「悩みがあるなら純文学、お勧めだよ」
昼下がりの図書室でなかなか借りる本が決まらずうろつく俺にそう言ったのは三年の図書委員長。同学年である木葉さん達の間では“本の虫”と呼ばれているらしい。彼女は毎日放課後、図書室に居るともっぱらの噂になっていた。たまに図書室を利用する俺でも知っているから、相当有名な話だと思う。本の虫と称されるとはいえ、彼女に近寄り難い雰囲気はなく、至って普通の女子高生。強いて言うなら常人より清楚で淑やか。声を掛けられた時は、正直驚いた。だって今日は土曜だったから。
俺はバレー部の午前練が終わって、ちょうど図書室を開放していたから暇つぶしに読むスポーツマン向けの指南書を物色しに来たところだ。突然話しかけてきた彼女になんと返せばよいか分からず、言葉に詰まった。普段の俺なら出る言葉はある。というか、今既に頭の中に浮かんでいる。『休日も図書室にいるとか暇なんですか?』。淑女の図書委員長に、言えるわけがなかった。
「え……と、」
「図書室、もう閉めるところなの」
「え」
「土曜なのになんで学校居るの暇なんですかって顔してるけど、図書委員で部活入ってない子は土曜の午前中、当番として来てるんだよ」
「はあ……そうなんですか」
「まあ、部活入ってないの私だけなんだけどね」
つまり、図書委員長は毎週土曜に休日当番として登校していると。随分真面目なんだなと思ったけど、貸出カウンターには積み上がった本の山があって、なんだ職権乱用の役得かと思わず笑ってしまった。
「笑ったね」
「あ、すんません」
「帰宅部を笑うと帰宅部に泣かされるんだぞ」
「いや、そっちには笑ってないですけど」
「じゃあ一体何に笑ったの」
「いや……」
「意外にも失礼なんだね。赤葦くんは」
「は」
何故俺の名前を知っているんだろう。そんな疑問は自分が着ていた、名入りの部活ジャージが目にとまってすぐ晴れた。彼女は続けて「部活お疲れさま。お腹減ったなら私の惣菜パンをあげるよ」と一言告げる。腹は減っているが誰かに恵んでもらおうとするほど飢えちゃいない、と考えた直後に腹の虫が鳴いた。彼女はくすくすと笑ってから、貸出カウンターの下に屈んだ。そこから顔を出した瞬間、ぽいと何かを投げられた。運動部のサガで思わず掴みにいくとそれはコロッケパン。しかもビッグサイズ。こんなもの彼女が食うのか。まるで想像できない。
「あげる」
「いいんですか」
「いいよ。喋ってたら本もう貸出せない時間になっちゃったからお詫び」
「えっ」
壁にかかった時計を見やると、時刻は午後2時を回ったところ。これまで図書室に関して詳しいことを知らなかったが、土曜はこの時間を過ぎると貸出システムが作動しなくなるらしい。梟谷学園は書籍が充実していて、貸出は全て電子システムで行うのだ。無断で本を持ち出すと、あとで校内放送で呼び出されてこっぴどく叱られる。以前、木兎さんが本に目覚めたとか言って図鑑だったか伝記だったかを持ち出してお咎めを受けた時の記憶がもやもやと蘇った。
「来週も開いてますかね」
「私の予定が入らなければ例外なく」
「それはつまり開きますか、開きませんか」
「暇です」
図書委員長は言葉遊戯をするように、俺の問いかけに対して真っ当な返事ではない返事をした。少し面白くなって、なんとなくもっと話がしてみたくなった。けれど彼女は通学に使用しているらしいリュックを背負って「お先!」と図書室を出ていってしまった。通り過ぎる際に戸締りよろしくねと残され、ハテナを浮かべる。俺は図書室の鍵なんか持ってない。まさか探せとでも言うのか。慌てて図書室を出ると、扉横の壁に背を預けて彼女が佇んでいた。彼女は悪戯が成功した子供のような顔で笑う。
「吃驚した?」
「……しました」
「やった」
呆れて物が言えない。わけではなかった。彼女の纏う異質な雰囲気と、どうにも年相応には思えない頭の回転の良さに興味津々になった。面白い人。これが、名前も知らない図書委員長に抱いた初めての感情だった。
次の週、午前練を終えた後に再び図書室へ向かった。この時期の土曜は午前練、日曜はオフと強豪梟谷バレー部にしては緩やかな日々を過ごしている。俺としてはバレー漬けな毎日のほうが余計なことを考える必要が無いし、調整幅も少なくて済むから有難い。しかしコーチや監督の意向は“適宜休息すべし”とのことだから、副主将といえど抗えまい。だからこそ、余白の生じた時間を埋めるべく、活字を求めて来たんだけれど。
「あら。本当に来た」
「ちわ」
「ちわっ」
似合わない運動部式の挨拶を返してくるのは、先週に引き続き登校している図書委員長だ。相変わらず貸出カウンターに本を積み上げている。これ、全部午前中に読んだ本なんだろうか。
「好きなの」
「は?」
「平積みの本」
「……はあ」
一瞬、ほんの一瞬だけ心臓が止まった。いきなり何を言うかと驚いてしまった。会ったの二回目だぞ、と思ったが、生憎俺は一目惚れなるものを何度かされていて、面識のない相手からも告白はされたことがある。自慢じゃない。決して自慢なんかではなく、むしろ少しの蔑視を込めている。見た目だけじゃ何も分からないはずだ。本のように、表紙だけでは、帯、タイトル、冒頭2行だけでは面白さなんて分かりはしない。俺はさほど読書家というわけではないが『何千何万と印刷された活字の中に、たった一文の感動と納得、或いは疑問や反論を探すために、人は読書をするのだ』と深夜番組のコラムニストは言っていた。
さて、一体なんの話で途切れたんだったか。思考の海を泳いでいた自分が水面へと顔を上げると、見計らったように彼女は俺に尋ねた。
「赤葦くんは、横置きと縦置きもしくは平積みの本、どれが好き?」
「置き方……は正直どうでもいいです。大切なのは中身では?」
「何が大切かなんて、正直どうでもいいの。知りたいのは赤葦くんが何が好きかってこと」
また言葉遊戯だ。俺が発した言葉をオウム返しのようにして問いかけてくる。面白い。けど、変人だ。木葉さんの言ったとおり、図書委員長こと苗字名前という先輩はとんだ変わり者だと確信した。にやにやと笑う彼女は俺の返答を待っている。縦置きですかね、と答えると、彼女は「そう。じゃあこれ縦置きに戻してくれるかな」と積み上がった本を指さした。それはあんたの仕事では?
「断ります。俺、本借りたいんで」
「だから、純文学。お勧めって言ったでしょ」
「読みたい本は自分で決めます」
「こないだ迷ってたじゃん」
「探してただけです」
「一冊借りてご覧」
「物語よりスポーツ科学とかメントレとかがいいっす」
「純文学は最高のメントレになるって」
いつの間にか目の前に立った彼女はだいぶ背が低い。俺を見上げるその顔は年上とは到底思えない。その癖、発言は悪戯好きの難解パズリスト。この人、見た目と精神年齢がバグを起こしているんじゃないだろうか。
「なら、そのジャンルも借りるんで一冊選んでください」
「それは赤葦くんが自分で考えなきゃ」
「は?!」
「純文学だって一緒くたにはできないくらい膨大なジャンルがあるわけだよワトソン君」
「シャーロック・ホームズは純文学ではないですよね」
「推理小説はいつの時代も人気作よ」
純文学の何がそんなに良いのかは知らないが、彼女は俺を図書室中央部寄りのコーナーまで押した。さあどうぞ、と言わんばかりに手を広げられる。だから、どれがいいのか分からないから教えて欲しい。木兎さんとはまた異なる翻弄の仕方をする苗字先輩は、愉しそうに笑っている。
彼女は本気で純文学というジャンルを勧めてきただけで、書籍を選んでくれそうな気配はない。本の背表紙だらけの世界に立ち尽くす俺を見て、ただ微笑んでいる。仕方ない、適当に選ぼう。無茶振りは慣れている。こういうのはフィーリング或いは世間のお勧めに倣えばいい。並んでいる背表紙達の中で、ところどころに表紙を見せるように置かれているもののうちの一冊を選んで手に取った。苗字先輩の視線が突き刺さる。
「なんすか」
「適当に選んだね」
「いけませんか」
「挑戦者は大好き」
「……」
「合縁奇縁の御本との出逢いに乾杯!」
「は?」
グラスなんか持っちゃいないくせに彼女は空の手を高々と上げて、しまいには俺の背中をバシン!と叩いた。やはり木兎さんとどこか似ているのかもしれない。親戚か?
奇天烈過ぎる彼女の発言は、その小さな頭の中のどこから引っ張られてきているのか。興味津々からそろそろ身を引きたくなるような天真爛漫っぷりだ。それでも、口から零れる言葉の難しさと、童心に満ちた笑みを零す表情のちぐはぐなところに、むしろ引き寄せられている。頭が痛いのに面白い。だんだん迷宮に落ちていきそうな気さえする。そうこうしているうちに、また図書室が閉められる時間になった。苗字先輩は今日は俺を置いていくつもりがないようで、他に利用者が残っていないか見回りに行った。
「じゃあね。赤葦くん」
本棚の間からあっさり手を振るもんだから、なんとなく拍子抜けしてしまう。俺は会釈してから帰路へついた。
自分の部屋で一息つきながら、本の表紙と見つめ合う。借りた本に対して特段の期待は無い。この本は苗字先輩が書いたわけじゃないし。ぺら、と未知の蓋を開けて、世界を覗き込む。小説なんかに没入できるのか、という不安はあったが読んでみると思いのほか捗った。淡々と進んでいく文章は案外自分の肌に馴染んだ。それらは先輩のような強烈な印象は与えてこない。代わりに、整然とした綺麗な日本語を紡いで、人間の情緒的な部分をありありと表現していた。
気付けば何時間と読み耽っていて、黄昏時の眩しい西陽が裏表紙を照らした。この瞬間から、俺はまんまと“純文学”に惹き込まれてしまったのだ。一度読んだだけでは到底理解できない。それが面白い。それからというもの、時間があればそれに分類される書籍を手に取った。もともと活字は苦手ではなかったから、やがてジャンル不問に小説やノンフィクション等にも手を伸ばし、暇があれば物語の世界を覗くようになった。
要約すると、苗字名前に会う機会が格段に増えたと言える。
「おやまあ。また来たのかね赤葦先生」
「苗字先輩のせいで読物の深淵を覗かされている気分です。読んでも読んでも理解し得ない世界が増えるばかりです」
「バレー漬けの日々は地獄なの?」
「地獄に仏という話ではありません。バレーは基本やりたくてやってるんで」
「それじゃあ赤葦くんは罪人か」
「蜘蛛の糸でもありません。先輩、まさかご自分のことを御釈迦様だとでも思ってるんですか。それは勘違い甚だしいかと」
「ぷ、あっはは!赤葦くん、随分巧妙になってきたねえ!」
「地頭は良いと自覚してるんで」
貸出カウンターでのこんなやり取りは然ることながら、苗字先輩は俺が返却した本の一文を抜粋して毎度語りかける。この人、全て暗記しているわけじゃあるまいな。恐る恐る尋ねれば「人は自分が本当に好きなものと、本当に嫌いなものしか覚えてられない極端な生き物なのですよ」と諭した。つまり、彼女が発した一文は、彼女にとってどちらかに値するものなだけであって、決して全てを記憶しているのではないと。そう言いたいんだろう。なんとなく彼女のパズルが解けると、読了後の充足感にも似た気持ちにさせられた。
彼女が卒業するまでには、奇天烈だと思っていたその言ノ葉も、至極ユーモアとセンスに溢れたものだったのだと理解した。そして、自分の思考もそんなふうになっていると気付いた頃にはもう、俺の進路票には“文芸誌の編集”と記されていた。
*・*・*
漫画編集を経て、晴れて文芸編集に異動できた俺の生活は“未知の文言”との出会いで構築されていた。次に目をつけるライターは、もしかしたら苗字先輩ではないか。編集部に直筆の100万字小説原稿を送り付けた作家志望は彼女かも。彼女は、苗字名前はどこかで突飛な小説家やライターにでもなっているんじゃないか。ふと、そんなことを思うようになっている自分をとんだ酔狂人だと笑った。
担当編集との打ち合わせを終えて、月明かりの眩しい夜道を歩く。なんとなくコーヒーが飲みたくなり、ふらりと古民家風のカフェに立ち寄った。閉店間際なのか、店内に客は居ない。適当にメニューを眺めて、特にめぼしいものが見つからないのでオーソドックスにブレンドコーヒーを注文する。俺の注文を聞いてくれた女性は柔らかく笑って「480円です」と告げた。その顔を見て、俺は思わず、ウワと声を上げてしまった。狼狽したのだ。意表をつかれたせいで、口からは考え無しの言葉が零れる。
「苗字先輩、ですか」
「え?…………あれ、もしかして、君は梟谷学園の赤葦くん?」
「そうです。後輩の赤葦京治です」
「わあ!偶然!卒業以来、だよね?」
「ですね」
なんということだろう。俺を文学の世界に引きずり込んだ苗字先輩は、なんとコーヒーショップの店員になっていた。てっきり俺のように、というか俺以上に文学の道か何かにのめり込んで毎日本を読んでいるのだと、勝手に想像していたのに。エプロンをして、客のオーダーに合わせて行動する苗字先輩など俺は知らない。だが、不思議とがっかりなんかはしなかった。いつかの先輩の台詞が頭の中にふわりと浮かんだ。合縁奇縁。人生とは解らないものだな。
ただ、彼女は学生時代に比べ、言葉選びがひどく常軌的になったと、この数分だけでも感じる。あまりにも違和感、あまりにも似合わない。接客業のせいだろうか。貴女のような変人は、久しぶりに再会した俺に向かってパズリングを披露したいのでは?
「あの」
「なに?」
「好きです」
「え……っああ、ブレンドコーヒー?うちはラテ系もお勧め」
「いえ。貴女のことが。ずっと好きでした」
苗字先輩はぽかんと口を開けた。舞台はもう、貸出カウンターではなく、コーヒーカウンター。一日の大半を書籍と共に過ごさない彼女はもう多分、本の虫ではない。その胸には光るバッジ。今やコーヒーマイスターのようだ。でもこの場所が苗字先輩に相応しくないとは思わない。貴女の選んだ未来こそが、俺が惹かれた難解奇天烈な苗字名前という女性だから。
あの日、貴女に勧められてまんまと文芸編集の道を志した安直過ぎる俺に、どうか一言贈ってほしい。できれば、俺が選んだ言ノ葉と似たようなものであれば嬉しいのだけれど。
「赤葦先生。“事実は小説よりも奇なり”という言葉を知っているかな」
「はい。英国の詩人の言葉です」
苗字先輩は目を細めた。
「私、あと30分くらいで仕事終わるの。そのコーヒー飲んだら外で待ってて」
「外……ですか」
「そう。外で」
“今夜は月が綺麗ですから”。苗字先輩からの久しぶりのパズルはあまりにも簡単だった。易し過ぎて、むしろ本心かどうかを疑ってしまう。それは、つまりそういう意味と捉えて良いんですか。苗字先輩は俺にコーヒーを渡しながら口を開いた。
「これは冷めないうちに飲むのが正解だけど、私の想いは何年も温めておいて正解でした」
「……こんな時くらい、素直に言ったらどうですか」
「情緒が無いねえ」
「素直に伝えた俺に喧嘩を売っていますか?」
「もう。先輩を笑顔で追いつめないで」
「で?」
「っ、あ……赤葦くんのことが、す、好きでした」
「ふふ。それはどうも」
「何その反応?!」
苗字先輩は顔を真っ赤にして、レジ締め作業を始めてしまった。ラストオーダーの時間は過ぎていたようだ。奇天烈先輩の正体は、難解な言葉達を使って自分の想いを遠回しに伝える、至極恥ずかしがり屋の可愛らしい女性だった。
劇的再会から僅か数分。晴れて想いが通じ合ったようだし、続きは月影の下で聞かせてもらうことにしよう。
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