時刻は午後7時45分。退勤まであと、15分。頑張れ私、もうすぐで美味しいご飯が食べられるし、録り溜めしといたドラマ観れるし、なにより明日は大学休講。バイトのシフトも入れてない。最高。
「ちわっす」
「ん?わあ、また来たの。夜久」
「あのさあ。そこは、いらっしゃいませでしょ。先輩」
レジ前でひたすらに壁掛け時計を眺め、タイムカードを切った後の未来に思いを馳せていた私を現実に引き戻したのは、懐かしき母校のジャージを羽織った後輩だった。こんな時間にレンタルショップに入っていいのか、若き学徒よ。なんて、偉そうなことを言っても、彼と私はひとつしか歳違わないんだけど。
また来た、なんて言う私の接客態度が不満だったらしい夜久が眉をひそめるので、ごめんねいらっしゃいませ、と取って付けたように歓迎の挨拶をする。夜久は「まあいいや」と零して、カウンターに何かの入ったレジ袋をがさりと置いた。
「なにこれ?」
「なにって、差し入れ」
「はあー?そういうのいいって言ってるじゃん……あっコンビニの新作スウィーツ!」
「要らない?」
「要る!っあ、いや、別にね……」
「ぶはっ!先輩嘘下手すぎ!」
夜久はお腹を抱えて「まじウケる」などと若者言葉を発しながら、おかしそうに笑った。おいそれ先輩に対する態度か?バレー部のマネージャーをしていた頃、先輩は敬いなさいって散々教えたのに。三年生になった夜久は一年生に対してかなり先輩風吹かせてるって、こないだ黒尾くんが教えてくれたぞ?
じっとりと夜久を見ていると、彼は「すんませんスウィーツで許してください」と、あざとい視線を投げてきた。自分が低身長であることを気にしているくせに、ここぞとばかりに上目遣いのような行為をしてくるの本当にやめてほしい。可愛い。こんな後輩に気にかけてもらえる自分が、満更でもないと思ってしまうじゃん。
「先輩、もうバイト終わりでしょ?」
「ああ、あと、5分!夜久と喋ってたらもう残りわずか!」
「はは。良かったっすね」
「ありがとー、夜久」
「じゃあ俺、そこで待ってるんで。終わったら声かけてください」
「分かった!……ん?ちょ、待って夜久……!居ねえ」
現役運動部、足と動作が機敏すぎる。これも高校生という若さ故か。いや、そんなことより、そこで待ってるって何。誰を?私か。誰が?夜久だな。なんで?知らん。首を傾げていると、スタッフルームから店長が顔を出して「苗字さん、シフト過ぎてるよ。上がりな」とラフに声を掛けてきた。5分という時間も、まあ早いこと。夜久が来ると、私に流れる時間は普段の倍速ぐらいになる気がする。ショップのエプロンをロッカーにしまって、お先です、と挨拶をする。私の手には、バッグと、夜久がくれた差し入れの入ったレジ袋。それにしても、退勤直前に差し入れをしてくる夜久、一体何考えてんだかねえ。
正面出入り口から外に出ると、自販機の横で、ポケットに手を突っ込みながら、珍しくぼーっと立ち尽くす夜久の姿があった。夜久は基本的にぼーっとすることはない。私が見たことないだけかもしれないけど。彼は、食欲旺盛に物を食べるか、うたた寝するか、きらきら笑っているか。もしくは、コート上で、雄々しくバレーボールを追いかけているか。おおよそ、どれかである。躊躇いがちに、夜久?と声をかける。すると、そこそこアンニュイな表情のまま、彼は私に視線を投げた。
「ん、ああ。お疲れっす」
「ああ、あり……がと」
なぜ緊張しているんだ、私よ。薄暗い夜道の外灯に照らされている夜久がちょっと大人っぽいせいなのか。無意識に早まる鼓動は、どうにも、苦しい。可愛い顔して、たまに格好良い面を見せる後輩、侮り難し。
「直帰ですか?」
「あー、どこかで夜ご飯食べて帰る」
「先輩、いつも家で食うから外食しないって前に言ってなかった?」
「ふふー。先月、一人暮らし始めたんだー」
「は?!俺聞いてねえ!」
「いや、わざわざ言う?共通の話題でもないのに」
「世間話でよくねえすか?」
「……そう?興味、なくない?」
「先輩の話題っておもしろいから興味ある」
「……ふうん」
私は次に繰り出す言葉を見失って、適当で、曖昧な返事をした。色々、チョイスする言葉を間違えたな。両手を後頭部に添えながら軽快に歩く夜久の横で、ほんのりと後悔した。これまでの言動や会話の節々で分かるように、夜久は私に好意を寄せてくれている。ここまで分かりやすいと、特段勘が鋭くない人間でも、流石に気付いてしまう。だからこそ、私は夜久に一人暮らしを始めたことを言わなかったし、「また来たの」なんて言葉を向けた。
だって、戸惑う。人から好かれるのは、得意じゃない。
本当は、こんなふうにバイト上がりを待ってさりげなく夜道を送ってくれるのも、甘い差し入れも、困るんだ。私は好意を断るのが苦手だから。夜久の想いに応えられるような気持ちがあるわけでもない。多分。実のところ、自分の気持ちがよく分からない。
だって夜久は、私にとって、可愛い後輩で。夜久とは、大切な思い出が、たくさんあるから。万が一、この関係が壊れて、思い出に傷がついてしまうのは、怖いじゃないか。
「先輩さあ」
「……なに?」
人通りの少なくなってきた暗がりの道を歩きながら、夜久がぽつりと呟く。その声は普段より少し、低い。真面目な話をするんだろう。いつもそうだ。学生の頃から、夜久の分かりやすさは変わらない。これが、わざとなのかそうでないのかは、知らないけど。
「彼氏とか、できた?」
「……いや?」
「ふうん。じゃあなんで一人暮らしなんて始めたの」
「別に。大学生になったから、自由にやりたいって思っただけ。それに、これから彼氏できるかもだし」
「へえー」
「あ、信じてないね。これでも私、毎週合コンに誘われてるんだからね」
「…………」
ぴたり。隣を歩いていた夜久の足が止まる。ああ、私、ちょっと意地悪なことを言ったかもしれない。夜久は十中八九、私のことが好きで、なのに合コンに誘われるなんて、彼氏ができるかもなんて、そんな発言に気を悪くするのは予想できるのに。でも、つまりはそういうことだ。私は、一般的な女子より、可愛い性格をしていない。ひねくれている。夜久、私なんてやめておきなよ。私は夜久のように純情で、ひたむきな男の子に好かれるような女じゃないもん。大学は出席したりサボったりで、かと言って一生懸命バイトしてるわけでもなく、小遣い稼ぎ程度。炊事洗濯は必要最低限で、節約なんてしない。気の向くままに、自分の幸せを探しながらぼんやりと暮らしている。そこに、夜久を想う気持ちは、残念なことに、欠片もないんだよ。
好意に、甘えている。それがいまの私が、夜久に対して持ち合わせている感情のすべてなんだと思う。ひどいね、私。夜久は、私が好きで、足繁く通ってくれているのに。拒むこともできなければ、応えることもしない。中途半端で、俗に言う、サイテーにほど近い。
「じゃあ夜久、私は向こうのファミレス寄って帰るから。また」
自炊しないアピールとして、敢えて外食をすると言った私に、夜久は気付いているだろうか。夜久は料理が得意な女の子が好きだって、言ってたよね。私じゃ、駄目でしょう?だからこれ以上、純粋な好意を送らないでほしい。
うんともすんとも言わなくなってしまった夜久に、内心申し訳ないと思いながらも、私は、つい別れの言葉を発してしまった。まるで、一刻も早く逃げたい人みたいだ。まあ、間違っちゃいないんだけどさ。
「……んで、」
「え?」
「なんで、俺と真面目に向き合ってくれないんすか。俺が年下だからですか」
「へ、」
気付けば、夜久は私の肩を掴んで、目の前に立っていた。その顔は険しくて、とてもじゃないけど直視できないような表情をしている。どうしよう。こんな夜久、見たことない。胸が、詰まる。とても、悪いことをしてしまったみたいな気持ちになる。
「なあ、なんで?そんなに年下、駄目っすか」
「ち、ちがうよ、何言ってんの、そんなん、」
「俺が先輩のこと好きだって、卒業する前から分かってたんじゃないんすか?ていうか途中から分かるように接してたんすけど」
「それは……」
「迷惑だったら、言ってください。はっきりしてくんねえと、俺、ちょっとでも期待しちゃうんすよ……」
夜久は、今にも泣き出しそうな、切ない表情を浮かべてしまった。待って、その顔はずるい。心臓、痛い。上手く呼吸ができなくなる。今まで、夜久がこんなに弱さを見せてきたことなど、一度もなかった。夜久は私にいつも笑いかけてくれた。悔しい表情とか、練習が苦しい表情は見たことがあったけど、こんな、「誰かのせいで苦しんでいる」夜久は、知らない。しかも、他の誰でもなく、私がそうさせている。逃げたい、今すぐに。
そんな顔しないでよ。あんたにそんな顔は、似合わないよ。
────本当は、好意だって心地よかった。
自分に相応しくないと思う傍らで、有り難いと感じていた。本当は、応えたかった。苦しませるつもりは、なかったんだよ。何かが込み上げるのに、喉につかえて出てこない。私は今絶対に、何か言わなきゃいけないのに。
沈黙を破ったのは、結局、夜久のほうだった。
「先輩、勝負したい」
「…………何それ」
「お試し的なやつでいいから、一回俺と付き合ってほしい」
「なに、やだよそんなの……」
「絶対好きにさせるから。嫌いじゃないなら、俺にチャンスをください」
夜久の、強い意志の宿った瞳が、真っ直ぐに私を見つめてくる。夜久、こんなこと言う奴だったっけ?もっと、やんちゃで、年下権限で甘えるくせに、時々生意気な態度取ったり、先輩を揶揄ったり、優しかったり。私たちは、ただの、気の置けない先輩と後輩だったでしょう?
私が知っている夜久は、こんなに男の子の顔して、私のこと触らない。心が、揺らいでしまう。お試しで付き合うなんて、失礼なことなのに。お試しなら、上手くいかなくても、また元に戻れるかもって、思ってしまう。ずるい女だなあ。やっぱり、こんなに実直な夜久には、合わないよ。
「……ダメだよ、私は愛されるの得意じゃない」
「そんなの知らない。嫌いじゃないなら付き合ってって言ってんの」
「か、片思いは好きだけど、想われるのは嫌い」
「嘘つけ。嫌になるくらい愛されたいって、友達と言い合ってたくせに」
「ゃっ、」
「先輩」
強い口調でそう言って、夜久は私をずいっと覗き込む。いやだ、近い。私は、夜久のその鋭い眼差しが苦手なんだ。どこにも隠れられなくなる。可愛くない、いい子でもない自分が、その目に映るのが、耐えられない。思わずぎゅっと目を閉じる。すると、暖かな感触が頬を包んだ。それから、夜久が耳元で柔らかく囁くもんだから、背筋がぞくりと震えた。視覚を放棄したことを、とんでもなく後悔する。
「ねえ、先輩のことが好きな俺を、ちゃんと好きになってください」
「っ、や、く……」
「頼むから」
「っふ、」
わざとなのか何なのか、夜久は耳元で囁き続ける。熱い吐息を耳に吹きかけられているようで、身体中に熱が広がっていく。羞恥に耐えかねて、瞼を上げると、夜久がより深く覗き込んできた。ちかい、近過ぎて、鼻先が触れそうになる。こんだけ迫られて、私はどうやって回避しろっていうの。いつの間にか背中には石壁がひたりと触れているし、夜久の右手は私の頬に添えられている。おまけに左手は腰に回されていて、一体どこでこんなことを覚えたのよって、言いたくなる。夜久、こないだまで健全な男子高校生だったじゃん。今だって、真っ赤なジャージ纏って、あの頃となんら変わらないのに、いつからこんなに雄の顔をするようになったの。
「先輩。こっち見て」
「ちかい、近いの……少し離れて、」
「俺だって勝負賭けてんです!いっ、いきなりこんなことして有り得ねえってか、恥ずい……けど、ここで引いたら……男じゃねえ」
グッと、腰に回った手に一層の力がこもる。誰も居ない通りとはいえ、こんなに体を密着させて、おかしいよ。強引にも程がある。ねえ、夜久。本当は夜久だって、私の揺らぎに気付いているんでしょう?だから、こんなに迫ってくるんでしょう?ばか、ずるい。
もう、知らないよ。
夜久、私なんかと付き合って、後悔したって、簡単に別れてあげないよ。私、一度好きになるとしつこいんだよ。夜久が自分で選んだんだからね。随分と前から、燻っているだけだった炎を大きくしてしまったのは、夜久だからね。責任、取ってよね。
「……私、面倒だよ」
「大丈夫。言うほどじゃねえっすよ」
「……連絡マメに欲しい時と、そうじゃない時があるよ」
「は?まあ、了解。先輩の言うとおりにする」
「会いたい時は直ぐに会いたいよ」
「あー、部活に支障が出ない程度なら飛んでいきます。ていうか俺も会いたいし」
「女の子と仲良くしたら怒るかもよ」
「度が過ぎるのは困るけど、妬いてくれるの嬉しい」
何を零しても、優しい言葉が降り注ぐ。なんだよ、夜久。いつの間にそんなに格好いいこと言えるようになったんだよ。一年の頃は、先輩女子という名の私と話すのも緊張してたくせに。可愛い同級生との会話も、恥ずかしがることあったくせに。私が少し見ない間に、君は立派な男の人になっちゃったのか。私なんか、軽く包み込めるくらい大きなオトコになったのか。
なら、私の我儘、もう少し聞いてくれる?
「夜久……」
「うん」
「あ、愛されたい……」
「……そんなん、任せとけ」
「っ、私がいつでも、夜久の一番でありたい」
「今までもずっと一番だった」
「なん……なんで全部返球してくんの、こんなの最低最悪女じゃん私」
「まあ俺、繋ぐ音駒のリベロだし?」
「意味わからん!」
「先輩が先輩なら、俺はそれでいいってこと」
「せっかく……最後の猶予をあげたのに」
「は?俺がどんだけ先輩捕まえようとしてたか知らねーの」
「しっ知るわけないでしょ!」
ずっと好きだったんだよ。
そう言った夜久は、顔を真っ赤にしていて。その赤に気を取られていたら、ふに、と頬に柔らかいものが当たった。唇にはしないんだ。思うまま、零れるままにそう呟いたら「まだ先輩から返事もらってないし」と、夜久は口を尖らせた。そういうところは、ハッキリさせたがるんだ。
「おっ、お試しでいいとか……言ったじゃん」
「だって先輩が逃げまくるからとりあえず必死で理由を考えた。本音はお試しなんかぜってー嫌だ」
「まあ……確かに夜久らしくないなって思った」
「じゃあ、先輩にとって俺らしいってどんな?」
「そうだなあ、多分私が知る夜久なら……」
「俺なら?」
「夜久、なら……」
熱い瞳で私を見つめて、優しくキスをして「お前は俺の彼女」なんて強引な言葉で私を掴まえる……って、これは私の中の理想であり、妄想だ。言えるわけない。
しかし、夜久は私の目をじいっと見つめてくる。その視線は、焼けそうなほどに熱い。嘘、伝わった?私の妄想、伝わっちゃってんの?なんて、そんなのあるわけない。ないはずなのに、両頬に手が添えられて、やんわり包まれる。夜久、この後どうするつもり?
「や、」
言葉を奪われるように、塞がれる。数秒後に離れたあと、夜久の口からは「先輩、今日からもう俺の彼女っすからね」と、口の端を上げていた。彼は私の知らぬ間に、テレパス能力も身につけたんだろうか。私の理想の展開を用意する後輩なんて、ただの王子様なんですけど。眩しいんですけど!ひたすら可愛いだけだった後輩が、恐ろしすぎる程に成長しており、私は未だ、ついていけない。それなのに、たった今彼氏へと昇格した夜久は追い討ちをかけるように、ぽかんとしている私へ、もう一度唇を寄せてくるのだった。
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