佐久早先輩とお付き合いを始めて、5ヶ月ほどが経過した。会う回数は少ないけど、彼は何度か食事に誘ってくれていた。毎回同じ場所で食べているけど、私は全く飽きない。飽きるはずがない。目の前には先輩がいるのだ。基本的には無表情で、たまに表情が崩れる。ご飯が熱かったとき。思ったような味じゃなかったとき。私と目が合うとき。それを思い浮かべるだけで、私は会えない日が何日続いても特段寂しさは覚えなかった。それが、先輩にとってはなんとなく気がかりらしい。
およそ2週間ぶりに佐久早先輩と待ち合わせて、仕事帰りにレストランへ向かう。途中の道で、先輩はマスクの下でぼそぼそと何かを呟く。なんですかと聞き返すと、少し間を空けてから「お前」と少し大きめに声を発した。
「全然会えなくて寂しくないの」
「え?だから、何度も言いますけど寂しくないですよ。先輩お忙しいんでしょう。私のことは気にしないでください」
「……苗字、本当に俺のこと好きなの」
「失礼ですね!すっごく好きですよ!」
「うるさい声が大きい」
「すっ、すみません」
じとりとした目を向けられて思わずたじろいでしまう。けれど多分彼はまだ怒ってない。佐久早先輩は怒った時、絶対に視線を合わせてくれない。こないだ、先輩のチームメイトだという木兎さんと宮さんに鉢合わせたことがあった。先輩の彼女、と聞いて興味津々で私をまじまじと見つめた二人に対して、先輩は驚くほど不機嫌な声で「どっか行け」と追い払った。二人にも怒ってはいたけど、そのあと私にも怒った。顔近いのににこにこ話すなって言われた。案外嫉妬深いのかと驚いた。
ふと、歩く道の先に何かを発見して私はてくてくと駆け寄った。先輩が後ろから「なに」と声をかける。道にある何かに近寄ってみると、それは立派な鰐皮のお財布だった。私がゆっくりと手を伸ばしながら落し物でしょうかね、とこぼした時だった。
「拾うの?!」
「えっ?!ひ、拾いませんか?普通に……」
突然佐久早先輩が大きな声を出すから、私はびっくりして固まってしまった。マスク越しでも分かるくらい動揺している。何故。私はよく分からないけど、交番に届けますと言って財布に手を伸ばした。「待て」と言った気がしたけど、私は手に持ち主不明の財布を持った。その瞬間、先輩が大きな溜め息をついた。気がした。マスクを抜けて聞こえてきたわけじゃなかったけど、明らかにはあと言った気がした。
「……なんですか?先輩、鰐皮恐怖症とか?」
「違う。拾ったんならさっさと交番に行ってきて」
「えっ何怒ってるんですか」
「いいから。早く」
行ってこいと言われたからてっきり先輩は来ないのかと思ったけど、私が交番に向かうと、彼は少し後ろをついてきてくれた。こういうところ優しいんだよな、先輩は。何か気に入らなかったみたいだけど、私を一人にはしない。そんなところにまた惚れ込んでしまう。
無事に交番に届けて、色んな手続きの書類を書き終える。待っていてくれた佐久早先輩の元へ戻ると、彼は待ち構えていたように小さなスプレーボトルを私に向けた。
「なんです?」
「手。出して」
「え、ああ、はい」
シュッ、と先輩が私の手に向けてスプレーをひと吹きした。辺りにアルコールの香りが広がる。それは、アトマイザーなんかではなく、病院で嗅ぎなれた匂い。
「消毒液ですか?」
「誰のものか分からないのに触るから」
「ええ……」
「何人踏んだかも分からないのに」
「そんな、え、それであんなに機嫌が悪く……」
佐久早先輩の顔を見つめると「なんだよ」と言われてしまった。その目には冗談のかけらさえない。心底あのお財布への嫌悪が見えている。噂には聞いていたけど、ここまで心配性な人だとは思っていなかった。先輩ってこれまでどうやって生きてきたんだろう。私はとりあえず、ごめんなさいと言った。価値観はそれぞれであって、さっきの行動は先輩を不快にさせた。だから謝った。先輩はまたレストランに向かって歩き始めるので私はとことこと後を追った。歩いていくと、いつもの交差点があって、私たちは信号が青になるのを待った。
「すみません、そこのお嬢さんや」
「……あ、私ですか?はい。なんでしょうか?」
背後からしゃがれた声に呼ばれて振り向くと、腰が曲がったお婆さんが居た。手にはシニア用の手押し車、その上には大きなダンボールが乗っていた。佐久早先輩は黙って私たちを見つめていた。
「郵便局はどっちでしたっけね」
「えっと、郵便局はここから少し歩きますよ。この交差点を渡らないで、この道を進みます。しばらく歩くとコンビニがあって、そこを左に」
「すみません、最近、物が覚えられなくてね」
「ああ……でしたら、一緒に行きますか」
「…?!苗字、お前、」
「先輩ごめんなさい。先輩は先にレストランに行っててください!私はこの方を郵便局に送ってから行きますから」
私は手押し車に乗っていた大きなダンボールを持って、お婆さんと今いる道を歩き出そうとした。先輩はポケットに手を突っ込んだまま私を信じられないとでも言うように見つめている。すみません先輩、看護師を生業にする者として、というか人として、このままお婆さんを放っておくわけにはいかないです。せっかく誘ってくれたのに申し訳ない、と思いつつ私はお婆さんに行きましょうかと声をかける。すると、手に持っていたダンボールをいつの間にか私の横に並んでいた先輩がひょいと奪った。う、嘘でしょ。
「せ、せんぱ……!」
「お前ほんとなんなの。信じられない」
「いやっ先輩、先輩が嫌なことはしなくていいんです!私が勝手にすることなので……!」
「うるさいな。俺だって勝手にやってる。早く郵便局まで行って。俺は道知らないから」
ぽかんと口を開けていると、お婆さんは先輩に向かってのんびりとした口調で「親切な旦那様だねえ」と言ったので私はさっと青ざめる。そういうことを言ったらますます先輩の機嫌が悪くなる気がする!ばっと彼の顔色を窺うと、微かに目元が細くなっていた。わ、笑ってる?私が立ち尽くしていると先輩はじろりと睨んで「早く歩け」と急かした。幻だったかもしれない。
お婆さんを無事に郵便局に送り届けて別れると、佐久早先輩は小さく唸った。そんなに嫌なら本当に無理しなくてよかったのに。レストランからだいぶ遠のいてしまった場所で、私は先輩にもう一度謝罪する。
「先輩、ごめんなさい。わざわざ付き合わせてしまって」
「……いつもああなの」
「え?あ、そうですね、私外出ると何故か声掛けられること多くて。道案内とかよくします」
「……これあげる」
佐久早先輩は、ポケットから先程取り出した消毒液入りのスプレーを私に渡してきた。使えという意味だろうか。正直、消毒なら仕事中に病院で散々やっている。四六時中殺菌しなさいということなんだろうか。断りきれなくて、ありがとうございますと受け取ると先輩がまたマスクの下でぶつぶつと何かを呟いた。
「す、すみません、なんて言いましたか?」
「……知らない人について行くな」
「私、子どもじゃないんですけど」
「実際行っただろ。あとなんでもかんでも拾うな」
「お、お財布は拾いますでしょ」
「苗字は危ないノートとかも拾いそうだから拾うな」
「で、デスノート?拾いませんよそんなの!」
私が必死に否定すると佐久早先輩は私を見つめて黙った。なんだろう、緊張する。実は怒られているのか。私を見てくれるからまだ平気と思っていたけど本当は結構沸点に近いのか。高校でも何かと有名だったあの先輩と付き合うには、それ相応の覚悟とか立ち振る舞いが必要なんだろうか。私は私を曲げなきゃ、だめだろうか。
「……なんでそんな顔してんの」
「ど、どんな顔してますか?」
「顰めっ面」
「先輩に向かってそんな顔してません!」
「してるから」
佐久早先輩は来た道を戻ることなく、どこかへと歩き出した。私が呆然としていると「何つっ立ってんの」と言われ、遠回しに早く来いという意味だと気付いて慌てて駆け寄って横に並ぶ。どこに行くんですかと聞くと、別なレストランと言われ、先輩って別なお店知ってるんだと少し失礼なことを考えた。
隣に歩いて、私の身の振り方を思案する。先輩と一緒にいる為には、私が今まで当然のようにしてきたことをしなくなる必要があるんだろうか。それは、私にとって果たして良いことと言えるだろうか。先輩の嫌がることは確かにしたくない。だけど、私は私が善としていることを、やっぱり曲げたくはない。
「あの、先輩……私、さっきみたいなこと、やっぱり今後もすると思います」
「……そう」
「先輩が嫌なのは十分わかりました。でも私は、先輩みたいに細やかな性格ではないし、今までやってきたことだし、なんというか、その、」
「別にそのままでいいよ」
え、と先輩を見上げると、不意に腕を引かれて大通りの道を外れる。どこに行くんですかと言う間もなく、ビルの影になった細い路地裏に連れ込まれて、ドンと壁に押し付けられる。先輩、こんなところ来て平気なんですか。多分ポイ捨てされたごみとか落ちてますよ。先輩がおもむろにマスクを外した。食事の際にしか見られない彼の顔を見て、心臓が飛び跳ねる。かっこいい、やっぱり、素敵。どうしていつもマスクしてしまうんだろう。とても勿体ない。顔を隠すためじゃないと知っていても、そう思ってしまうくらいには先輩は綺麗な顔をしている。
「苗字は別にそのままでいいけど」
「へ、」
「そのたびに振り回される俺がいることを忘れるなよ」
「あ、は…ごめんな、さ、」
「……お前も振り回されればいいのに」
どういう意味だろう、と頭で考える前に、佐久早先輩の顔が一瞬で眼前に迫っていてあっという間にキスをされた。ちゅ、とリップ音を立てたそれが一回。私、キス初めてなんですけど。唇を離されて、じっと見つめられる。むり、しんじゃう。
「余裕そうだな」
「え、いや、一体どこをどう見れば、」
「なんか腹立つ」
「えっ、ん、っ……ふ、!」
もう一度唇を寄せられて、先輩の舌が私の唇を割り開いて入り込んできた。先輩、他人と粘膜が触れ合いましたが大丈夫ですか。こんな時にも先輩のことを優先的に考えてしまう。音を立てるような激しいキスではないのに、長い長い一回の口付けに足が震えてくる。少しだけ気を抜いた瞬間ガクン、と体が崩れ落ちそうになって、彼は小さく驚いた声を上げて私を支えてくれた。
「っ、は、すみませ、」
「……なに」
「なにって、私のせりふ、わ、わたし…きす、初めて、なんですけど、」
先輩は目を少し見開いて、小さくごめんと言った。いや、ごめんて。私はもう先輩が粘膜の触れ合いをしたという心配をする余裕もなく、恥ずかしくて俯いた。沈黙が辺りを支配して、時折近づく雑踏にお互いびくりと震える。こんなところで私何しちゃってるんだろう。先輩も、何しちゃってるんですか。頭上から「名前」と呼ばれ、驚いて顔を上げると先輩は真剣な顔をして私を見ていた。う、わ、やっぱり見つめ合うのはまだハードル高い。硬直していると、きゅっと優しく抱き締められた。待って、待って先輩、そんなに触れ合って大丈夫なんですか。さっきまで色んなものを嫌がってたじゃないですか。
「あ、あの、!」
「帰ったら毎日手洗いうがいして」
「え?あ、し、してます、いつも」
「掃除して洗濯もして」
「?し、してます」
「外出たら消毒スプレー使って」
「えと、あの、佐久早先輩……?」
「名前呼んでいいから」
俺の名前知ってる?
そう言った先輩の顔はどこか不安げで。何に対して心配性なのかと思っていたけど、彼の繊細な心は世界の色んなものに揺れ動くんだと気付いた。私は、そんな彼の心を人より近くで、ちょっとだけ激しめに揺らす存在になってしまったらしい。それには、きっと大きな責任が伴うんじゃないかと思った。
私は笑いながら、勿論知ってますよ、と言った。彼はやっぱり不安そうで、呼んでみてと言うから“聖臣さん”と呼んであげる。そしたら、ようやくほっとしたように彼の目は緩く弧を描いた。今なら何をしても許される気がして、私は背伸びをして彼の頬にキスをした。
「……なにしてんの」
「あっ、あれ、ごめんなさ、」
「勝手にするな」
「はい、すみませ、わあっ、?!」
再びぎゅっと抱き寄せられて、どうにも彼との距離感が掴めなくなる。先輩、と離れようとしても何故かなかなか離してくれない。ちらりと見上げると顔はマスクをしていなくて、頬が赤く染っていた。ああ、見られたくないのか。私は嬉しくなって、見ないふりをして彼の胸にぽすんと顔を埋める。しばらく、多分彼の火照りが静まるまで、私は胸の中に収められるんだろう。これから、心配性で神経質な彼とどんなふうに付き合っていけばいいかな。そう考える私は、悩ましそうな議題の割には至極楽しみでいっぱいだ。
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