なんであの時、忘れてと言ってしまったのか。今思えば、それは単なる逃げだったと、はっきり分かる。本当は付き合いたかった。振られたくなかった。あの声で、あの顔で、「ごめん」って、多分どうしても言われたくなかったんだ。けれど、そこを逃げたばっかりに、今現在連絡を取ることすら叶わない関係になってしまったのは、不幸な結末とも言える。
それでも、思い出すのはあの時見た歪んだ表情ではなく、日々私に向けてくれた満面の笑みだった。一日、一輪ずつ差し出してくれるように「名前さん」と呼んでくれた。向日葵をたくさん見たせいか、いやに鮮明に思い出してしまう。今何してんのかな。運良く、たまたま、会えたり、しないのかな。
「名前、名前ってば!」
「へ?!な、なに」
「次、何飲むって聞いてんの!」
「え……ああ」
日中は向日葵畑の散策をして、夜はリゾートホテルの併設レストランで食事というスケジュールの慰安旅行は、淡々と時を刻んでいた。私の手には空になったグラス、目の前にはほろ酔いを越えた女友達が二人、頬を火照らせて私をじっと見つめている。
「は、ハイボール」
「りょーかい。すいませ〜ん!」
「てかさ、名前さっきから何度もボーっとしてるけど、どうしたあ?」
「え?してた、かな」
「してたしてた。なに、なんかあんの。あっ新しい彼氏か?!」
「居ないよそんなの」
「じゃーなによ。昔の男でも思い出してたか?」
「うーん、ニアピン」
「ごちゃごちゃ考えてないで話せ〜!全部言っちゃえ〜!!」
出来上がった酔っぱらいの絡み酒にせがまれて、私は一瞬たじろぐ。そんなところへ追加のハイボールが運ばれてきて、目の前にドンと置かれる。そうだ、自分も酔っぱらってしまえばいいんだ。せっかく羽伸ばしに来たのに一人だけ正気を保っているのも虚しい。いっそ、全部ぶちまけて、本当に忘れてしまおう。どうせ、二度と会えやしない。夜久とはきっと、もう今生では交わらない運命だ。
ジョッキの半分まで一気にハイボールを飲み下して、私は二人に向日葵畑での回想を赤裸々に語った。
「やくくん?……あー!あのちっちゃい子!確かにあんた、高校ん時仲良かったよね」
「ちっちゃくても、心はでかいんだよ」
「ふーん。で?その夜久くんとなんかあったってこと?」
「いや、ただ思い出したってだけ」
「は?!なんじゃそりゃ!つまんな!」
「もしかして名前、卒業してから今まで彼氏作んないのって、その夜久くんのことがあるせい?」
「……それは、」
喉から何かが出そうになったから、ハイボールをぐっと口に含んで、無理やり飲み込んだ。いまさら私が何を言えようか。勝手に好きだと言って、戸惑わせて、勝手に無かったことにしようとして、夜久を怒らせて、結果として、全部失くした。一緒に過ごしてきた時間の中で、夜久は、逃げるような人間を好まないって、分かってたはずなのに。
「ずるかったんだよなぁ、私」
「はあー?何言ってんの名前。人間はみんな狡いものだよ」
「そーそー。特に恋愛に関しては、綺麗事言ってらんないよ。名前さあ、なんか後悔してるなら、それ片付けたほういいよ」
「片付けるって……」
「夜久くんの連絡先くらい、どうにかすりゃ手に入るっしょ?!私らも協力するから、この旅行終わったらモヤモヤ解消したほういいよ」
アルコールの力によって、饒舌さの増した友人二人は、「今日はとにかく飲め飲め!」とその辺にあった瓶ビールを空のジョッキへがばがばと注いだ。肩をばしばしと叩かれ、渦を生していた感情が、少しづつどうでもよくなっていく。そうだ、私は一体何年このやり切れない感情を持って生きていくつもりなんだ。いい加減、区切りをつけなきゃいけない。景気づけ、と称して注がれたビールを一気に飲むと、ワッと二人が盛り上がってくれた。
それから、しばらくお喋りが続いたものの、二人は酔い潰れてしまった。それぞれ部屋へと送り届けて、私はひとりおみやげコーナーでも見ようとロビーを目指した。
しかし、流石に少しふらつく。段差のある場所を歩くのはちょっとこわいかも。量は飲んでないけれど、一気に煽る回数が多かった。この歳で急性アル中は笑えない。救急搬送とかされたら、恥ずかしすぎる。でも大丈夫。だいじょうぶ、歩けてるし。ふわふわしているのも心地よいし。そもそも今日は慰安旅行だし。心ゆくまで羽根伸ばしたって、誰にも叱られないでしょ。今の気分はもう、下町の酒場を自由に歩く、放浪人である。
「ん〜ふっ、ふ、♪〜」
鼻歌交じりに歩いていると、どん。っと、鈍い衝撃が、与えられる。数秒してから、頭の中で「言わんこっちゃない」という言葉が浮かんだ。まあ、そりゃあね、酔っぱらいがちゃんと前も見ずに歩いていたら誰かもしくはどこかにぶつかるでしょ。バカだね全く。救急搬送よりはマシだけど、それでもいい歳した大人が恥ずかしいんじゃないの。なんて、捲し立てるような勢いで自分を咎めるものの、酔っぱらいは気が大きくなるものでして。ふにゃふにゃとしながらも、とりあえず謝罪の意を唱え、やんわりと顔を上げて、相手の顔を拝見した。
「すみませんん、ちゃんと前見てなくてぇ」
「いえ、こっちこそすんませ……」
「……ぇ、」
顔を上げた先に広がったのは、まるで残像。そう思うのも仕方ないと思うんだ。だって、こんなところで出くわすなんて聞いてない。全てはこの旅行が終わってから、ってさっき、あっちゃんとユーコが言ったじゃんか。なのに、なのに。
「名前さん?」
一気に、酔いが覚めていく感覚がした。
「や、く……?」
「おお。やっぱり名前さんだ。久しぶりっすね。なんかめちゃくちゃ顔赤い。酔ってる?」
「なんで、嘘何、なんで、」
「偶然っすね。なんでそんな慌てんの」
「どうして?なんでここにいるの?なんで、」
「なんでって、俺は普通に旅行……」
「りょこう……?」
その言葉に、思わず視線を下げて、夜久の左手を無意識に確認してしまった。旅行にも種類がある。代表的なのは、私たちのような慰安旅行。それから、男女の旅行。指輪がはめられた薬指の幻影を、確かめようとしたんだ。しかし、視線を落としてから、ハッとする。そんなの気にするとか、私、めちゃくちゃ卑しくない?私は夜久と何の関係もない。むしろ、疎遠になってしまった間柄だ。
しかし、時既に遅しのようで、夜久は私の視線に気付いたらしく、ひらりと左手を上げて「まだ結婚してねっすよ」とニヤついた。その悪戯めいた表情は、昔となにも変わっていなくて。胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
「名前さんこそ何してんすか」
「わ、私だって旅行……」
「男と?」
「おっ女と!」
「ぶはっ!必死か」
くつくつと笑う夜久を、ようやくまじまじと視界に映す。悔しいくらいに、格好よくなっている。微かなあどけなさを残しながらも、成人男性の余裕が全身から滲み出ている。ずるい。こんな場面で出くわすなんて、聞いてない。こんな劇的な展開が待ち受けているなら、私だって女磨きは怠らなかったのに。
「名前さん、全然変わんないっすね」
「……それ褒めてないよね」
「褒めてる褒めてる」
相変わらず、可愛いっすよ。
まるで息を吐くように、さりげなく告げられた台詞に、自分の耳を疑った。夜久、今、私のこと可愛いって言った?夢か。これは、夏の夜の幻か。その場に固まっていると、幻かもしれない夜久がおもむろに「時間ある?」と尋ねてくるので、深く考えることなくコクンと頷いた。すると夜久は、にかっと笑んで、どこかへ歩き出した。どこ行くの、なんて聞かない。どこでもいいから。なんの用、なんて聞かない。なんだっていいもの。
長らく感じていなかった高揚が、心臓をこれでもかというほどに稼働させる。どうしよう、嬉しい。夜久に、もう一度会えた歓びが、沸々とわき出す。
「名前さん。こっち」
ホテルから出た夜久が、私を手招きをする。辺りは真っ暗。そりゃそうだ、夕方から飲み始めていたわけだが、今は二十時を過ぎていたはずだ。何か用事でもなければ宿泊客はホテルの外へ行かないだろう。と、思ったのに。
「なんか、外出してる人多いね」
「んー、多分ライトアップ時刻がもうすぐ終わるからじゃないすか?」
「ライトアップ?」
夜久が先導する斜め後ろをついて歩く。夏独特の温い風が、暗がりを吹き抜ける。大方無言で歩いて、たまに「夜でも暑い」「暑いね」と言い合って。しばらく歩いている途中、また風が私達の間を通り抜けた。あ、花の匂い。
「名前さん、ほら。あれ。ライトアップ」
「わ……!」
夜久が指さした先に、ぼうっと光る丘が見えた。昼間の向日葵畑だ。知らなかった、夜はあんなふうに見ることができるらしい。近くに行きたい、と夜久にせがむと、結構遠いよと少し眉を下げたものの「行くか」と笑ってくれた。きゅん、と胸が鳴った。
夜道を歩きながら、ふと思う。私、なんでこんなに夜久と普通に会話してるんだ?最後に見た夜久の顔、忘れたわけじゃなかろうに。浮かれるにも程がある。夜久だって、私の態度に驚いたに決まってる。だから少し、困った顔をしたんだろう。
しこたま飲んで、酔っ払っていてよかったな。何かあっても全部酒のせいにできる気がする。成長した夜久の後ろ姿を見ながら、私は浮かれついでにお喋りでもしてやろうと口を開いた。
「夜久は今、仕事とか何してるの?」
「ロシアでバレー」
「は?海外?てか、バレーって?」
「一応バレーのプロ選手」
「えっ?!」
「はは!なんだ、知らなかったんだ」
知らなかったんだ、と言った夜久の笑い声は少しだけ乾いているように思えた。表情が見えない分、聴覚で捉えた今の夜久の感情は、どうやら不服と取れる。
「ごっごめん、プロアスリートとか知らなくて、夜風当たって平気?!というか、一般人と歩いて大丈夫?!週刊誌とか、パパラッチとか、」
「芸能人じゃないからそんな遠巻きにしないで欲しいんすけど」
「でも、」
「俺は国内チームじゃないし、別に大丈夫っすよ」
「そ、そうなんだ」
「まあ今シーズンから日本代表に招集されてんすけどね」
「?!?!!」
「……名前さん、俺の事なんにも知らないんすね」
「え……」
夜久の足が、ぴたりと止まる。つられて、私も止まる。私の方を振り返った夜久は、なんとも、苦しげで、切なげな顔をしていた。郷愁、ある種のノスタルジーを思わせるのはどうしてだろう。
――ああ、あの時の顔とおんなじなんだ。最後に見た、悲痛に歪んだ顔。なにか、言わなきゃ。なにを。そんなの。決まってる。後悔してることを。忘れてなんて言ってしまって、今でも後悔してるってことを。
「やっ、夜久、わたしッ……!」
「俺、名前さんのこと好きだった」
「…………へ、」
「けど、あの時……好きだって言われた時、めちゃくちゃ戸惑った。名前さんにそんなふうに思われてると思ってなくて、思ってなかったからこそ、俺も友達感覚でいなきゃって、勝手に決めつけてたんだ」
夜久の、懺悔に似た告白は止まらず、彼の口からこぼれ続けた。
「だから、忘れてって言われて、すげえ腹が立った」
「……」
「なんで逃げるんだよって思った」
「夜久……」
「でも、俺も結局逃げた」
「……そんな、」
「あの時ちゃんと言えばよかったんだ。言わなかったせいで、ずっと、ずっと胸の奥がもやもやしてた。……そんで、今も逃げようとした」
なにから?
私がそう尋ねる前に、夜久が私の腕を掴んだ。くっと引き寄せられて、気付けば彼は私の眼前に迫っていた。鼻先が触れそうなくらいに、近い。近すぎて、息が、詰まる。ゆるりと腰に手が回って、さらに距離は縮まる。
「ゃ、く、」
「“好きだった”なんて嘘だ。俺は今も、名前さんが好きだ。女々しいかもしんないけど……ずっと、言えなかったんだ」
女々しいなんて、これっぽっちも思ったことはない。夜久は体格の割に男前で、堂々としていた。からりとした夏の陽射しのような雰囲気を纏いながら、いつも私の側に来てくれた。
もう、いいや。この先がどんな関係になるだとか、もう知らない。今ここで全部言わなきゃ、バカだ。
「わた……私だって、ずっと夜久が好きだった!忘れてって言っておきながら、あの日の夜久の顔が忘れられなかった……!」
「名前さん、」
「忘れてなんて、言わなきゃよかったって……そしたら、今でもきっと、夜久と話せてたかもって……今も好きって伝えられてたかもって、うわっ?!」
無理やりに引き寄せられた腕に、微かな痛みを感じた。気が付けば、私の頬は夜久の胸に強く押し付けられていて、ドクドクと脈打つ心臓が全身に伝わってくる。なにこれ、顔が熱い、音が速い。速くて、くるしい。この心音は自分?それとも夜久?
「夜久、っ、」
「本当はさ、俺、昼間に向日葵畑歩いてる名前さん、見かけてたんだ」
「え……」
「何年ぶりかに顔が見れて、めちゃくちゃ嬉しかったのに、どうしても声掛けらんなくて……ホテルに入ってったのを見て、泊まるんだって知って……だから無理にスケジュール変えて……」
「え、」
「明朝には東京戻って、代表トレーニング合流するって条件で、俺もホテルに泊まった」
「え?!それ、えっ、夜久だめじゃんえっ何してんのこんなとこで、」
「あんたに会いたかったの!!!」
「っ、……、」
夜久が耳元で大きな声を出すから、私はびくんと体を揺らしてしまった。そのせいか、夜久は小さくごめんと呟いた。
「あー……だせぇ、本当にだせぇ」
「そ、そんなこと、」
「偶然に会えて、運命って言ったほうが絶対良かったっしょ……?名前さんそういうの好きでしょ」
「っそれいつの話して、」
「今はもう好きじゃないの?」
「……すき、だよ、そりゃ運命はいつだって誰だって好きでしょ」
「だよなあ。あー、失敗した。さっきのシナリオ忘れて?やり直すから」
「なっ……」
私が勢いよく顔を上げると、夜久は「忘れてって言われてどんな気持ち?」と、一瞬悪戯っぽい顔をしてから、みるみるうちにひどく切ない表情になってしまった。“忘れて”という言葉には、なにが込められているのか分からないけど、なるほど、確かにつらい。私にとっては、夜久との出会い全てがかけがえの無い時間で、それを忘れろとは、なんと無慈悲なことか。
「やだ、忘れたくない……シナリオとかどうでもいい、夜久が居ればなんでもいい、ダサくなんか、ない」
「……はは。ようやく分かってくれた?」
「なにが……」
「好きだって言われて嬉しかったのに、上手く返事が出来ずにいたら、やっぱり今のなし忘れてって突き飛ばされて、踏み倒された純情な高校生男子の心の痛み」
「ご……ごめん……」
私が項垂れると、夜久は私の背中に回していた腕の力をぎゅうっと強めた。
「名前さん」
「うん、」
「好きだ」
「私も、好きだ」
「これから付き合ってくれる?」
「あ、え、ええ、私で、よければ……」
「結婚前提、でいい?」
「ひぇ」
「もう逃げたくないし、逃げられたくないから」
はにかんで、少しバツが悪そうな夜久は、それでも真っ直ぐに見つめてくる。ああ、この人はもう逃げないんだろうな。私も、もう逃げたくないな。
「……喜んで」
静かに腕を回して、夜久の頬に口付けると、夜久は私の唇にそれを返した。あの丘では、たくさんの向日葵が眩しく照らされているんだろうけど、私の目の前にも、柔らかくて、温かな大輪の花が、この時を待っていた、と言いたげに、強く、しなやかに咲き誇っている。
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