古森と街で遭遇したあの日から1ヶ月が経った。けれど、私と彼の関係には特段の変化が訪れることはなかった。いや、あの時の期待なんて些細なものだったから別にいいんだけど。私は今月もまた、痛みとの戦いが始まってしまった。外は先月よりも寒さが厳しくなって、毎日凍えるような冷たさが襲い来る。そのせいなのか、私の症状はやっぱり重かった。何度古森の温度を思い出そうとしても、鮮明には蘇らなくて。夢だと思って懸命に記憶しようとしなかった自分を少し悔やんだ。
冬休みを目前にした学期末テスト期間を迎えた今日はどの部も活動停止だ。放課後がやってくると、教室にいるクラスメイト達はテスト勉強にかこつけた合コンもどきのセッティングにざわついた。私の周りにいた友達も、これからどこに行くなどと話している。私は早々に断りを入れようと口を開きかける。痛みが弱いタイミングで帰路についてしまいたかった。すると、クラスで一番大きな塊になっている子達の声が教室中に響いた。
「どこでやる?また古森ん家?」
「古森くん家、広いよね〜」
「なあ古森、行ってもいい?」
「何人くる?古森ん家行く人手挙げて〜!」
古森を中心にしたその輪は、クラス以外の女子がちゃっかり紛れ込んでいた。もちろんその手はしっかりと挙げられている。女子も家に上げるんだ。なんだ、結局そういう奴なんだな。私にだけ優しいわけじゃない。分かってた。分かってたのに、胸が苦しい。私は猫背になりながら、ごめんね帰ると友達に告げた。痛みの波がひどくならないうちに教室から退散する。
「悪い!俺パース!」
輪の中心から古森の弾けるような声が、廊下を歩いていた私の耳まで届いた。「えー!」とブーイングが教室から漏れ出した。やっぱり古森は何考えてんだか、私には全然分からない。あんなに古森を求めてくる人が居るのに、なぜ断る。意味わかんない。とろとろ歩いていると、背後から駆けてくる足音がしたので少し端へ避ける。音が横に並びそうになった瞬間、グンッと右腕を掴まれて勢いのまま引っ張られる。びっくりして顔を上げると腕を掴んでいるのは古森だった。
「なにっ……ちょっ、と、……こ、古森…!?」
「行くぞー!」
「は?!」
古森は私に満面の笑みを向けて走り続ける。廊下ですれ違う人達の視線が私に刺さる前に、ざーっと流れていく。古森の足が速い。足がもつれないように、ついていくのがやっとだ。廊下を走るなという先生に鉢合わせることなく、昇降口まで辿り着くと「早く早く」と靴を履き替える私を古森が急かす。私がローファーを履いたのを確認して、彼はまた右手を掴んで走り出した。もう何がなんだか。
あっという間に駅までやってくると古森は「乗るよ」と言ってICカードを見せて改札を通る。私も慌ててパスケースを取り出して、後を追った。ホームに着くと同時に電車が来たせいで、私は古森に何も聞けず降りる場所も分からないままそれに乗った。ドア付近に立ちながら、古森は鼻歌を歌って窓の外を眺めている。久しぶりに走ったせいで乱れる呼吸を整えながら、私は古森にようやく尋ねる。
「古森、あんた何してんの……」
「いいからいいから。あ、今日体調平気?」
「平気じゃない」
「えっ!ま、まじ?時期的にそうかなと思ってたけど、大丈夫?」
「人の周期を把握しないでよ!まあ、今は、痛くはないけど」
「そっか。具合悪くなったらすぐ言って」
古森はニッと歯を見せて笑う。どこに行くのかは教えてくれなかった。なんでこんなことをしたのかも、教える気はないらしい。ただ、愉しそうに笑っている。ああ、明日から学校どうしよう。憂鬱が生まれるけど、古森を見ているとこれもまた夢かも、と非現実的な空間に居る気がして割とどうでもよくなった。
*
古森が連れてきたのは、多分学校から一番近場の水族館だった。なんで?と聞くと古森は「疲れた時には、癒しの生き物だろ」と言った。主旨は分かるんだけど。
「にしてもなんで突然水族館?」
「ええ、だって……動物園は屋外でこの時期寒いし、ふれあい系はお前がアレルギー持ちだったら楽しめないでしょ。スイーツ系だとお前具合悪そうだし、あんま食べなそうじゃん。カラオケとかも然りだしさあ」
「はあ、」
「そうなると近場の癒しで思いつくのはもう水族館しかないんだよなあ」
淡々と話しながら、古森はさりげなく2人分の入場券を買って「はい」と私に1枚渡してきた。ランダムで配布される水族館チケットの柄はゴマフアザラシだった。古森に似てる。主に眉毛。古森のはクラゲで「苗字に似てる」と言われた。どの辺が似てるのか。そう聞くと、青白く透けてるところ、だそうだ。それ体調悪い時の顔色じゃん。思わず笑ってしまうと、古森もケラケラ笑った。
「というか古森さ、すごい色んなこと考えてるんだね。頭の回転早すぎ」
「いやいや、ずっと考えてたんですー。苗字の癒し方。あとは単純に、俺が海の生き物好きだから来たくなった」
理由なんてそんくらいで十分だろ。古森はそう言って、水族館の順路を進んだ。果たしてそうだろうか。言及する部分、もっとあると思う。けど、水の中にいるような神秘的な空間から古森が手招きをするから、難しいことを考える気はもう起きなくなった。小さい頃に家族で訪れた以来で、久しぶりに見る水族館の展示はどれも工夫を凝らしていた。ライトアップや音とのコラボレーション、全てが幻想的だった。深海魚コーナーに差し掛かると、古森が嬉しそうな声を出した。珍しいものが好きなのかな。
「めっちゃすげえ」
人気者であり、まとめ役の古森が少しはしゃぎながら私の隣にいるのもなんかこう、幻的なあれに思える。じっと見つめていると「どした苗字。俺、深海魚より珍しい?」と言われて思わず吹き出した。そうね、と返すと古森は特徴的な眉を顰めた。褒め言葉かどうか分からないと呟いたから、私はとりあえず曖昧に笑っておいた。
少し進むと、小さな水槽がいくつも置かれた熱帯魚コーナーが広がった。とある水槽の前で古森が立ち止まって、わざわざ屈んでじっと中を見つめた。古森の顔に、水槽を照らすぼやけたライトが反射している。
「俺、熱帯魚好きなんだよね」
「ふうん……意外だね」
「そう?」
「古森はどちらかと言うとあれだよ、イルカって感じ」
「どういう意味なのそれ?」
「ああ、まあ……」
イルカはどの水族館でも人気者だから。そう言いたかったけど、あまりにも根暗な感情な気がしたからそれは飲み込んだ。古森は水槽の中で泳ぐネオンテトラを見つめて「こいつが一番好き。俺とよく似てる」と微笑んでいる。どこが似てるんだろう。ネオンテトラなんて、私みたいな存在のほうがお似合いだと思う。あんなに小さくて、色だけ目立って、大勢の中のひとりでしかなくて。
ああ、だめだめ。こんなの絶対言えない。私は言葉を差し替えて、当たり障りのないように尋ねる。
「……どこが似てると思うの?」
「熱帯魚って、ユニフォームに似てると思わねえ?」
「お、思ったことないかな。バレー部のユニ黄色と黄緑じゃん。セキセイインコみたいな」
「あっはは!確かに!」
セキセイインコがツボだったようで、古森はしばらく笑った後、水槽の高さまで屈んでいた姿勢から立ち上がって私の真横に並んだ。ちらりと私に視線を向けてから、彼は言葉を続ける。
「まあ、あれだよ。こいつら、種類ごとに同じ色着ててさ。そん中で、個性を伸ばそうと必死に泳いでるように見えんだよね」
「…………ふうん」
古森の言葉の意味はよく分からなかった。傍目から見れば成功者の古森でも、それなりに悩みがあるってことなのかもしれない。古森の目には、世界はどう映っているんだろう。私のことは、どう見えているんだろう。聞きたいけど、勇気が足りないや。
順路の出口直前は、クラゲコーナー。ふわふわと揺れるクラゲを見て、似ていると言われたことを思い出す。古森が私のことを思う時間は、きっとここを抜ければ終わってしまうんだろう。なんで水族館に連れてきてくれたかについての本当の理由は聞けないままだ。『癒し』なんてそんなのあるはずない。私より癒しを、古森を求めている人はたくさんいるのに。水槽を眺めながらも全く展示を見ていない私に気付いていない古森は、クラゲをじっと見つめて言う。
「あれ?やっぱ似てないかも」
「なにそれ。適当か」
「違くて。苗字はもっと可愛い。こんなふわふわした感じじゃなく、もっと元気な可愛さがあるなって」
古森の言葉を頭が理解した時、これは私の都合のいい夢だと強く思った。夢の中で、夢のような言葉を言われている気がした。それなら、私も言いたいこと言った方がいいんじゃない?こんな瞬間、多分二度と来ないよ。私の喉の奥から込み上げたものは、何にもせき止められることなく零れてしまった。
「好きだよ、古森」
「え?」
「大勢のひとりでしかなくても、私は古森が好き。ずっと前から好きだった」
返事は要らないから。そう言って自分史上最高であろう笑顔を作って、古森に見せた。彼は驚いた顔をしていた。そりゃそうだ。私に対する古森の感情なんて、クラスメイトのひとりなんだから。それでも、こんなの一時的に浮かれた時間だし、好き勝手言ってもいいじゃん。達成感に包まれていると、古森の手がゆっくり伸びてきた。その手はどこへ行くんだろうと目で追うと、追い切れず視界から消えて頬に柔らかな温もりが訪れた。眼前に広がる古森の顔。唇に何かが当たる感触。脳内に流れ込む情報量が多い。息が、一瞬、止まる。
「っ、」
「ごめん、言葉より先に手が出た」
「……反射神経、よさそうだもんね」
「そう。めちゃくちゃ動体視力いいの俺。じゃなくて!ごめん、ちゃんと言う」
俺もお前が好きなの。好きだからここに連れてきたの。元気になってほしかった。
都合のいい夢ですかね、と問いかけると、夢ではないですねと返された。横を通り過ぎるカップルが視界に入って、ようやく現実世界に引き戻される。恥ずかしさと、こんな展開の驚きと、心臓の動きの苦しさが一気に押し寄せる。古森の手を掴んで、足早に展示コーナーを離れて水族館からも出た。外に出ると、寒さがやっぱり身に染みるけど頭を冷やすにはちょうどいい気がした。何もかも唐突で、突発的に駆け抜けてしまったから。寒いからと近くのカフェに入って、古森が勝手にホットココアを2つ注文した。カフェインは良くないって、と言う彼に、どこまでもしっかりしてるんだなと感心すら覚えた。席に座って、ようやく落ち着く。なんだかあっという間だったのに、とんでもない密度の時間を過ごした気がする。ホットココアを飲みながら、古森が口を開いた。
「そう言えば体調どう?」
「ああ、あんまり痛くないかも」
「それさあ。思ったんだけど、運動不足なんじゃねえの?」
「ウッ」
先程までの出来事はもう彼の中では咀嚼されているようで、好きって言ったよねとかキスしたよねとか一切言わない。なんというか、古森らしい。私はまだ戸惑っているんですけど。
「運動不足は、あるかもしれない……」
「俺と一緒にランニングでもする?」
「ああー、うん、ジョギングにしてもらえるなら…」
「俺はベッドの上で運動でも全然いいよ」
「ベッド?…………っ、こ、こんなとこでなに言ってんの、古森サイテー!付き合ってもないのに変態!スケベ!」
「男はみんなスケベなの!……待って、俺ら付き合ってないの?」
「なんで?!いつそうなったの?!」
「好きって言ったしキスしたじゃん!えっ?!」
「古森誰にでもしそうじゃん!」
「するわけないじゃん怒るよ?!」
怒るよと言われて、さすがに失礼なことを言ったなと反省して素直に謝る。古森は口を尖らせた。そういう顔はあんまり見たことない。
「俺もうお前のこと彼女だと思うからね」
「はあ、」
「うわっ全然理解してない」
「古森が色々早すぎるでしょ。私ついていけない」
「ついてきてよ!ね、ほら、名前の彼氏」
「っ、なんなのほんと…!」
「元也って呼んで。そしたら実感湧くでしょ」
「いやです!」
「なんでェ?!」
誰のことも選ばなかったみんなの人気者は、なんと私を選んだ。バレー雑誌にも載るような彼は、ただのクラスメイトでしかなかった私にキスをする。そんな事実を実感するのは、たとえ私が『元也』と呼んだとしても、きっとまだまだ先の話なんだと思う。それでも彼は多分私の手を離さないんだろうなと思ってしまう。
目の前で微笑む彼が、本当に幸せそうな顔をしてくれているから。そんな顔をしながら「名前」って呼んでくれるから。夢心地から覚める勇気も、生まれそう。
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