時刻は夜8時を回ったところ。体育館からはバレーボールの音が聞こえる。部室来んと思ったらあいつまだやってんのん。北さんから託された部室の鍵を右手に握りしめて、私は体育館の入口に立った。
「侑、私帰りたいからはよ片付けて部室行って。鍵しめるから」
「なんでお前が鍵当番やっとんねん」
「北さん家の用事がどうしても外せんって。他の皆は薄情やから帰ってしもた」
「ほーん」
「片付ける動作せぇや!」
バレー馬鹿。寝ても覚めてもバレー馬鹿。あかん、侑で一句読んでしもた。侑は私の言葉を無視してボールを高くトスし続ける。綺麗なトス。侑は全日本ユース合宿にも呼ばれるほどの天才セッターだ。惚れ惚れするような柔軟性のあるトスを初めて見た瞬間に、バレーオタクの私はまんまと射抜かれてしまった。顔やない。このトスや。そこら辺の女が顔に騒いどる意味は全く分からん。じいっと見てると、侑がトスをやめる。なんで私が黙るとやめんねん。せっかく見蕩れとったっちゅうに。侑がじろりと睨む。
「そない見つめられたら集中できん。あっち行けや」
「はは、むしろ集中力つけたほうがええんとちゃう」
「……今日は終わりや。帰る」
「よっしゃ」
侑はボールを片してからジャージを引っ掴んで、私を追い越して部室へ向かった。待っとったのに先行くのはひどい。侑ってあんまり人に優しくせんけど、私に関しては取り分け扱いが雑で、これは嫌われとるなって思わなくもない。彼はバレーに対する熱が異常だ。やから、男目的でバレー部のマネージャーやろうとする女が大嫌い。私はバレーが好きやからマネージャーしとるし、仕事もちゃんとやっとるんやけどな。私の何かが気に入らんのやろう。私は、鮮やかなトスを上げたり無茶な攻撃やったり、心底バレーボールを愛しとる侑のことが好きなんやけどな。あんな態度を取られてまうから恋心なんて欠片も見せられん。
部室に入るなり、着替えを始めようとロッカーを開く侑をじっと見張る。その視線に気付いた侑はげんなりした顔で私を見た。
「着替え見んなや。変態か」
「見張らんと侑月バリ読み耽るやん。ところで治は?」
「オカンと買い物。ジャンケンで負けたから荷物持ち」
「いつも一緒やのに」
「いつも一緒なわけあるか」
侑がばさりとTシャツを脱ぎ捨てる。引き締まった背中に無性に腹が立つ。しっかり体のメンテナンスもできとる。はあ、悔しいけど深みにハマる一方や。着替えを済ませた侑がバッグを背負って部室から出てくる。きっと足早に帰るんやろう。私は無言で部室の鍵を閉めて職員室に返却に向かった。
やっと帰れると、昇降口に行くと下駄箱の横に侑が立っていた。スマホを弄っていたが、私が来たことに気がついて「遅い」と言った。なにそれ。
「何。一緒に帰る気なん」
「別に」
「……あっそ」
侑の意図が分からない。これ以上憎まれ口を叩かれるのもしんどいから、私はまた明日と言って侑の横を通り過ぎようとした。すると、唐突に腕を掴まれ強い力で引っ張られる。掴んできた相手を見上げると、なにやら表情が不機嫌になっていた。
「なんで一人で帰ろうとすんねん」
「は……だ、だって侑はなんか用があるんやろ?私はもう帰るし、」
「こない遅くに一人で歩くお前はただのあほや」
「なん、なんなんそれ、仕方ないやんそんなの、」
「侑さんが送ったる」
感謝せえ。そう言って侑は私の腕を掴んだままズンズンと進んだ。速歩きな上に足が長い。ついていけず、足がもつれて転びそうになると侑はピタリと止まって私のほうを振り向く。
「足短か」
「わ、わざわざ言うこと?!」
「速いなら速いって言えや。手間かけるやっちゃ」
「ご、ごめ……ってなんで私が悪いみたいに言われとんの」
「お前が悪いやん」
私が悪いのか。侑が言うと、そうなのかと思ってしまう自分がいる。ベタ惚れしとるつもりはない。それでもやっぱり惹かれている人に咎められたら、自分を責めたくもなる。ごめん、と小さく言うと侑はぼりぼり頭をかいて、私の腕を掴んでいた手を離した。
「急にしおらしくなんのやめろや。部活んときはもっと気ィ強いやんけ」
「だって……」
「なんやねん」
だってこれ以上嫌われたくない。なんて言えるわけない。お前俺のこと好きなん?って言われたら、多分回避できないから。口ごもる私に侑が溜め息を零す。
「すまんかった。遅くまで付き合わせたんは俺や」
「別に、それはええし、」
「……嫌になんなや」
「は?」
嫌になるとは。それは私やなくて侑のほうではないのか。私は嫌になったことなんかない。多分。一度もない。邪魔にならん距離を保って、側でバレーやっとる侑のことを見て、密かに焦がれるだけ。侑は私をなんとも思ってない。そうやろ。侑のほうを見ても、こっちを向いてくれないからどんな顔をしているのか分からない。
「お前、マネージャーならたまにはボール出しせえ」
「なにその言い方、私かて仕事ちゃんとしとるし」
「俺の練習に付き合え言うとんのや」
「なんでよ。付き合うたらこない遅なってしまうやん」
「遅なったら送るから」
やから付き合え。
侑の言葉は、練習に付き合えという意味だと頭では分かっちゃいるけど、心臓は勝手に速くなってしまう。いつか……そうやな、侑と私が卒業する頃には、別な意味で「付き合え」って言うてくれる日が来んかな。もしかしたら、私のほうが耐えきれんくなって言ってしまうかも分からん。まだしばらくはバレー馬鹿やっとるやろうから、私はバレー馬鹿の勇姿を目に焼き付けたらなあかん。手も繋がん、腕も組まん帰り道を、何度も繰り返せば、いつかは辿り着けるやろうか。「好きや」。その言葉は、まだ取っておかなあかん。
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