「名前〜教科書貸して〜」
「えっ光太郎また忘れたの?」
「忘れた!」
「胸張って言わないでよ……」
隣のクラスから、数学の前になると必ずやって来るこの男は木兎光太郎。近所の幼馴染だ。彼の代名詞とも言えるバレーボールを始める前から、私は彼を知っている。目立ちたがりで、好奇心旺盛で、単純で、言ってしまえば、おバカ。本日も調子の良い顔で、さも当然であるかのように私の教科書を借りようと机の脇にしゃがみこんでいる。
「ねえ光太郎、私教科書汚さないでっていつも言ってるよね」
「汚してねえし。なんもこぼしてないし」
「落書きしないでってこと」
「落書きなんかしてねえ!」
「端っこのパラパラ漫画!これ落書きでしょ?!」
「落書きじゃない!俺の最高傑作の漫画!」
「も〜〜〜〜……!」
光太郎がダッハッハッと大声で笑うと、クラスメイトは一斉にこちらを見ながら「また木兎が騒いでる」とくすくす笑った。私まで恥ずかしいからやめて〜……!野次馬の中で、ちらちらと光太郎を窺う視線がひとつ、ふたつ。あれは面白がっている視線じゃない。「木兎くん今日もかっこいい」もしくは「可愛い」っていうほうのやつ。
彼はこれでも女子の間で密かにモテている。というか、チヤホヤされている。無理もない。全国強豪と名高い我が梟谷学園男子バレー部の誇るエースであり、バレー界の次代を担うと呼び声の高い、言わば宝のような存在。将来有望株間違いなしで、高校三年生という今の時期から木兎光太郎の友達あわよくば彼女になろうとする女子は少なくない。まあ、大概はあまりにも破天荒な光太郎の素行に怖気付いて、告白にまで至らないんだけど。
「名前〜、今日の放課後ゲームしに行っていい?」
「部活はどうしたの」
「明日から練習試合だからミーティングだけ」
「ふうん。別にいいけども」
「よっしゃー!!んじゃミーティング終わるまで待ってろよ!」
「え?!家で待ってちゃだめなの?」
「だめ〜〜〜」
「な、なんでえ?」
「なんでも!!」
じゃあな!と言って、光太郎は教科書を持って、私の元そして教室からも去っていった。正直、光太郎の生態は未だによくわかんない。昔はもっと分かり合えていた気がするのに。どこで理解が追いつかなくなったのか。彼の背中が見えなくなってからもぼんやりと教室のドアを眺めていると、木葉が自分の席である私の前に戻ってきて、ストンと座った。
「さっき木兎来てた?」
「来てたよ」
「やっぱな〜廊下の端まででけえ笑い声と“名前!”って呼ぶ声聞こえてた」
「うわあ、恥ずかしいんだよなあ……」
「しゃあないんじゃね?苗字の前だとアイツ5割増でうるせーし」
「そ、そんなことないと思うけど」
「あ……そう?まあ、いいわ。あんま言うと俺にとばっちり来るし」
「なに?」
「いいのいいの。忘れとけ」
木葉の言葉がなんか引っかかったものの、予鈴が鳴ってしまったので慌てて次の授業の準備をする。
言っておくが、私は光太郎のことがずっと前から好きだ。だから教科書を毎回貸すのは嬉しいし、光太郎の落書きが増えて戻ってくるのも本当は嬉しい。でも、一方の光太郎は単に幼馴染だから借りに来るだけだし、授業が暇だから落書きするのであって、他意は存在しないから。ライバルも多いし、幼馴染という枠にしがみついているだけの私じゃあ、勝負なんて出来たもんじゃないんだ。
「片想い、つら……」
「あ?なんか言ったか?」
「木葉は毎日近くに居られていいよねえ」
「何と」
「なんでもない」
「あそ」
恋人になりたいなんてハードルが高すぎる。だからせめて、幼馴染のままでいたい。こんな希望を抱いたのは、一体いつからだったか。光太郎の考えていることが理解できなくなるのと、どっちが早かっただろう。光太郎って、私のことどう思っているんだろう。……ああ、幼馴染か。その関係が続いていくように私自身が努力してるんだもんな。それ以上も以下も、あるわけないな。
*・*・*
放課後、友達からのファミレスのお誘いを断って、ひとり教室にて光太郎を待つ。せっかくだから、週末に出た宿題やっちゃおう。教科書とノートを広げて、課題の範囲を書き写しながら、要点をチェックする。これでも私、ノートの作り方は上手いと思っている。昔から、光太郎が理解できないところをまとめてあげていたせいだろうか。友達に見せると、「すごーい!分かりやす過ぎて馬鹿でもわかる!」って言われたことがある。そうね。正しい評価かもしれない。光太郎も分かるって、そういう事だ。あの子、梟谷にはスポーツ推薦で入ってきたから、偏差値とか一切関係無くていつも赤点ギリギリないし赤点だから。
ふと、窓の外がいつもよりどんよりと暗いことに気付いて視線を上げる。あ、雨だ。さっきまで降ってなかったのに。そっか、もう梅雨入りなのかも。ぽつぽつと降っていたそれは次第に音を立てて激しく降り出した。うええ、やばいよ豪雨。傘、ないのに。
「苗字?」
「へ。あ、木村くん」
「珍しいね、放課後居るの」
「ああ。ちょっと用があって。というかずぶ濡れ!」
「部活してたら急に降ってきた」
木村くんがタオルを頭から被るのを眺めながら、そういえば彼はサッカー部かと思い出す。すると、クラスのサッカー部の男子たちがぞくぞくと教室に入ってきて、その場があっという間に賑やかになった。ウッ、私、場違い感がすごい。一瞬にして運動部の陣地と化した教室は、私のような帰宅部がちらほらと居たけれど、追い出されるように姿を消していった。わ、私も場所変えようかな。図書室とか行こうかな。
「ねえ苗字、それ今週の宿題?」
「ん?そうだよ」
「悪いんだけど、ちょっと範囲メモ取らせて。聞きそびれたんだよ」
「え、あ、どうぞどうぞ」
「ありがとな」
木村くんは私の席の脇にしゃがんで、宿題の範囲を自分の持っている小さな紙にメモした。木村くん、距離近いな。あれ、でもそこ光太郎が居た場所だ。よく考えたら、私と光太郎の距離って普通より近いのかも。どうりで、光太郎のことが好きだって噂の1組女子からの視線が厳しいわけだ。慣れって怖い。今度から少し気をつけよう。私は別に幼馴染アピールしたいわけじゃないからね。
「苗字って、ノートすげえ見やすいのな」
「えっ、ありがとう。結構自信あるんだ」
「なんか自分で写すより苗字のやつ見た方が頭入る気がする」
「そ、そうかな。でも自分で書くほうが頭に入ると思」
「木村、苗字さんと何してんの〜!……って、苗字さん、ノートすげ〜!めっちゃ綺麗〜!」
「なになに?」
「苗字さんって誰?」
「苗字っていつも放課後居ないよな?今日は何してんの?」
「わっ、え、……え、」
サッカー部のひとりが木村くんと私のお喋りに気付いたのを皮切りに、私の机周りは彼らによって一斉に囲まれた。こっ怖?!圧がすごい圧が!なんだかよく分からないけどとりあえず寄ってみようというノリに圧倒される。
誰も悪気が無いのは分かってるんだけど、体格のいい男子高校生が何人も集まると恐怖しかない!今の私は、まるで客寄せパンダ状態だ。でもみんな、私のノート褒めてくれてるだけだし、こんな中でそそくさと物閉まってサヨナラ〜ってしたら感じ悪いよね。耐えろ、大丈夫だ。みんな同級生だ。他クラスの人も居るっぽいけどほぼ顔見知りだし、取って食われるわけじゃないし、数分もすれば飽きて勝手に離れていくでしょ。頑張れ私、怖くない怖くない。ガタイの良い男の子は光太郎で慣れてるんだから全然平気……
「名前〜!帰るぞ〜!……あれ、」
タンッとドアの開放音とともに私を呼ぶ声にハッとして、俯きがちだった顔を上げる。光太郎来た!でも、サッカー部に囲まれているせいで光太郎は多分私のこと見えてない。ここです!ここに居ます!私の周りでガヤガヤと喋り続ける彼らの喧騒に紛れてしまいそうだったけど、私はとりあえず言葉を発する。
「こ、光太郎〜…」
「ん?」
隙間から光太郎の姿を確認すると、私の声が聞こえたのか光太郎がこっちに向かってきた。やがて、サッカー部の人達が「木兎じゃん」「なんで制服?」「部活ねえの?」などと、気軽な挨拶を交わす。それらを何故か全て無視した光太郎は、彼らの壁をかき分けて、私の前に現れると、腕をガシッと掴んだ。
「ひえっ……」
「名前何してんだよ?!待ってろって言っただろ!」
「は、え、待ってた、よ?」
「俺は囲まれろなんて言ってない!!」
「???そんなの、私のせいじゃ……わっ、」
ガタンッと派手な音がして、私が座っていた椅子が倒れる。光太郎によって無理やり立たされたせいだ。きつく掴まれた腕が痛い。「帰んぞ!」って鼻息を荒くする光太郎が何を考えているのか、今この瞬間、やっぱり理解できない。何怒ってんの?ていうか怒ってんの?臍曲げてる?訳が分からないまま、鞄にドサドサと机に広げていたものをしまわれて、そのまま引っ張られる。
「ごっ、ごめん木村くん……!みなさんも、」
「いや大丈夫……!」
「俺らもごめんな……?!」
なんで彼らに謝られているんだろう。そして、なんで私も謝っているんだろう。全ての理由は、目の前をずかずかと歩いていく木兎光太郎という男の頭の中にある。ほとんど引きずられながら廊下を進んで、階段を降りて、途中で赤葦くんや木葉に鉢合わせた。
「苗字?何してんのお前」
「し、知らない……!」
「木兎さん。外、雨すごいですよ」
「知るか!!」
は?と二人に返されながら、そのハテナを受け取った私はさらに昇降口まで引きずられていく。もうなんなんだろうね。分かんないです。でも多分私が悪いんだと思います。ローファーに履き替えて、また引きずられて、土砂降りの中を傘もささずに二人で歩く。はっ恥ずかしい!職員室から先生達見てるし!
「光太郎……っ、光太郎は傘ないの?!」
「無い!!」
「だからなんで胸張ってんの〜……!」
コンビニで買おうよと言ったのに無視されて、家に向かう電車に乗るべく最寄りの駅に向かっている。と思う。光太郎はなんにも言わない。でかい背中にもなんにも書いてない。ただプンスカ怒っていることしか分からん。何この人、光太郎ってこんなに理解不能だった?サッカー部に嫌いな人でもいた?でも光太郎が誰かを嫌いになるなんて聞いたことない。ミーティングで何かあったとか?でも木葉と赤葦くんは至って普通だった。もうやだ、考えるのをやめよう。
*・*・*
駅に着くと、私たちのようにずぶ濡れになった人達が意外と居て悪目立ちはしなくて済んだものの、電車はホームから激混み。この雨の影響でダイヤの乱れが起きているらしい。それでも光太郎は歩みを止めず、いつもの電車に無理やり乗り込んだ。
ぎゅうぎゅうの車内は湿気と冷房で、すこぶる最悪なコンディションだ。ぶるりと悪寒がして、くしゃみをした。
「名前寒いの?」
「寒い……」
「じゃあ俺にくっ付いて」
「っ、ひっ、?!」
唐突にぎゅむ、と抱き締められて、何事?!と頭がパニックになる。ここ電車の中ですけど?!とはいえ、乗客全員団子状態だから、誰もが誰かとくっ付いているようなもんではある。にしても、私は光太郎の腕の中に居るわけで。視界は光太郎のシャツでいっぱいになってまして。
さっきまで湿気のいやな匂いが広がっていたというのに、私の鼻腔は光太郎の家の洗剤の匂いで満たされる。この匂い、好きだ。不意に、頭の天辺がもぞもぞとして擽ったさを覚える。ちらりと視線を上げると、光太郎が私の髪の毛に顔を寄せていた。
「ちょ、こうたろ、」
「名前のシャンプーの匂い、甘くていい匂い」
「へっ変態か!やめてよ恥ずかし、」
「お前だって俺のシャツ嗅いでるくせに」
「なっ、(なんでバレてんの…!)」
駅に停車するたび電車に人が詰め込まれて、さらに光太郎と密着する。こっこれ以上は何かが持たない!ただでさえお互い濡れていて変な気分なのに。ぽたり、と鼻の頭に滴が落ちてきて、思わず見上げる。
「なに」
「っ、〜…!」
不機嫌そうなどんより顔とは対照的に、きらきら光る瞳と視線がかち合って、心臓が飛び跳ねる。ていうか光太郎、髪の毛へなってる…!
私はずっと幼馴染だと思っていた光太郎の、ある日のお風呂上がりに出くわしたせいでハートを射抜かれた。おでこ全開元気小僧だと思っていた彼が、いつの間にか格好良い男になっていて不意打ちを食らったのだ。普段のミミズクヘッドも嫌いじゃないけど、前髪を下ろした光太郎の破壊力は凄まじい。見た目だけで惚れたわけじゃないにしても、ギャップというものは人を大々的に狂わせる。はあ、まずい、こんな至近距離でときめいたら流石に全て見透かされてしまう。だって私、今絶対目がハートになってる。
「名前?」
「あ、あう……」
「どしたお前」
「ぅう……」
そんなに見つめないでくれ光太郎。恥ずかしい。恥ずかしくて涙目になってしまう。頬っぺたもきっと、真っ赤。心臓が悲鳴を上げる頃、車内アナウンスが流れてようやく降車駅に辿り着く。光太郎が再び私の腕を引いて、ホームに降り立つと、雨はすっかり上がっていて、混雑も解消されつつあった。い、一体なんだったんださっきの時間は。もう少し待っていれば普通に帰れたんじゃないのか。光太郎のぺたん髪を拝めたのは有難かったけど、彼は未だ何かに怒っているらしい。
家までの歩き慣れた道のりをだんまりで進んでいく。日が沈んだ薄暗い中で、ふと、彼は立ち止まって低めな声で「名前」と呼んだ。ああもう、まだ何かあるのか。光太郎との喧嘩って面倒くさくて本当に長引くからしたくないのに。彼を刺激しないように、なるべく低姿勢での応対を心がける。
「な、なに……?」
「名前って、いつも男とあんなに仲良いの」
「……は?」
「あんなに囲まれてなんなの?!あれ、こないだ黒尾が言ってたハーレムってやつだろ?!」
「は、ハーレム、とは」
ハーレム:一人の男性がたくさんの女性を侍らせる所。(※宗教的には別の意味を持つ。)
って、誰が脳内で辞書を引けと言ったんだ。黒尾って、音駒高校の黒尾くん?光太郎に余計な知識を与えないで欲しい。野良じゃないんで勝手に餌を与えないでください。そしてハーレムというのは男性が女性を集わせることなので、私のさっきの状態を指すならば逆ハーレムである。
「というか、そんなんじゃないよ?!」
「嘘つくな!明らかに囲まれてた!」
「だっ、別に、そんな、木村くん達は私のノート見てただけで」
「名前は女の子とばっかり喋ってるから俺は安心してたのに!」
「……何言ってんの?」
「男とあんなに近付いて喋るなんて聞いてないって言ってんの!」
グワッ!と顔を近づけられて、大声で言われる。あまりの迫力に、私は瞬きを繰り返すので精一杯だ。ええと。待って。ちょっと待てよ。光太郎が何を考えているか、もう少しで理解できそうな気がする。こういうのって、なんだっけ。普通の人の場合、なんて言うっけ。
「ヤキモチ……」
「はあ?!」
「光太郎、それはいわゆる、嫉妬だね?」
「知らん!けど、腹が立った!」
「……ふふ。なんだ、そっか。そういう事か」
「何笑ってんだ!」
ようやく木葉の言葉が引っかかった原因が分かった。この感じだと光太郎自身、自分の気持ちがよく分かってないのかもしれないけど、私も腹をくくろう。光太郎が理解できないことは、なんだって教えてきたじゃないか。
「あのね光太郎、一回しか言わないからよく聞いて」
「何を!」
「私、光太郎が好きなんだあ」
「?何、いまさら」
「えっ」
そんなのずっと前から知ってるし俺も好きだけど。って口を尖らせる光太郎は、少しずつ口の端が上がってきている。単純だな、好きって言われて喜んでるじゃん。でも、光太郎が言う好きの意味、なんとなく違ってる気がするなあ。私は幼馴染として好きなんじゃないんですよ。そして、あなたの思う好きも、きっと幼馴染としてのものじゃないはず。
「光太郎、ちょっと屈んで」
「だァから今度はなに……っ、」
リップ音が小さく鳴って、動きのうるさかった光太郎がようやく固まる。「名前が俺にチューした。なんで?」と首を傾げるから、好きだからと言った。
「光太郎の好きも、こういう好きでしょ」
「は?他にどういう好きがあんの」
「ええと、幼馴染とか友達として好き、みたいな」
「俺はずっと前からチューしたいほうの好きだったけど?!」
「エッあっそうなの?!」
なんてこった、光太郎のことをようやく理解したつもりだったのに、全然できてなかった。やっぱり何考えてるのかもう分かんないや。でも、好きだってことは知れたし、なんでも良いといえばそのとおりだ。光太郎はまた不貞腐れて、「俺からしたかった」と言うから素直に謝る。すると、今度は腰に手を回されて、距離が一気に近付く。電車にいた時と同じ光景に、再び心臓が飛び跳ねた。
「こうたろ、」
「こういうのは男が先にすんの」
「は、はあ……すみません」
「好き」
「わ、私も、」
すき、と言おうとしたけど、言葉になる前に光太郎の唇に塞がれてしまった。「青春だねえ」と、おばあちゃんの声が耳に入ってきて、ようやく今ここがどこであるかを思い出す。しまった、光太郎の自由奔放さに流されすぎた。こんな道端で何してるんだろうって、激しい羞恥に襲われるのは、キスを終えるあと3秒後。光太郎が機嫌を直して満面の笑みを咲かせるのが、その5秒後。
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