この春、大事件が起きた。付き合って3年目に突入した聖臣さんが、なんと花粉症になったらしい。彼は暫くどこにも出たくないと、およそ半月以上自宅に引きこもっている。4月からシーズンオフだと前々から聞いていたが、まだ一度も会えてない。年末から計画していた旅行は頓挫しそうだ。残念だけど、体が資本のスポーツ選手である聖臣さんが体調不良なんだから、我儘は言ってられない。
午前の業務を終えて、いつものようにアルコール消毒をしてから休憩室に入る。お昼時間にスマホを確認すると、着信が一件。聖臣さんからだ。着信が入っていた時間は午前10時過ぎ。仕事中だって知ってるはずなのに掛けてくるなんて、何かあったんだろうか。恐る恐るリダイヤルすると、7コール目で応答があった。
「《休憩?》」
「うわっ聖臣さんすごい鼻声ですね、そうです休憩です。あ、名前です」
「《知ってるいちいち名乗るな》」
「聖臣さんが私の名前褒めてくれたのが嬉しくてつい」
「《いつの話してんだよ》」
「昨年でしょうか。まだ記憶に新しいです」
「《はあ……記憶容量でかいなお前》」
一昨日電話をした時よりも鼻水をぐずぐずとさせている聖臣さんは、至極会話しづらそうだ。今まで風邪ひとつ引くことのなかった彼の現状は、紛れもなく異常事態と呼べるだろう。無条件で、言いようのない緊張感を走らせる。休憩室についているテレビの天気予報によると、月末は花粉の飛散がピークを迎えるらしい。つまりこれ以上の症状悪化が懸念される。
「だ、大丈夫ですか?」
「《そんなわけないだろ。こんな目に遭ったこと無い。人間はここまで鼻水出るもんなのか》」
「あれじゃないですか?人生において、流す量が決まっているとかなんとか」
「《は?……それ涙の話だろ。そんなことよりティッシュ買ってきて欲しいんだけど》」
「切れちゃったんですか?それでわざわざ電話を。分かりました、仕事終わりに買って行きます」
内心、やったね久しぶりに先輩に会えるとか思っちゃってごめんなさい。しんどいでしょうに。何か花粉症に効くもの買っていきますね。言葉にせず、胸に溜め込んだ先輩への想いは私をどんどん元気にさせる。先輩に会えるんだもん、午後も仕事頑張れるな。
当然だけど、私の想いがさっぱり届いていないらしい先輩は、この浮かれた気持ちにそぐわない低い声で《ごめん》と一言呟いた。
「いいんですよ。おつかいくらい気軽に頼んでください」
「《そうじゃなくて、計画通りに出掛けられなくてごめん》」
「えっ」
驚いた。先輩が私との旅行計画をしっかり覚えていてくれたなんて、感激だ。あの話をしたのは、ちょうど世界大会や親善試合やなんやでとても忙しくしていた時だったはず。記憶力が良いのは先輩も一緒じゃないですか。嬉しいです、と伝えたら《なにが嬉しいの?出掛けられないことが?》と、ややキレ気味に返された。しまった、思いの丈が断片的過ぎた。慌てて弁解すると、先輩は僅かに溜め息をついてから、ローションティッシュじゃないと駄目だから、と言い残して一方的に電話を切った。
了解です、と独りごちて、私はランチのコンビニ特製エビピラフを頬張る。最近の外来受付は、先輩のような花粉症の患者さんが詰めかけていてなかなかに忙しいから自炊する余裕なんて無い。社食は飽きちゃったし。不摂生、と叱られてしまいそうだから、先輩にはひた隠しにしているけど。
そもそも今、体調が悪いのは先輩のほうだから。健やかな私は張り切って、先輩の手にも足にもなってあげたいと思うのだ。バレーボールは、頼まれても出来やしないし、佐久早聖臣の代わりなんて誰も務められないから、早く回復してトレーニングに勤しんで欲しいとも思っている。私と出掛けられなくてもいいから、バレーボールをしている鮮やかな姿は見せ続けて欲しいって、心底願っているから。
*・*・*
ピンポン。黒いインターホンを鳴らすと、程なくして、玄関のドアが解除される音がした。自動で開いた?先輩が側まで来た気配がなかった。遠隔操作できるんだ。すご。
シーズンオフ直後、先輩はブラックジャッカルの寮から市内マンションへと引っ越していた。手狭になったのかな、と電話をした際に理由を尋ねたら「お前を部屋に呼べないの不便過ぎるから」と爆弾を投げられて、その場に崩れ落ちたのをよく覚えている。先輩は無遠慮にときめきを投下するのが得意なのである。
「お邪魔します〜……」
ドアノブに手をかけて、ゆっくりと押し開いて中に入る。初めて足を踏み入れる先輩の住まいに緊張が高まった。三和土で立ち止まるも、先輩からの応答が無い。仕方なしに勝手に上がり込んで、部屋の奥まで進んだ。広めのダイニングキッチンは、The・シンプル。床をルンバが走っている。空気清浄機もしっかり稼働していて、なにやら部屋が清々しい。その空間にも先輩の姿は無し。ふと、さらに奥にあるドアが目に止まって、多分そこが寝室なんだろうと悟る。
「開けていいのかな……」
不安が声になって出ていって、それがまた自分の耳に入ってくる。その感情は尤もだが、部屋の主に会わねば、彼女と言えど、ただの不法侵入にもなりかねなくて。ていうか彼は私が手に持っているこのローションティッシュの到着をきっと待ち侘びているわけで。
決意を固めて、寝室らしき部屋のドアノブを回す。キィ、と音が立って隙間から部屋を覗き込んだ。明かりがついていない部屋はほぼ視力が働かない。待って、これじゃまるで本物の不審者じゃないか。もっと堂々と、先輩来ましたよって言った方がいいでしょ。
「き、聖臣さん……名前です、ティッシュ買ってきまし、」
薄暗がりの部屋で、もぞもぞ、何かが蠢く。多分あそこはベッドだろう。目を凝らして見つめると、ぱっと頭上のシーリングライトが点灯した。突然の眩しさに一瞬目がくらんでしまう。
「名前……?」
「はっはい!」
「ティッシュ……」
先輩の姿はまだ確認できないのだが、こんもりとした布団の中から腕が出てきた。慌てて駆け寄って、その手にティッシュを一箱掴ませる。するすると布団の中へ箱が吸収され、ずび、と鼻をかむ音がした。
「先輩……?大丈夫です……?」
「大丈夫じゃない」
「あっ、!は、お、久しぶり、です」
「……うん」
ようやく布団を払い除けて姿を現した先輩は、なんとマスクをしていない。そりゃそうか。家の中だもんな。綺麗なお顔を拝見できたことに動揺して吃ってしまったんだけど、先輩の目と鼻が赤くてそちらにも心臓がドキッとしてしまう。まるで泣き腫らした後みたいだ。先輩が泣いている顔を見たことは無いけど、多分こんな顔なのかなって思う。どうしてか、背徳感のようなものが私の胸をぎゅうっと締め付けた。
「先輩、薬とか飲んでますか?」
「飲んでるけど怠くなる」
「市販薬ですか。花粉症の薬、強いですよね」
「名前」
「はい。…………っわぁ?!」
突然手首を掴んできた先輩の手が熱いことだけは認識できた。それ以外は視界がくるくるとしてしまったせいで、よく分からなくて。気付いたら先輩のベッドに引きずり込まれていた。背中から抱きすくめられて、身動きが取れない。というか、先輩の体が本当に熱い。
「聖臣さん、熱があるんじゃないですか?」
「知らない。とにかく怠い……」
「花粉症は発熱もあるそうですよ。水分とった方がいいです。ポカリ、買ってきたん…で、」
いつの間にか、私の背中は全面的にベッドに預けられていて。目の前には、覆い被さるようにして私に跨る先輩が居た。息が苦しそうで、顔が赤くて、見ているだけで可哀想なのに、どうしても扇情的で目のやり場に困る。懸命に視線を外したものの、すぐに頬に添えられた手のひらでまた彼の顔を捉えてしまった。
「あの、先輩、手がすごく熱い……ちょっと熱高そうです、よ」
「名前に会いたかった」
「ひぇ……」
彼は大分、熱に浮かされているのかもしれない。普段あまり口に出さないようなことを、何食わぬ顔でさらりと言ってしまっている。先輩は今きっと正気ではないと思う。これまで熱を出すという現象が体に起きてこなかったせいもあるのかもしれない。知らない感覚に、常人より敏感に反応して意識が朦朧としているのかも。
「聖臣さん!水分!水分補給、」
「お前会いたくなかったの」
「会いたかったです!でも今は聖臣さんの体調管理のほうが大事だと思います!だから」
「そうやってすぐ逃げようとすんの、腹立つ」
「逃げでは無く…………?!んぅっ、」
がっちり両手を拘束されたまま、先輩の唇が私のそれに重なった。こっこんな突然キスしてくることなんて、最近無かったのに!発熱耐性の無い体、いや頭?危険すぎる。花粉症での発熱は、アレルギー物質に対抗するための身体的防衛だから私に特段の害は無いんだけど、素直に喜んで受け入れていいのだろうか。先輩、呼吸しづらくて苦しくないんだろうか。
「っ、んぅ…っ、ふ!」
「はっ……なんか苦し、」
「そりゃそうです、貴方、鼻詰まってますし喉痛めてるかもですし……キスしたら苦しいのは当然かと……」
「唇合わせるより、舌絡めるほうが呼吸楽」
「へっ…ぅ、ぁ、」
舌出せ、って冷ややかな言葉が放たれて、言われるがままに舌先を伸ばす。緩やかに絡め取られながら、先輩からもれる熱い吐息に心臓がぎゅっと苦しくなった。どうしよう、クラクラする。何度キスを交わしても、先輩との行為には慣れなどやって来ない。回数を重ねるごとに、より深く魅了されてしまうから。理性を保つだとか、そういう類のことが、どうしたっておざなりになってくる。
「名前」
「はぅ、なん、です……」
「エロい顔やめろ。今日は体怠くて抱けない」
「はっ、ひ、そんなつもりで来たわけじゃ……!」
「ありがとう」
「へ、あ、いえそんな……」
「助かった」
先輩の指先が私の輪郭を撫でる。まるで猫でも撫でているような手つきのそれは、非常に気持ちいい。優しい。先輩の役に立てたならそれで良い。
ひと段落したところで、ぐぅ、と先輩のお腹の虫が鳴いた。先輩もお腹鳴るんだ?!吃驚したけれど、慌ててベッドから降りて買ってきたものを広げる。先輩は果肉入りヨーグルトを手に取った。
「ヨーグルトって花粉症に良いらしいです」
「ふうん」
「他にも冷えピタ買ってきたんで、貼りましょう。前髪上げてくれますか」
「自分でやるから置いとけ。それより名前」
「なんでしょうか」
「一緒に住まない?」
「ん?……っ痛!!」
自分の手から滑り落ちた冷えピタの箱が足の指に落ちてじんわりと痛む。思わず屈んで患部を宥めるように撫でた。そんな私を見下ろすように、ベッドから降りた先輩が影を作ってくる。咄嗟に見上げると、先輩は手を伸ばしてくるから、つい流れのままにその手を取った。きゅっと握られて、指先が手の甲をさわさわと撫でてくる。何考えてるんだろう。
「ねえ名前」
「は、はい」
「シーズンオフの間に、荷物まとめて来れる?」
「……ず、随分とまた性急な、そんな、え、本気です?」
「オフの方がまとまった時間作れるからに決まってるだろ。嫌なの」
「そんなわけ無いですけど!でもだって先輩、えっ、私と一緒に住んで大丈夫なんですか……?私そこまで綺麗好きな性格では無くてですね……」
「お前なら気にしない。ていうかキスもセックスもしたくせに、なんで無理だと思うわけ」
「はっ、えっ、それはそうかも、ですけど、ええ〜……」
「一緒に住めば家に居るだけで顔が見れるし、おつかいも3秒で頼める」
じいっ、と見つめてくる先輩の目はやっぱり充血して赤いままで。そんな先輩の看病ないしお世話はしたいかも、などと考えてしまう自分は身の程知らずでしょうか。そんなはずないか。私、佐久早聖臣さんの彼女なんだった。先輩が唯一、その体の具合を委ねてくれる資格も持つんだから、堂々としていればいい。
「よろしくお願いします」
「それ、なんかデジャヴ」
「え?……あ、付き合う時にも言ったかもしれません」
「何度よろしくするつもりだお前」
「いいじゃないですか。何度でも、聖臣さんにはよろしくしたいです」
「ちょっとよく分からないけど」
「きっとまた、よろしくします」
「名前。日本語しっかり使え」
「聖臣さんが好きです」
「……あっそ」
「正しく使えてますよね?」
「うるさい」
ヨーグルトを食べながら、先輩は私の引越しの算段を始めた。本人そっちのけですか。私だって仕事忙しいんですけどね。とはいえ、先輩の為になるなら、多少無理をしたって、私は頑張ると思う。神経質な彼に頼られることは、私にとって誇りだ。そんな信頼こそ、彼からの最大の愛情にも思えるから。ああ、自炊、再開しなきゃ。
prev | next