私のほうが先に、彼を好きになった。
「ただいま」
聞き慣れたマンションの扉が開く音がして、それとほぼ同時に帰宅を告げる声が私の耳まで届く。彼の実家である一軒家からほど近いこの部屋に引越して、およそ半年。扉の音は聞き慣れても、声の方は慣れることのない。いつだって新しくて、鮮やか。新婚の呼称は、伊達ではない。
外はもう日が傾いている。さっき夕飯の支度を終えたところで、明日の食材が足りないことに気がついてしまって。彼が来るのを今か今かと待っていたところだった。
買い出しに行こうにも、テーブルの上にスマホを置いて、田んぼへ作業に行ってしまった信介とは連絡が取れず。車を使って彼の元まで行けんこともなかったが、信介と行き違いになった場合、汗水たらして仕事から戻った彼が暗い部屋に出迎えられてしまうのが、なんかとても嫌やったから。せめて信介が帰ってきたあとに留守番を頼む形で、買い物に出ようと思った。ご飯もお風呂も準備できとるし、なんなら寝室も整えてある。日中、ひどい眠気に襲われ、休日にこなすべき家事をサボり倒してしまった私による懺悔のようなものだった。ちゃんとこなしたという達成感は、気持ちがええ。
玄関を開けた音から十数秒、信介がリビングまで入ってくる。本日はグレーの作業ツナギを纏っているわけだが、相変わらず作業着の似合う男やで、ほんまに。そのうちワークマンのCMにスカウトされてしまうんやないか。目をハートにしてしまう寸前でふるりと頭を左右に振り、笑顔でおかえりと声をかければ彼はもう一度「ただいま」と、こぼした。私につられたのか、信介も微笑む。彼の堅物な口角が上がっており、まあ可愛らしいこと。結婚してから、信介の笑みを見ることも増えたわけだが、それでも彼の笑顔はそれなりに貴重な代物である。
首に掛けた白い手ぬぐいで己の汗を器用に拭く信介だが、左の頬についている土汚れには気付いてない様子。お疲れさまと言いながら、手ぬぐいを取って汚れを拭いてあげる。「すまん」と信介は僅かに照れた顔を見せた。て、照れた顔、痺れる……!そのまま惚けていると、怪訝そうに私を覗き込んで。ひたり、その手を頬に添えられた。外気を纏っているのか、少し、ひやりとする。火照ろうとする肌には、ちょうどええかも。
「どないやの、名前。具合悪いんか」
「ちゃい……ますね、」
「ほんならええんやけど。ほんまに、どこもおかしないんか?こないだも悪阻が来そうって言うて」
「平気や……今日は平気。やけど、あの、ちょっと屈んでほしいな」
「なんや。こうか?………………んむ、」
信介の唇は、珍しくかさついており。もう寒い季節やなあ、と時の流れをしみじみ考える。
「ありがとう。お先に、ご馳走様」
「何をしてんねん。体調はどうかと聞いとるやろ、真面目に聞け」
「信介のせいやで。そんなに近寄ってくれたら、チューせなあかんと思うやん」
「思わん。そもそも、名前が屈め言うたんやで」
「細かいことはええねん。私は思うねん」
「?……そうか」
私の行動に首を傾げながらも、否定はせん。自分が理解できんくても、受け入れてくれる。そんな彼が、私はとても好きや。
「そや。ポストにこれ入っとった」
「えっ(昼寝ばっかしてもうて郵便物確認しとらんかった…!)あ、ありがと。なんこれ、葉書?」
「おん。来月、大学の同窓会やて」
「来月かあ……」
正直なところ、ここ最近の体調は変化しやすく、とてもじゃないが会食パーティーのような席に行く勇気は出ない。万一、具合が悪なってしもうたら、せっかくの雰囲気ぶち壊しかねんし。懐かしい顔ぶれに会えないのは残念やけど、まあ無理して出席することもないかな。
「私は多分、行けへんな。集まりの途中で体調崩したら嫌やし」
「せやな。俺も行かん」
「なんで?気にせんと行ったらええよ」
「名前置いてまで出るもんでもないやろ」
「そ、そうかな」
「何かと大変やろうし、行かんわ」
「信介がええなら、それでええと思う……」
気を遣わせたと思ったのに、信介にとってはさして問題ではないらしい。行かんと言うた彼の顔色は一切変わることなく、案内葉書はテーブルに置かれた。とうの昔に卒業した、地元の大学。思い出という思い出は、数える程度ならあるかもしれん。そこそこ楽しかった記憶たちは少しだけ褪せているけれど、その中でも鮮明に思い出せるのは、信介と会うた日のこと。学部こそ違ったが、同期で、たまたま食堂で出会った。
なんでもない、よくある出来事ではあったんやけど。
『これ落としたで』
小指の爪より小さい鈴。ストラップですらないそれに、わざわざ紐を通してずっと持ち歩いていた。死んだじいちゃんがお祭りで買うてくれた、風車の柄のとこに付いていたものだ。宝物のような、形見のような御守り代わりのそれ。人からすれば、ただの鈴やし、小さすぎて気付かれることもなかったかもしれない。せやけど彼は、大勢の闊歩する大学の食堂でそれを拾って、あの綺麗な手の上に乗せ、差し出してくれた。それだけでも、良い人と思うのは十分やったのに、名前を聞いて以降、たまに挨拶を交わすようになった彼は、とんでもなく素敵な男やと知ってしまい、あっさり恋に落ちた。
『なあ!北って、めちゃくちゃイケメンやない?!』
『そう?なんやちょっと冷たくて、近寄り難いわ』
『どこが冷たいねん!北ほどの気概のある男、見たことないっちゅうに!』
『そんなん言うの、名前ぐらいとちゃう』
『んなわけあるかい!ああ、彼女になりたい。はよせんと、奪われてまう……あっ、ほら北が!女の子に話しかけられとる、あかん、私行くわ!』
『はは。盲目やなあ』
友達は口を揃えて『北のどこがそんなにええねん』と言うたけど。佇まいの冴え渡り、スマートな振る舞いをする信介に、ぞっこんだった。交際の申し出も、プロポーズさえも、回りくどい駆け引きなどしている暇がなく。まだ見ぬ誰かに取られたくないと、ただそれだけで、プライドもロマンスも全て捨て去って、彼に「彼女にしてください」「キスしていいですか」「抱いてください」「一緒に住みたいです」「結婚してください」と、数珠つなぎのように、途切れないように、求めてきたのだ。そこに虚しさなど、微塵もなかった。彼の妻としてこの家に収まっている今も、それは変わらない。私の方が、信介を好きだから。例え結婚して直ぐに「信介の子ども欲しい」と申し出たことによる懐妊すら、私の激しい主導によるものだったとしても、私は虚しいとは思わないわけで。それくらい、どうしようもないほど愛してしまったから。
友人たちの「聞いてよ、彼ってば」「うちの旦那なんて」という雄からの求愛行動に並べられるエピソードなんかないけど、自分が惨めだとは思わない。「名前んとこは淡白やね」と憐れまれても、困る。こんだけ好きな人と一緒になれたのに、何を哀しむことがあるんや。私は、信介と結婚できて、幸せである。
それでも時折、仕方なしに結婚してくれたのかも、なんて思うこともある。信介が、何かを激しく主張したり、求めてきたりする事は稀だから(頑固さはたびたび目にするけども)。私への感情など大したものではないのかも、と感じることもしばしば。とはいえ、そんな気持ちは私のマタニティブルーもしくはバイオリズムによるブルーな感情がもたらすものだと思ってしまえば、あんまり気になることではなかったりするのだけど。
「名前、なんで上着着とん。どこ行く」
「え?買い物やけど。明日の朝のおかず、買い忘れてん」
「なんで今から行くねん。もう日が暮れとるんやぞ」
「大丈夫やって。すぐそこのスーパーやから」
「あかん。明日にしい」
「なんでやねん。今日買って、今日のうちに仕込みがしたいんよ」
「あかん」
「大丈夫やって!」
ライトダウンジャケットを着込んだ私の腕を、信介が掴む。やけに力を込められるので思わず見上げると、彼は険しい顔で私を見つめている。大丈夫と言っても、その手を離してはくれない。なんやねん、心配性やな全く。私の身体がそんなに気になるんか。妊娠三ヶ月、平日はまだまだ現役で働いてんねんけど。
「俺も行く」
「え?!さっき仕事から戻ったばっかりやない、ええよ、休んどって」
「行く」
「けど……」
「俺が行ったら嫌なん?」
「ちゃうよ、そんなんとちゃう!一緒に来てくれるのは、嬉しい」
「車で行けば速い。俺が運転するから」
「……はい」
着替えてくる、と脱衣場に向かった信介の背中を見つめ、ぽつん佇む。ほどなくして、適当なニットを身に纏った彼は、ポールハンガーから上着を掴んで羽織った。車のキーを持った信介が、私の手を引いて、玄関へと誘ってくれる。鈴のついた鍵で施錠して、過保護とも言える信介に手を添えられながら、階段をゆっくりと降りる間、何遍も「気ぃつけえ」「危ない」と声を掛けられる。分かっとるって。そんなに心配せんでも、私はまだ週五で仕事行っとるし。そう返すも、信介は握る手の力を強める。身篭った私の身体を大切にしてくれるのは伝わるけど、信介が私を諌めるたび、びくりとしてしまう。「急ぐな」。もうちょい優しめな言い方してほしいんやけど。
車にたどり着いてからも、ドアの開け閉めさえ、信介がしてくれる。「お前あんま動くな」なんて言われてしまえば、助手席で黙って、まだまだ目立たないお腹をさすっとくしかない。なんやこの人、不機嫌か。いや、いつもこんな感じやったかな。嘘嘘、ちゃうよ。信介はもっと穏やかやねん。というか、朝はもっと優しかったし。普段から優しい。家ん中居る時は、とにかくなんでも手伝ってくれて、先回られて、私のすることが半分もなくなってまう。有難いが、申し訳なくもなるので、私だってできることをせんとと思うんやけど。買い出しやら野暮用やらでどこかに出掛けようとすると「一人で行くな」と私の腕を掴む。そういえば、妊娠が判明した次の日くらいに、部屋から一歩も出るなと言われたことがあったような。そんなん無理やって、当然反抗したけど。
…はて、彼は一体いつからそんなに、出掛ける私に口うるさくなったやろか。
「着いたで。さっさと買って帰らんと、冷え込む」
「もう、寒いのぐらい大丈夫やって」
店に着いてからも、ぴったりと寄り添うようにして信介が私の横を歩く。歩きにくくないんか。時間をかけるつもりも、うろうろする気もないので、お目当ての売り場へ真っ直ぐ進んでから、踵を返すようにレジへ向かう。その間も信介は、じいっと私の足取りを見つめ、顔色を観察してくる。一緒に来てくれるのは嫌やないと言うたけど、これは恥ずかしいわ…。心配してくれんのは、分かるけども。
会計を済ませて、車に戻る。信介は相変わらずエスコートを続ける。買い物ひとつでこれか。なんや、出掛けるのが億劫になってきた。これからお腹が大きくなれば、もっと動きにくくなるだろうに。今からこうでは、信介の身が持たんのでは。私かて、気が気じゃない。
「帰るで」
「……なあ信介、そんなに私が心配?」
「当たり前や」
「そう。いや、分かるんやけどな。心配してくれんの有り難いけども。ちょっと心配性が過ぎるかなと……」
「心配だけで、名前の周りついて歩いとるわけとちゃうから。堪忍してや」
「?……そうなん」
「おん」
それから信介は、一言も発することなく車を動かし、帰路へついた。横顔からはなんも読み取れん。ただ、ほんのりと笑っているようにも見えるけど。暗くて、よう分からんな。
「信介」
「うん」
「好き」
「おお」
「信介はどないやねん」
「せやなあ」
「……なに?!それだけ?!」
「名前は何を言うてほしいん」
「いや、何をっちゅうか、信介が思ってることを……」
信号待ち。信介は、車を停車させながら、こちらにちらりと視線を向けてくる。チリッと、焼けるような熱さが頬を掠めた。気がした。いやな、感じがする。というより、恐れが生まれたのかもしれない。信介が思っていることを、聞いてしまうこと。『仕方なしに』の答えが、出てしまうかもしれん。と、直感してしまった。聞いてもええんか、聞かんでおくべきなんか。迷ってしまう私をよそに、信介の唇は小さく動いて、言葉を紡ぐ。
「今さら言うことでもないんやろうけど」
赤から青に変わる瞬間。アクセルが踏まれ、なだらかに進行する車内。なに?と、答えた私の声は、いやに緊張しているようでほんの少し震えてしまった。やって、車内の雰囲気が、何故かくるしい。張り詰めたような、重々しさ。私の迷いが、充満しとる。せやのに、信介の横顔が、今日いちばんに優しい顔をしているから。その言葉の続きが聞きたくて、つい、彼の服の裾を引っ張ってしまった。
「名前?」
「なに……?今さら、言うことでもない、話……」
こわい。
こわいのに。
何かを欲しがっている。
期待?それとも、不安の払拭?
分からん。分からんのに。
沈黙は、恐怖に拍車をかける。
「しっ信介、やっぱええ……ええ、なんも言わんで、」
けれど、私の言葉などお構い無しに、信介の唇はまた何かを紡いだ。
「俺、名前が思っとるより、お前んこと好きやで」
「ぇ……?」
「お前が俺を愛してくれる分より、俺がお前を愛しとるのがでかいっちゅう自信あんねん」
「なん、」
「俺の目の届かんとこに行くなや。勝手に出かけんな。具合が悪い時はなんもせんでええ。仕事も、しんどなったらいつでも辞めたらええねん。俺、なんぼでも名前の面倒見るつもりやし」
穏やかな口調のくせに、圧がある。信介は、いつの間にか口の端を上げてにっこり笑っていた。そんなふうに、笑えるんやな、私の旦那さん。知らんかった。ずっと、くまなく見てきたつもりやったのに、私は貴方のそんな顔を今日まで知らんかったよ。
「俺と名前の愛、元気に産んでや」
こんなに幸せそうに笑いかけてくるなんて、狡い。
私のほうが彼を好きだと思っていたのに。私は、いつの間に、こんなに愛されとったんやろうか。
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