涼しい。おでこ、冷たくて、気持ちいい。
「……ぅ、」
「……ん?おっ、やっと起きたか」
「…………やく、くん」
ぼーっと、揺らめく視界は、暗転する直前から繋がっているかのような感覚になる。「だから無理すんなって言ったのに」と、私を咎めながら、額に乗っていたらしい濡れタオルを退けて、代わりに冷えピタを貼ってくれた。ひんやりして、やっぱり気持ちいい。それから、指先を持て余したのか夜久くんは私の髪をさらさらと撫でつけてくる。なに、してるんだろ。
「……わたし、あ……私、」
「お前はバテて倒れた。保健室で寝てる自分の状況、分かるよな。あんだけ言ったのに。なんか言いたいことは?」
「ご……ごめん、なさい」
「よし。分かってんならいいよ」
そう言って優しく笑ってくれた夜久くんの顔は素敵だったんだけど、やっぱり世話焼きのつもりなんだろうなと思ったら胸が苦しくなった。なんで夜久くんが居てくれてるのかと、あまり回転の良くない頭のままに質問すれば「……芝山にも場数踏ませたいから。タイミング的に俺フリーだっただけ」と、なぜか少し目を逸らして答えてくれた。夜久くんらしい返答なのに、どうしてそんなふうに眉を下げるのか。
「ありがとう。目が覚めた時、誰か居てくれて安心した」
「そっか。……そうだ、なんか食える?苗字、熱中症かと思ったけど、寝不足と貧血だってさ。放っておくと熱中症にもなりかねないから体は冷やせって、先生言ってた。アイスあるけど」
「んん……食欲は、ないかな」
「まあ起きたばっかだし、そうだよな。じゃあスポドリだけでも飲めよ」
「ん、あとでもらう」
「目が覚めたんだから今ひと口でいいから飲め。起きられねえ?」
「あんまり、起きたくない……」
軽い目眩と頭痛が後を引いて、枕から頭を起こしたくない。わがままであるのは十分に理解しているけど、具合の悪さで辛いのを我慢できないような顔は、あんまり好きな人には見せたくないんだ。寝たままなら、まだ笑っていられるから。できればこのまま、夜久くんに立ち去ってもらえると有難い。まだ側に居て欲しいけど、この姿を見て欲しくない。裂けそうな想いが、ぐちゃりと絡む。
そんな私を見兼ねたらしい夜久くんは、しなやかな腕を私の背中に滑らせ、肩を掴んだ。次の瞬間には、強く引き寄せられて。重力に逆らおうとする頭を抱くように、彼は私の上躯を腕で支えてくれた。ちか、い。夜久くんの匂いが、すぐ側にある。真剣な顔して、こっち見ないで。呼吸、できない。
「っ、ぁ、…」
「強引に抱き起こしてごめん。汗くさいかもしんない。けど、これなら飲めそう?」
「いやっあの、いいのに!わざわざここまでしてくれなくて…、わるいよ、離して…!重いでしょ、近いでしょ、暑いでしょ、」
「いいんだよ。普段、苗字だってわざわざここまで〜ってこと、俺らに散々やってくれてんだから」
半ばパニック状態だった私を宥めるように、夜久くんはいつもの朗らかな笑みを向けてくれる。ああ、その顔なら見慣れている。ほう、と息をついて、落ち着きを取り戻す。夜久くんの真剣な目は、心臓にわるい。冷静になった頭は、夜久くんの言動が気にかかって。つい、尋ねてしまった。
「あのさ、夜久くんの言い方だと、私は普段、余計なことしてる……みたいな感じ?」
「余計なこととは思ってないけど。まあまあやり過ぎってことはしてる」
「……なんか、ごめん。ちなみに、具体的にどんなこと……?」
「ん?いや、ほら……部員のマッサージとか」
「えっ?!だってあれは夜久くん達が、やってくれたら嬉しいって言ったから……!」
「ああ、悪いことしたなって思ってる……本気でやるのかよって皆言ってるけど、あんまりに頑張ってくれてるから誰も止めらんなくて」
照れたような、申し訳なさそうな顔をする夜久くんを目の当たりにし、少し下がったはずの体温がまた熱を帯びる。恥ずかしさもあるかもしれない。けど、それより強いのは、なんというか情けなさで。マネージャーとして、みんなの気持ちは誰より理解していたかったのに、大層不甲斐ないことをしていたらしい。自然と、ごめんねと呟いてしまう。
「はあ……そっか、みんな迷惑がってたの、知らなかったよ。私……恥ずかしいね、」
「いやっ、違げぇって!有難がってんの!苗字がそんなふうに誤解すると思ったから皆言えなかったとこもあんの!あとは、ただ、」
「ただ……」
「あー、いや……その…なんつか」
「なに?言って、教えて。私ができること改善する」
「いや、そういうのじゃねえんだ……あー、のな」
「うん」
いつも、正々堂々真っ向勝負をモットーとしている夜久くんの表情が曖昧に曇り、言の葉がどもる。そんな顔をされると、ますます改善しなきゃいけない気持ちになってしまう。なに?ともう一押しすれば、夜久くんは私からあからさまに目を逸らしながら、唇を動かした。
「み…皆、男子高校生だからさ、女子のお前に体触られて、さすられたり揉まれたりするから、ちょっと複雑な気持ちになるっつうか、」
「いっ嫌だった……?!的な?!ごめん、本当に全然気が付かなくて、私そんなに迷惑なことずっと……」
「だから違ぇって!〜っああもう…!気持ちよくて困んの!!」
「き、」
私はいま、何を言われているのか。他でもない、好きな人に。夜久くんに。とんでもないことを言われたんじゃないのか。目と鼻の先にある、夜久くんの頬は火照ったように染まっている。せっかく静まった脈が、また速くなる。数十秒の沈黙、私は、何も言えない。だって、何を言ったらいいのか。のちに夜久くんが、こちらを向かないまま言葉を発してくれる。
「お、俺はな……まじで気持ちよくて、変な気分にまでなるからさ」
「へん……」
「だから正直、あんまり皆にマッサージして回ってほしくないっつうかさ」
「……変、って、なに……?すごいショックなんだけど、」
「いや批判じゃないって……その……苗字はさ、手つきが、やらしいんだよ」
ぱちぱちと、瞬きをしてしまってから。耳まで真っ赤になった夜久くんの言葉の意味を理解して、身震いしてしまうほどに動揺する。
「私そんなつもりじゃないよ……?!」
「分かってる!分かってるよ、多分俺が気にするせいなんだ!」
「夜久くんが?なにそれ、どういう意味」
狼狽えたせいで、支えてくれていた彼の腕からすり抜けそうになった私の体をまた、ぎゅっと掴まえてくれて。くっついてる部分が暑いな、なんて思っていた矢先、あっという間に、その胸板へ抱き寄せられた。背中と、頭の後ろに添えられた手のひらは優しいのに、腕の力は強引さが拭えない。少し、くるしい。お互いの左側で鳴り続ける強い鼓動が、触れている場所から伝わるような。ぴったりと寄り添う、いや、密着するこの状況に、私の心臓は危うい。
「あ、の……?!」
「気付かなかったか……?俺、ずっと苗字が好きだったんだ」
「ぇ、ヘェ?!なにそれ、うそ、うそだ……!そんな突然、」
「突然、に見えてたか。これでもアピールしてたつもりなんだけどな。お前と俺、結構良い感じの関係かなって思ってた。んん……わり、勘違いしてたな。なんか、ダセェな俺」
夢かどうか、嘘か本気か考える間もなく。抱きしめられた体がやんわり離れ、ようやっと視線を合わせた夜久くんの瞳は、切なげに揺れている。私の、せいか。私の反応を見てそんな表情をしているの。あんなに真っ直ぐボールを追い続ける彼のそんな顔、見たくない。「ごめんな」と、言って私の側から離れようとする。違う、違うよ。私だって。ううん。私の方が。高校から私のことを知った夜久くんより、私の方がずっと。
勝手に謝って、立ち去ってしまおうとする夜久くんの、黒いTシャツの裾をぎゅうと掴んで、力の限り引っ張って。その腕を掴まえて。今度は私が彼を引き寄せた。慌てた声を出しながら、夜久くんは片手と、片膝をベッドにつけて、ぐんと近くなった私の顔をその透き通る両目で捉えてくれた。夜久くんがバレーをするうちは言わないと決めていたけど、今言わなきゃ、後悔する。
「わ、たし……私は中学の頃から、夜久くん、好きだった……」
「え……え、は?」
「私、中学までバレーしてたって言ったでしょ。私はずっと、大会で他校の夜久くんのプレー見てたっ、すごく、かっこよくて、好きだった!だから音駒で、同じ高校入ったの知って本当に嬉しくて……バレーの練習辛かったから高校では関わらないって思ってたけど……辛くて辞めたのに、気付いたらマネージャーになってた」
「苗字、」
「夜久くんのバレーする姿が、楽しそうだったから……もっと見たくなった。好きだった時間は、私のほうがずっと長いもん、夜久くんダサくない……素敵なんだから…、私の好きな人のこと、そんなふうに言わないで。私を好きって言ってくれるなら、最後まで、ちゃんと話、聞いて……」
「……っ、苗字ごめんな。お前の気持ち知らなくて、軽はずみなこと言った。悪かったよ、泣くな」
「泣いてな…い………っ、んぅ、!」
むぎゅ。粗雑に押し付けられた感触は、初めて知る。ねえ、夜久くん。私は話を聞いてと言ったんだよ。君は今、何をしたの?いきなりこんなことするの、ひどいと思わない?私、初めての瞬間には憧れてたんだよ。相手が夜久くんじゃなきゃ、めちゃめちゃに怒ってるよ。
「中学の頃からじゃ確かに勝てねえけど、俺だって一年の頃から苗字が好きだったよ。なんでも一生懸命になるお前はすげえ可愛い。苗字が倒れて、まじで焦った。練習身に入んないくらいずっと心配してたんだ。本当は俺がここに居るのだって偶然じゃなく、俺が自分で、苗字が起きるまで側に居たいってコーチに頼んだんだ」
「あの、夜久くん、今そんなことより……きす、」
「これからは無理すんな。マネだからって遠慮しないで俺を頼れ。ちゃんと守りたいからさ、彼女になってくれる?」
「ぁ、の……」
「な?」
説明と、キスと、告白と。たくさんの情報を一度に与えられて、処理が追いつかない。だから私の話も聞いてってば。君の前じゃ恥ずかしくて少し口下手になっちゃうけど、私、ファーストキスだったんだよ。告白だって、一世一代のそれなのに。夜久くんが私のことをそんなに心配してくれたって知らなかったし、なにからなにまで、どう伝えればいいか分からないのに。私に残されたのは、はい、という、か細くも肯定の意を示すことだけ。夜久くんは、ずるいね。
「……やっぱり夜久くん、何もかも突然すぎるよ。いつもこんなじゃないから、ついてけないし、驚く」
「えっ、なんかまずかった……?俺、お前のことになるとあんまり余裕無くてさ。ごめんな」
「いい……夜久くん、私も夜久くんが、す、好きです」
「ああ……そ、か。うわ、なんか照れるな……すげ、嬉しい」
それから、動揺するばかりだった夜久くんの表情は満面の笑みに変わった。そう。この人は、笑った顔が本当に素敵で。試合が終わって、勝利を掴んだ時の顔が、私は大好きなんだ。
「苗字さ、俺の彼女になったからには、これまで以上に世話して心配するからな」
「いや、それどちらかと言うと私の役目だし……」
「関係ねえよ。こういうの、今後無しだぞ。お前、夜中も寝ずになんかやってたってマネ達から聞いたぞ」
「うう……すみません」
不甲斐なさ、情けなさ。それから、有り難さ。夜久くんがくれる気持ちはいつも、頼もしくて優しい。
「んじゃあとりあえず今、何か頼りたいことは?」
「あー……そういえば……水分、とりたい、なあ、と」
「水分ならここに……」
「自分で飲むのは、しんどいなあ……」
「は?!まじか、そういう事も言うのか苗字……」
「だって!私、初めてのキスだったのに一瞬で終わっちゃった!もっと、大事に時間かけたかったのに」
「じ……時間かけたかったんだ、苗字って意外と大胆、」
「ちょっと何その目……?!違うよ、私は本当に悲しくて、」
「分かったから。静かにして。苗字が起きたって分かったら、誰かしら来ちゃうだろ」
側にあったペットボトルを掴んだ夜久くんは、一度だけ私に視線を合わせてくれる。
「……くち、開けろよな」
「ぅ、」
囁かれる声が艶めかしくて、言いなりになってしまう。やらしいのは、大胆なのは、どっちよ。夜久くんのほうがずっと、やらしい。
さっきとは違い、やんわりと触れた唇が私のそれを少し食んで、同時にぬるい液体が流れ込んでくる。汗でたくさん失ったものたちが、体に取り込まれていくような感覚。そこに、一際甘くて、とけそうになるものが混ざっていることに、私は気が付いてしまう。もしかすると、この味はずっと好きでいてくれた感情なのかもしれないって、思うだけで、泣きたくなって。迷惑をかけたのに、嬉しくなってしまう。
夜久くんの、汗がしみたTシャツをぎゅうと掴んで。微かに当たる舌先に感謝を込めて。申し訳ないけど、長年の想いが実った今だけは、務めを忘れ喜ばせて欲しいって、この空間にまだ誰も来ないでくださいって、心の中でひっそりと願った。
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