慰安旅行として訪れた、避暑地の向日葵畑を歩いている真っ只中のことだ。不意に、忘れられない人の顔を思い出した。ただでさえ友人二人に置いていかれているというのに、私はその場に足を止めた。
「 名前さん」
頭の中で、懐かしい声が響く。高校時代に、私の名前を呼んでくれた彼は、いつも、朗らかに笑っていた。ああ、彼は向日葵の花みたいだな、と、私は思っていた。思っていたし、実際に本人に伝えたこともある。それだけ仲が良かったのだ。一つ年下の彼は、私の言葉に目を丸くしてから、ううんと唸り声を上げながら首を傾げた。さも、解せぬ、と言った顔。
『向日葵って、なんかうるさくないすか?』
『う、うるさい?花にうるさいも静かもある?』
『絵面がさあ。俺っつうより木兎のほうがそれっぽくないっすか?』
『ぼくと、って梟谷の木兎くんか。まあ、確かに分かるかも』
『あいつより俺静かでしょ?』
『どうかな。夜久だってうるさいよ。ザ・男子高生って感じ』
『うわっひでえ!完全に年下扱いしてる!』
『あんた紛うことなき年下じゃん』
『はー……いつも先輩が困った時、助けてやってんの俺なのに。先輩のほうが年下みたいな振る舞いしてんのに』
『あーっ!今の絶対失言だよ夜久ゥ!』
『いてっ、痛てえって、叩くな、子供か……?!いてててて!すんませんって!』
中学のバレーの大会で夜久を見つけて、やたら動きの良いリベロ居るなあって思ってはいたものの、高校に入ってバレーを辞めた私は夜久のことなどすっかり忘れていた。夜久との出会いは偶然に、突然に。それから、あまりにも情けなく、恥ずかしいものだった。
*
忘れもしない高校二年の夏。当時付き合っていた彼氏と些細なことで喧嘩になって、校舎裏で激しく言い争った。殴り合いの一歩手前、掴み合いまで発展していた私たちの口論は、誰にも気付かれることなく燃え上がる。ただただ、心と肌に傷を増やしていった。売り言葉に買い言葉、関係修復なんてきっともう無理。それほどまでに、酷い言葉を言い合った。
「何やってんすか?!」
涙が膨れ上がって、瞳から落ちる寸前。私たちの間に割って入った、小さな影がいた。こんな場面に出張ってくるとは、なんという度胸。良く言えば勇猛果敢、悪く言えばお節介。同じ学校とはいえ顔見知りですらない高校生カップルの修羅場に口を挟める存在なんて、なかなか居ないのが現実だろう。
それでも、夜久は私に背を向けて、彼氏に向かって「女子に何してんすか?!」って心から驚いているような声を上げた。どちらが悪いとか、何が原因とか、そういうの全て置いて、私より数倍力の強い彼氏の手に掴まれていた私の手首を、咄嗟に庇ってくれたのだ。
第三者が現れたことによって、私と彼氏は冷静さを取り戻し、その場から彼氏は立ち去った。取り残された私は、夜久の背中を視界いっぱいに映して呆然としていた。くるりと振り返った夜久は「手首、血出てる」と言ってポケットからティッシュを取り出した。
『あ、大丈夫、平気、たぶん爪が掠めただけ……』
『もう一枚出しちゃったんで』
『……ごめん』
『ち、痴話喧嘩に余計な口挟んだっすよね、すんません』
『え……え?あの、なんで』
『いや、その、俺、この先の倉庫に用事あって……だいぶ前から話し声聞こえてて、カップル揉めてんなあってとりあえず様子見してたんすけど、なんかヒートアップしてるし、流石にやべえのかなって、つい』
助けてくれたというのに、どうしてか縮こまってしまった夜久を見て、私はものすごく恥ずかしくなった。高校生にもなって、学校であんなに言い争うとか、どんだけ子供よ。通りすがりにドン引かれてんじゃん。
冷静になった頭は再び熱を上げて、頬がカッと熱くなった。蚊の鳴くような声で一言、お恥ずかしい、と告げると、夜久は瞬きを数回してから大声で笑った。
『っ、ちょ、なに?!』
『いやっ、だってさっきまで般若みたいな顔で言い合ってたのに、ぶはっ、めちゃくちゃしおらしいから、なんかギャップに耐えられなくて……!!ははっ、ウケる、』
『般若……?!失礼な、てかあんた誰、上履きの色……一年?!わっ私先輩だよ?!』
『そんなのとっくに気付いてるけど、ギャップが……!』
『ギャップギャップうるさいなあ!やめてよもう本当に恥ずかしいんですけど!!』
それが、私と夜久衛輔の出会いだった。あの時から、彼は会う度ずっと向日葵のように笑いかけてくれた。時に優しく、時に悪戯を含ませて、彼は私に挨拶をしてくれた。
『あ、先輩。ちわっす。もう傷治りました?』
『え!苗字先輩って、バレーやってたんすか。まじか、似合わねえ。運動音痴っぽいのにまたギャップ……痛てっ、すんませんって!』
後輩に懐かれた経験が少なかった私は、夜久が話しかけてくれることが、純粋に嬉しかった。だから私は喧嘩別れした元彼に余計な噂を撒かれたせいで異性から遠巻きにされ、友人以外の同性から腫れ物扱いされても、平気でいられた。どうでもよかったんだ。あんなに激しく言い争うくらいの熱量で付き合っていた彼氏との時間は、夜久の綻んだ顔と笑い声で、いとも簡単に上書きされた。
気づけば私は、夜久が好きになっていた。必然と言われればそうかもしれない。夜久の優しさが、とにかくきもちよかったんだ。
夜久があの時のリベロだと気付いたのは、彼と知り合って随分経ってからだった。その事実は、“運命的”な縁を予感させて、当時ドラマチックが大好きだった私を昂らせた。そして、ある日突然、言葉にしてしまった。夜久の顔を見る度、胸が詰まって、溢れてしまったんだ。
「私、夜久が好きだ」
「え?」
夜久は、今までに見たことがないくらい、目を丸くして、驚いていた。それは多分、仕方ない。でも、いつも眩しく微笑みかけてくれるその視線は、逸らされてしまった。
「すんません……俺……名前さんのこと、あんまりそういうふうにちゃんと考えたこと無かったっつうか、仲良い先輩っつうか、一応友達感覚っつうか、その、」
夜久は至極申し訳なさそうに俯いてしまって、そんな彼を見るのは悲しくて。つい、“忘れて”と言ってしまった。そしてその言葉は「でも」と言いかけた夜久の声をかき消してしまった。夜久の顔は、みるみるうちに曇った。
「忘れてって」
「忘れては忘れてだよ。ごめんね、ただ言いたかっただけ。夜久になにかして欲しいとか、そういうの無いから」
「は?じゃあなんで、今、好きって言ったんすか?言わなくてもよかったんじゃないすか?」
「いや、つい。うっかりだね。いいから忘れて」
今のは忘れて、これまで通り。夜久と私は仲の良い先輩と後輩。なにも変わらなくていい。そこまで私が言うと、夜久はぼそり「ふざけんな」と零して、それから、爆発したように声を荒らげた。
「なんだよそれ?!好きって言われて、なにも変わらないとか無理だろ!」
「え、だって、夜久がそんなふうに考えたことないって言う、から……」
「っ、」
「夜久……?」
「すんません、帰る」
「夜久、っ、ねえちょっと待って、なんで怒ってる……?」
私はただ、夜久の望まない関係になりたくなかっただけだ。なのにどうして、遠ざけられなければならないの。忘れてなんて思ってないけど、でも、忘れてもらわなきゃ、私はもう、夜久に笑いかけてもらえないんでしょう?
“そんなふうに考えたこと無かった”って、そういうことでしょう?
「夜久、待ってよ、!」
懸命に夜久の腕を掴むと、夜久は離れようとする足をその場に止めた。けれど、こっちを向いてはくれない。なんで?私、ちゃんと夜久の気持ち、汲んだでしょう?好きとか、付き合うとか、そんな関係になりたくないなら、ならなくていいから。だから、このまま――
「好きを無かったことに出来ちまう名前さんには、多分わかんないっすよ」
夜久の顔があんなにも悲痛に歪んだのは、初めてのことだった。
あれから、私と夜久は一言も話さないまま時は過ぎて、私は音駒を卒業した。三年と二年。帰宅部とバレー部。女子と男子。会おうとしなければ会うことの無い世界で生きていた私達は、結局、最後の登校日まで顔を合わせることは無かった。
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