選択授業の調理実習で作ったチョコチップクッキーが思いのほか上手くいった。一般的にクッキーは難しくないらしいけれど、お菓子作りが苦手な私としては非常に嬉しい出来事で。一緒に作った友達は彼氏や兄弟にあげると言っていた。普段なら人にあげられないようなものを作ってしまう私も、このクッキーは誰かにあげてもいいんじゃないか。透明な袋に詰めて青いリボンで口を縛ったこの自信作、果たして誰にあげようか。あげたい人は、居なくもない。
「おーっす名前〜」
「わあっ?!あ……!」
突然背後から肩を組まれ、驚いてクッキーの入った袋を宙に投げてしまう。せっかくの自信作が!両手があわあわと空を切るなか、左側からにゅっと腕が伸びて袋を見事にキャッチした。
「おっ。セーフ」
「はああ、良かった……って、すすスガさん?いきなり何するんですか!」
「バレー部の用事で田中んとこ来たら、お前見えたからつい」
めんご!とお茶目な顔で舌を出すのはスガさんこと菅原孝支さん。ひとつ上の先輩だ。スガさんは中学からの先輩で、縦割り行動の多かった行事とかで色々お世話になった。誰にでも優しくて、フランクで、爽やかで、極たまに騒がしい。にしても、背後から後輩女子の肩を組みに来るなんてセクハラもいいところですよ。吐息がかかりそうな距離で平静を装っていると、スガさんは私の右肩に右腕を乗せたままニッと笑う。それから先程左手で受け止めた袋を差し出した。
「ほら、落し物」
「まっまだ落としてないですぅ」
「確かに。てかこれ何?」
「よくぞ聞いてくれました!調理実習で私が作ったクッキーです!」
「え?!お前クッキー作れるようになったの?!」
スガさんはくりっとした丸い目をさらに丸くして驚いた。耳元で大声出されるとびっくりするんですけど。昨年のバレンタインに、スガさんに「義理です」と言い張って手作りチョコレートケーキのようなものをあげたことがある(原型を留めていなかったけど、どうしてもあげたくて恥を忍んであげてしまったのだ)。その節は彼の顔を真っ青にしてしまって、とても申し訳なかった。そして、もうお気付きかもしれないが、この人こそ私がこの大成功クッキーをあげたい張本人。つまり、まあなんというか、好きな人?
「まじかよ、あの名前がクッキーを」
「奇跡と言わず成長と言ってくださいね」
「俺泣けてきちゃったよ」
「そんなに?!」
いやだってお前キメラ生み出すじゃん!とスガさんは人を指さす。誰が合成獣錬成師ですか。確かにスガさんにあげたあのケーキは酷かった。チョコレートだと言ってるのに塩っぱいし、後味は酸っぱい。原型を留めていない半熟さがなんとも言えない食感を生み出して、たまにガリッと砂糖の塊がやってくる。泣きながらあれを食べきってくれたスガさんは本当に優しい。だけど、誰にも優しいのを私は知ってる。
「あれ、菅原先輩。やっほ〜」
「おっす〜」
他のクラスの女子が私に絡むスガさんに対して、歩きながら手を振った。私をちらりと見たその目はどことなくバチバチと熱い気がした。あの子も、この人に惚れちゃったんだろうか。私はあなたがスガさんに手を振ったことに嫉妬したよ。だけどあなたも私がスガさんに肩を組まれていることに嫉妬したんだよね。お互い大変だね。この人が誰にでも優しくて、朗らかで、面白いばっかりに。
「名前、そのクッキー俺が味見するべきだよな」
「ええ?ああ……まあ、別に?あげてもいいんですけど」
「なにその言い方よっぽど自信あんのかよ〜!」
スガさんに好きだと言うにはまだまだラブゲージが足りない。だから私はまだ言わない。気があるかも?なんて素振りを見せつつ、仲良しの後輩として他の女子との違いを少しずつアピールする。それが私の戦略だ。なのに、スガさんはたまにとんでもない爆弾を投げてくる。
「ほれ、あーんして」
「なっなんでですか!?」
ただでさえ近い位置にあるスガさんの顔に心臓が苦しんでいるのに、この人は餌をねだる金魚のように口をぱくぱくとさせる。嘘でしょ。こんな学校の廊下で、好きな人に何食わぬ顔で手作りクッキーを食べさせろっていうわけ?爆弾発言にしても火力がおかしい、手榴弾の使い手ですかスガさんは。でもここは抑えなくちゃいけない。ちょっと余裕のある顔をして、いかにもこんなことよくやってますよみたいな素振りをしないと、スガさんに変に意識されてしまいそうで怖い。そしたらもうあまり絡んでもらえないかもしれない。それは嫌だ。嫌だけど、私の手から直接スガさんの口にクッキーを入れるなんて、どうしたって恥ずかしい。渡すだけよりハードルの高いことを強いられている。
「め、面倒がらないで自分の手で食べてくださいよ」
「いーじゃん。減るもんじゃねえべ」
「クッキーは減りますよ」
「いいからいいから」
私の肩に顎を置いてあーんをねだるスガさんをちらちら視界に入れる。もはや強要に近い気がする。男子なのにお肌ツルツルですね。羨ましい。
「はーやーくー」
「っ〜、もう!」
スガさんは警戒心ゼロなのか目まで閉じてしまった。それキス顔に近いのでは?!もうやだよこの人心臓に悪すぎるよ!クッキーを待ちわびるその顔にダメージを喰らいながら、私は意を決して袋のリボンを解いてひとつ手に取る。そしてお賽銭を放るようにスガさんの口へクッキーを投げ込んだ。スガさんは目を閉じたままもさもさと口を動かす。それからカッと目を見開いた。
「うんっ美味え!」
「そそ、そうでしょ?!」
「美味い美味い、やったじゃん」
スガさんはクッキーを咀嚼しながら、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。あ、私もう無理かもしれない。この距離でこの顔ときて、トドメを刺された気がする。ふわふわと舞い踊りそうになった時、スガさんはふと廊下の向こうを見た。
「おっ、田中発見〜」
そう言ってスガさんは私から離れていった。温もりが一瞬で消えていく。少しだけ寂しいかもしれない。スガさんは去り際に私のほうを見ることなく、愉しそうな声音で呟いた。
「今年のバレンタインは期待できっかな〜」
義理じゃないやつ!振り向きながらそう言ったスガさんに、私はきょとんとする。てっきり、美味しいものという意味だと思っていたけど義理じゃないやつってつまり、それは、あれですよね。ほら。私の混乱を知ってか知らずか、スガさんは口笛を吹きながら田中のところへ歩いて行ってしまった。
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