佐久早先輩と最後に会話をしたあの日から、私は彼に近づくにはどうしたらいいんだろうと考えた。そもそも彼が相手にしてくれそうな人ってどんな人なんだろうと。進路を選択する2年生の間にずっと考えていた。考えてはいたけれど、特にきっかけがあったわけではなく成り行きで私は看護師を目指していた。佐久早先輩のしていた白いマスクが印象に残り過ぎていたのかもしれない。大学の看護科で勉強しているうちに、佐久早先輩のことはほとんど頭の中にはなくなって、ただ純粋に医療現場で働くことへの意欲が募っていった。
それから大学を卒業して2年。都内総合病院の産婦人科で働いていた私は、今年の春先に大阪の系列病院に異動が決まった。秋が深まって冬は目前。大阪の暮らしにもだいぶ慣れてきていた。
「苗字さん、今日から予防接種の患者さん来るはずやから対応お願いします」
「分かりました」
朝礼で看護師長にそう言われ、私は今日も医療現場での勤務に励む。ナースステーションから内科へ移動する間に、談話室から少し大きめのテレビの音が漏れた。年配の入院患者さんが見ているのかもしれないけど、音量を下げてもらわないと他の患者さんからの苦情にもなりかねない。私は談話室に入って、テレビの前に集まる数人に声をかける。
「すみません。ちょっとテレビの音小さくしてもらってもいいですか?廊下まで結構聞こえちゃってて……」
《難しいボールに合わせた佐久早、見事に決めたー!ブラックジャッカルこれで連続得点ー!!》
テレビの向こうで、忘れかけていた思い出の彼が小さくガッツポーズを決めている。Vリーグの試合だ。スポーツチャンネル、うちの病院でも映るんだ。高校を卒業した佐久早先輩がプロとしてバレーボールを続けていることは知っていた。大学生の頃はスポーツチャンネルを契約して家で観たりもしていたけど、看護師として仕事をするようになってからはテレビをつける時間もなくなって解約した。久しぶりに見る佐久早先輩は、やっぱりかっこいい。黒いユニフォームがすごく似合っていると思う。画面に釘付けになってしまう。
「なんや姉ちゃん、佐久早のファンか?」
「えっ!えっと、まあ、そうかもしれません」
「佐久早ええプレーしよるよなあ。まあ俺は関西出身の宮侑のファンなんやけどな」
「僕は木兎くんですね。彼元気だし、見てるとこっちも元気になります」
「新しく入った日向もすごいですよ!」
ここにいる全員ブラックジャッカルのファンらしく、年代を越えてあれこれ話題を広げている。野球やサッカー同様に、バレーボールの地位も上がってきた昨今ならではの光景かもしれない。特にここはブラックジャッカルの本拠地が近い大阪だ。……そうだ、そういえばそうだった。今までなんとも思わずに過ごしていたけれど、この病院から目と鼻の先にはブラックジャッカルが利用するスポーツ施設がある。もしかしたら、そこに通えばいつか佐久早先輩に会えるかも……いやいや待ってそんなの気持ち悪いに決まってる。仕事で大阪にいるとはいえ、佐久早先輩目的で施設に行くなんてストーカーみたいじゃない。変なこと考えるのやめよう。
「楽しそうで何よりですけど、少しテレビの音下げていきますね」
「おう。すまんのう。この時間いつもVリーグ見とるからお姉ちゃんもまたおいでや」
「うん、分かりました。ありがとうございます」
腕時計を見ると、もう外来受付開始の時間を過ぎている。私は慌てて談話室を後にした。
*
「……先輩?」
「?」
今日一番の、季節性ウイルス予防接種の患者さんが処置室に入ってきたと思ったら、それは先程までテレビでバレーボールをしていた彼だった。相変わらずマスクを着用している。私は思わず先輩と呼んでしまった。だが彼は私のことを覚えていないようで瞳に動揺の色を浮かべた。
「す、すみません。なんでもないです。予防接種ですよね、こちらへどうぞ」
佐久早先輩のカルテは私の手元にある。個人情報がだだ漏れだ。見ようと思えば、今どこに住んでいるかも分かってしまう。だけどそれは見たらいけないと思った。職権乱用、なんて大袈裟かもしれないけど私は先輩に近づくために看護師をやっているわけじゃないから。住所を知って、押しかけようとも思わない。だって叶わない。せめて彼に困った顔をされずにこの場をやり過ごしたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
「腕出していただけますか。針刺す方、利き腕じゃないほうがいいですか?」
「……青い鳥の人」
「はい?」
「苗字って、下の名前は名前?」
担当看護師のプレート名を見ながら、先輩が呟いた。初めて私の名前を呼んだ。知っていてくれた。彼の記憶に私が存在していた。その事実は、私の胸をぎゅっと締め付けた。どうしよう、泣きそう。
「……すみません。人違いですか」
「いっ!いえ、私です!あの、私、井闥山学院出身で、その、佐久早先輩の2つ下の後輩で、先輩に声かけたこともあって……あー、すみませんこんな話!すぐ予防接種しますね!」
「覚えてる」
あの時はごめん。そう言った佐久早先輩はマスクの下でどんな表情をしているんだろう。私は堪えきれず、涙を一粒落としてしまった。
「っ?!なに、ごめん、ご、めん……?」
「違いますごめんなさい先輩は何も悪くないです!」
近くにあったティッシュで慌てて涙を拭った。仕事中に泣いたのなんて、初めて手術室で処置を手伝った時以来だ。すぐやります、と言って私は予防接種の準備をする。先輩は日に焼けていない腕を晒してくれて、私の手つきをじっと見つめていた。先輩に針が刺さる瞬間、どうしようもない達成感に包まれた。あの時の私が触れられなかった手に触れることができて、心配性な彼が望むものを投与できる。やっぱり、看護師になって良かった。改めてそう思った。
処置を終えて、待合室でお待ちくださいと先輩に声をかけると「今日何時まで仕事なの」と聞かれた。18時ですと答えると、その頃迎えに来ると先輩は言った。迎えとは。理解が追いつかなかったけど、先輩を待たせてしまうわけにいかないと思いああ、はあ、と二つ返事で返してしまうと、先輩は処置室を出ていった。
*
定時の18時を過ぎ、着替えを済ませた私が職員出入口からバス停のほうに向かって歩いていくと、そこには本当に佐久早先輩が立っていた。夢でも見ているのかと思った。私は駆け寄って、先輩に声をかける。
「あの、佐久早先輩、」
「……お疲れ」
「あ、お、お疲れさまです」
「行こ」
「え?!」
行こうってどこに。そういう間もなく、先輩はどんどん先へ歩いていってしまった。置いていかれないように後を追う。斜め後ろを歩きながら、何か話した方がいいか、黙っていた方がいいのか考えた。
「何が好き?」
「はっ、えと、しいて言うなら、レシーブ力とスパイク力のバランスの良さでしょうか。先輩のスパイクにかかる回転は一級品と解説の人もよく言ってましたけど、見る側からするとレシーブも」
「そうじゃなくて」
「へ、」
「夕飯。何が好きって聞いた」
「ゆっ、あ、えと、なん、でも……なんでも好きです」
「俺がいつも行くとこでいい?」
「もっ勿論です!」
そこで先輩との会話は途切れ、また無言で歩き続ける。しまった余計なことを言ってしまった!ちゃんと話を聞けばよかった。私、分かりやすく舞い上がってる。だって、仕方ない。先輩を忘れていたなんて嘘だもの。佐久早先輩のことはずっと慕っていた。できることなら告白をして、ちゃんと振られたい。じゃないといつまでも燻らせてしまうと思う。
先輩が連れてきてくれたのは、会員制のレストランだった。た、高そう…!見るからに人を選びそうな場所だったけど、黒いコートを着てる佐久早先輩と、ベージュのコートを着てる私も入れるくらいだからドレスコードのあるような場所ではないみたいだ。席に案内され、シンプルかつ洗練されたテーブルセッティングを目の当たりにすると緊張しないほうが難しかった。
「ここ、チームの系列店だから」
「そ、そうなんですね」
「色々安心」
「安心、大事ですね、はい」
「…………堅苦しいと疲れる」
「えっ」
普通にして、と佐久早先輩は言った。それから、メニューを開いて見せてくれた。何がおすすめと教えてくれる先輩は、相変わらず凪いだ雰囲気を持った穏やかな人だった。すごく、好きだ。無謀だと知っていても、何故ここに連れてきてくれたか分からなくても、嘘はつけない。何年も温めていた思いがまた熱を帯びる。今日会ってこれっきりだとするなら、帰り際に伝えてしまいたい。ずっと好きでしたと言って、ごめんと言われたい。そしてこの運命に区切りをつけたい。そしたらきっとまたスポーツチャンネルを契約して、まっさらな気持ちで先輩のことを応援できる気がする。
料理が運ばれてくると、先輩はマスクを外した。あの日叶わないと思っていた光景が、今叶った。先輩の表情をコート以外で見ることができた。なんて、嬉しいんだろう。
「なに?」
「いえ、ちょっと感動して」
「食べてから感動すれば」
「ああ……そうですね。そうでした」
きらきらと輝くような料理を前にしても、私が感動してしまったのはあなたの顔ですなんて口が裂けても言えなかった。
食事を進める間、先輩が一言も喋らないので、私も黙っていた。ひととおり食べ終えた先輩はカチャリとシルバーを置いて紙ナフキンで口元を拭って、おもむろに口を開いた。
「あの時」
「え?」
「君が慕っていたという言葉を選んでくれて、なんか嬉しかった」
「……っ、」
「すごいとかかっこいいとかはあったけど、そんなふうに言われたことは無かったから」
先輩は唐突に私が声をかけた日のことをなぞるように話し始めた。あの時の出来事は、先輩にとっては取るに足らないことだと思っていた。あの数分間のやり取りを覚えていてくれただけでも十分なのに、彼は嬉しかったと言ってくれた。何かが込み上げてきそうになる。
「あと」
「はい?」
「これ」
先輩はポケットから何かを取り出して白いテーブルクロスの上に置いた。そこには、あの時の私が渡しそびれたタオルハンカチがあった。古森先輩が、本当に渡してくれていたようだ。青い鳥の刺繍が右下の端っこに施された、クリーム色のハンカチ。捨てないでいてくれたんだ。
「ずっと、持っていてくれたんですか」
「……生地、良かったから」
理由はなんでもいい。ただ、嬉しかった。どうしようもないくらい。先輩に差し入れたタオルハンカチのデザインに青い鳥の刺繍を選んだのは、先輩に幸運が訪れますようにという気持ちを込めたものだった。けれど、どうやら青い鳥は私に幸運を運んできてくれたらしい。
今こうして先輩と話ができた。顔が見れた。名前を覚えてくれていた。今、私は間違いなく幸せだ。
「好きです」
「え」
「先輩が、ずっと好きでした」
だから、これからもバレーボール頑張ってください。そう言って、私は財布からお金を出しテーブルに置いて席を立った。先輩の返事を聞くつもりはもうない。もう十分。
「どこ行くの」
「帰ります。素敵な時間をくれてありがとうございました」
「自分だけ好きなこと言って帰るの」
「……あまり、先輩を困らせたくないんで」
「……このまま帰られるほうが困るんだけど」
もう少し座ってと言われ、私は躊躇ったもののまた席についた。緊張でどうにかなりそうだ。嬉しくてつい勢いで告白してしまったけど、これは返事をいただけるパターンだろうか。振ってほしい、と思ったものの面と向かって「ごめん」と言われるのは正直深い傷になると思う。少なくとも何年かは引きずる気がする。俯く中、沈黙が続いて息苦しくなってきてちらりと先輩を見やる。先輩もまた視線をどこかへ向けていた。断りにくくて苦しんでいるのかもしれない。優しい先輩らしいや。
「先輩、さっきのことなら返事要らないんですよ」
「……」
「私が勝手に想って募らせていただけなので」
「俺は彼女とか作ったことない」
「え?あ、ああ、はあ、」
「だから付き合うとか上手くいかないかもしれない」
「せ、先輩?」
「けど君なら付き合ってみたいと思う」
「…………えっ」
「病院の人だし」
まさかここに来て看護師になったことが私の運命を変えようとするなんて。目指した当初はそれなりに期待はしていたけど、まず出会うのが難しいと思っていたし、先輩にはきっと綺麗好きで美人の彼女が居るもんだと思っていたから。私でいいんだろうか。
「あの、私……」
「好きって、付き合うとか考えてない話だった?」
「そんな、違います!付き合えたら、嬉しいとは思ってましたけど」
「けど何」
「私、でいいのかなって」
「苗字が求めたから応えようとしたんだけど」
佐久早先輩が少し表情を曇らせた。テーブルに置かれたハンカチに目がいく。あの時勇気を出した証だ。もう一度、一歩踏み出すべきだ。変わろうとしている運命を止める必要なんてない。
「私、佐久早先輩が好きです」
「さっき聞いた」
「先輩さえよければお付き合いしてほしいです」
「だからそれもさっき答えた」
「先輩今めんどくさいと思いましたね」
「……何」
「ふふ、表情が見えると先輩が何を考えているかすぐに分かって助かります」
昔は、マスクをしている先輩の目と体の動作で気持ちを探っていたせいか、表情が見えるだけで先輩のことを理解できたような気になる。私は座りながらぺこりと頭を下げた。
「苗字名前です。よろしくお願いします」
「……佐久早聖臣です」
「とっくの昔に知ってますよ」
「俺だって知ってたから」
先輩の表情が少しずつ変わる。それがこんなにも嬉しい。いつか私に笑いかけてくれる日がくるかな。来なくてもいいけど、来たら嬉しい。青い鳥を探す旅はまだ終わってない。もしかしたら、始まったばかりなのかもしれない。テーブルに置いた私の手に、佐久早先輩はそっと触れてくれた。
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