな……」
確かに日課ではあったかもしれない。とはいえ、黒尾さんは私のことを常日頃から気にかけてくれていた、という意味で捉えていいんだろうか。頬杖をついて、ニヤニヤする黒尾さんの顔に、その答えは書いていない。…かっこいいな。春高全国大会のせいで、一部ファンがついちゃったのも無理ない。
恥ずかしくて逸らしたのに、自然と再び見つめている自分が居た。じいっと見つめて、惚けて。幸せだなあ、とかなんとか。ときめきが胸をいっぱいにしてしまう頃、形の良い唇が何やら動き始める。浮かべる表情の柔らかさに、私の視線は釘付けになった。
「苗字チャン来ないと一日始まんないし終わんないのに、すっかり体内時計狂っちゃったよ。訪問には、もっと自覚と責任持ってもらわないとさ」
「…………はへ、」
「オーイ、苗字チャン?」
「……?!!とっ突然のデレ?!びっくりした、しばらく日本語理解できなかっ…えっ、なに、黒尾さん、どうしたんですか、ついに私の魅力に気付いてくれました?!」
「ぶっ、ひゃひゃひゃひゃひゃ!!キミ、俺に対して散々愛だのラブだのってやらかしてるくせに、今更なにをそんなに動揺することがあんの!」
いやいや。黒尾さん爆笑してますけども、とんでもないことを言ったのは貴方ですよ。私のことをその体内に宿す時計で感じ、寂しいと嘆き、悲しいと叫び、いつしか私という存在が愛おしいのだということに気付いてしまったんですか?
「私、とうとう黒尾さんに……お金騙し取られるゥ……」
「失礼過ぎる発言」
「だってえ…!私にそんな素敵な返答してくれたことって、今まで無かったじゃないですかぁ……!さっきから過度なスキンシップくれますし……幾ら必要なんですかァ……?」
「騙し取るネタ仕舞いなさい。そのもちもち頬っぺた、また伸ばしてあげようか?」
「そんな、吸い付くような柔肌だなんて言い過ぎですよォ、黒尾さんの為に手入れ施してるんですからいくら触ってもいいんですけどね!」
「いやそこまで言ってねえけど、なんかありがとな。好きな人?の為に努力する子って可愛いと思うよ」
「ヴァァァァッ?!!」
ぐさり、ハートの矢が突き刺さった心臓を抑えながら、その衝撃に耐えかねてうずくまる。おかしい。黒尾さんがこんなにラブビームを受け止めるプラス何か投げ返してくることなんか、ほとんど無かった。いつも「苗字チャンはホントおもしろいね」とか「そんなにボクのこと好きだと日常生活に支障出るでしょ」とか、揶揄いのネタとしてジャグリングしていたのに。ちなみに日常生活には支障出るどころか、毎日快適ライフですから。貴方のおかげでQOLが上がってますから。
「苗字チャーン。大丈夫かい?」
「大丈夫じゃないです……ときめきで殴打した責任を取ってください……」
「責任?そうなあ。今までの分もあるし、しょうがねえなぁ」
…えっ。
「…………正気、ですか?」
「ンー?」
「責任取って、婚姻届に判を押してくださると」
「突然階段をすっ飛ばすのヤメナサイ。それはまだ早い」
うずくまって俯いたままの私の頭を、ぽふぽふ撫でてくるこの人。一体全体どういうつもりなのか。こんな場面で、からかっていないですよね。流石に、本気に捉えてもいいんですよね。
その顔をいつものように眺め、穴が開くほど見つめるなど、今は到底できそうにない。
「卒業してからも、朝昼夕会いに来てくれる?」
あ、昼は流石に無理か。学校はサボるなよ。
彼が飄々と放つそんな言葉たちにも、返事ができそうにない。夢にまで見た未来が訪れた瞬間なのに。彼が告白してくれるシナリオを何度も何度もシミュレーションしては「勿論、喜んで」だとか、「一生愛してます」なんて、鮮やかに受け止めて綺麗に微笑む自分まで想像して。後世まで語り継がれるドラマチックシーンを展開するはずだったのに。
今、私の目には涙がいっぱいに溜まって。喉が震えてしまって。黒尾さんのくれた言葉が、本当に嬉しくて。
「あの……苗字チャン……?」
「…………返事、卒業式までで…いいですか……」
「エッなんで…?!」
予想外だったのか、黒尾さんの声は分かりやすく動揺している。だって、こんなに涙ぐしょぐしょでは、せっかくの薔薇色シーンが実現できません。私、黒尾さんの告白は余裕の笑みか、満面の笑みで受け止めるって決めていたんです。今はだめです、と俯いたまま、騒がしい教室の音に紛れようとした。
けれど、私のそんな願望などお構いなしなのか、黒尾さんは私の耳元で、ぼそり囁く。
「……好きにさせたくせに、その責任は取らないんだ?」
周囲の喧騒にかき消されそうなくらい小さいのに、私の聴覚は敏感だった。とんでもない発言たちの集大成とも思えるそれに、私は驚いて顔を上げた。そうして、また更に驚いてしまう。
そこには頬を染めて、はにかむ「らしくない」表情をする黒尾さんが居たから。先輩の顔。主将の顔。等身大の顔。たくさん見てきたのに、この表情だけは初めて見る。初めて、知る。
私に恋をする、黒尾鉄朗さんの顔だ。
「どうする?」
「よ、よろ……こ、ぇぐ……」
「ふは。苗字チャンのそんな顔、初めて見る」
「いやですかあァ……今なら返品間に合いますよお……」
「まさか。もっと見なきゃいけない顔とか場所とかあるし?一点物ですし」
「いってんもの、ばしょ…」
「明日からはどっちが先に会いに行くか勝負だな」
「……黒尾さんの敗北フラグじゃないですか」
「うるせーな!苗字とのあれこれに関しては負けないつもりだわ」
「……ふへへ」
「笑ってないで、返事をチョーダイ」
「そんなの、そんなのッ…………これからも、黒尾さんのこと愛してますからァァァ!」
あーあ。返事になってねえなあ。
そう零す彼の声は、今日も愉しげで。
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