入学してから一週間経った金曜日のことだ。北川第一中学の1年C組は、ホームルームを使って「隣の席の人とコミュニケーションを取りましょう」という担任の指示以降、えらく騒がしかった。
俺の隣は二人いるけど、この列は左側の人とお喋りしてくださいと指定され、顔だけ動かす。女子だ。右隣は男子だったのに。特別苦手とかではないけど、女子はなんとなく面倒くさいと思った。小学校の頃から思っていた。女子同士は話していることが複雑で、何が楽しくてはしゃぐのか全然分からないから。俺はそもそもバレーボールしか面白いと思わない。女子と話が合ったことは、一度もない。
眠たそうな顔で、窓際の席に座っている女子に、わざわざ声を掛けなければいけないホームルームは地獄のように思えた。ぼんやりと前を見ていた隣の女子は、こてん、と頭を頬杖から外して俺を見た。
「初めまして。国見名前です」
「かっ、げ、やま...っす」
フフ、と笑いながら、国見名前という女子は、下の名前も教えなきゃいけないんだよと言った。影山飛雄、と言い直すと「とびお」といきなり呼び捨てにされた。初めて会話したのに、かなり馴れ馴れしいと思う。けれど、国見の笑った顔はどこか憎めなくて、“人懐こい”という表現がしっくりくる気がした。
「名前って呼んで」
「俺とお前全然仲良くないぞ。そういうの気にしないのか」
「気にしない。けど、そうじゃなくて、後々困ると思うから」
「困る?」
「とびおはバレー部入るんでしょう?」
「なんで分かるんだ」
「小学校の時、大会で見たことあるよ。すごく上手だね」
そう言って、国見、じゃない……名前はまた頬杖をつき直した。正直、普通に嬉しかった。いつの大会のどの瞬間を見て上手いと思ったのか知りたくなったけど、名前はそれっきりバレーの話はせず、先生が黒板に書いた『質問の例題』から誕生日だとか好きな食べ物だとかを聞いてきた。俺は聞かれるままに答えて、名前にも同じ質問を返した。
「兄弟は居る?」
「姉ちゃんが一人」
「へえ〜」
「お前は」
「弟が居るよ」
「ふうん」
「よろしくね」
名前はにこりと笑った。この時の笑顔はどこか愉しそうな、なんとなく何かを期待しているような顔に見えた。というかよろしくってなんだろう。質問しようとしたらホームルームが終わってしまって、そのまま放課後になった。名前が「じゃあね」と手を振って、俺を見送る。俺は男子バレー部が活動する体育館に走った。
入部希望者は体育館に行く前に部室でジャージに着替えろと先輩が新入生に言っているのを聞いて、入学して早々にバレーができるもんなのかとワクワクした。誰よりも早く着替えて体育館に入る。俺と同じ入部希望者は大勢居るらしく、体育館の入口がごった返した。整列するように声をかけられて、適当な順番で並ぶと、隣には名前がいた。
なんで居る?ここは男子バレー部だぞ。マネージャー、とか?じゃあなんでさっき俺に手を振ったんだ。イタズラか?色々考えながらじっと見ていると、口元をジャージの襟で隠していた名前が「何」と不満そうな声を出した。声が低い。
「……名前、だよな?」
「は?」
「隣の席の、」
「……お前影山だろ。俺は名前の双子の弟。国見英」
「ふ、双子、」
「なんだよ。別に珍しくもないだろ」
名前の弟だという国見英はツンツンした奴で、名前とは似ても似つかない感じだった。名前は名前と呼べと言ってくれたけど、弟は全然そんな雰囲気じゃない。よろしく、なんかも言えなくてその場は少しだけ沈黙してしまった。顔は同じなのに別人。名前のイメージが強かった双子の顔が突然霞んだように思えて、よく分からなくなった。バレー以外のことを難しく考えるのは苦手だ。
遠慮からなのか、俺は国見英を自然と“国見”と呼んでいた。国見も俺のことを影山と呼ぶし丁度いいのかもしれない。男と女に差があるのか、それとも名前が特殊なのかは知らないけど、俺は国見姉弟をどうにも姉弟とは思えなかった。だってあまりにも似てない。
何日経っても、名前は名前でしかなくて、国見との距離感は変わらない。不思議な感覚のままだったけど、俺は隣の席の名前とは仲良く過ごすことができていた。
「飛雄、次移動教室。一緒に行こ」
「いいけど……お前って女とあんま一緒に居ないよな」
「失礼な。ちゃんと友達居るもん」
「へえ」
「飛雄とお喋りするの楽しいもん。好きな人と一緒に居ちゃいけない?」
「別に」
今サラッと好きな人って言われた。名前って俺のこと好きなのか?俺は、嫌いじゃないけど。特別な好きとか考えたことなかったから、今自分が名前に対してどういう気持ちを持っているのか分からなかった。名前だって、どういう種類の好きなのか分からないし。
廊下を歩いていると、向こうから国見とクラスメイト数人が歩いてきた。名前が「あ〜、英」とひらひら手を振った。国見はゲッと顔をしかめて、俺と二人で歩いている名前とを見比べた。
「名前。お前なんで影山と一緒にいんの」
「悪いの?」
「悪いというか、目立ってる。付き合ってんの?」
「なっ」
「残念。違うんだなあ」
国見の言葉にびっくりして、つい二人の会話に口を挟んでしまった。名前は何に残念がっているんだ。国見姉弟の独特な温度差は、周囲の空気を混乱させていく。俺と、国見と一緒に居た二人の男は、同じ顔でありながら喋ることが全く違う名前と国見の光景に目を白黒させた。
どこでどう会話が切り上がったのか分からなかったけど、名前と国見はいつの間にか顔を逸らし合ってそれぞれ歩き出した。
「飛雄、行こ」
「ああ……」
名前は相変わらず、へらりと笑った。何かと俺に付き合って、寄り添って、話しかけてくれる名前のことを、俺はごくごく自然に友達の枠から外すようになった。たまに口にする「飛雄のそういうとこ好き」という言葉も心地良かった。劇的な始まりではないけれど、ああこれは多分恋というやつなんだろうと思った。
*・*・*
名前とは結局中学三年間同じクラスだったこともあって、今では女子の中では一番仲の良い存在といえる。別々な高校を卒業してなお、未だに連絡を取り合っている。けど、お互い踏み込んだことを伝えたことは無い。この頃には、俺の中ではもう名前への好きの種類がどういうものかを理解したというのに、成人した今も何も言えてない。
“試合観にきた!がんばれ!”
名前から届いたメッセージに驚いたのが今朝のこと。宮城で仕事をしている名前は、わざわざシュヴァイデンアドラーズのホームである東京の体育館まで試合を観に来てくれているらしい。メッセージのあとに、新幹線に乗る名前と、窓際の席でぶすくれている国見の映った写真が送られてきた。国見も観に来てくれるみたいだ。
名前は、俺が中三の時に国見達と何があったかを全部知っている。あの時、名前は俺に何も言わなかった。言えなかったのかもしれないけど、俺としてはそれで良かった。もし何か言われていたら、『王様』だった俺は名前に対しても酷い態度をとって暴言でも吐いていたかもしれないから。もしそうなっていたら、今こうしてメッセージを送ってくれる名前はきっと存在しないだろうから。
「影山、随分機嫌良さそうじゃんか」
「星海さん。もう瞑想はいいんすか」
「瞑想じゃねえよ、集中力高めるイメトレ」
「それ瞑想と何が違うんすか」
「瞑想ってのは雑念と向き合って整理するってやつ。俺のは“俺最強!”ってインプットする為の時間」
「はあ」
「もっと興味持て!……まあそんなんどうでもいいけど、スマホ見てニヤつくの珍しいな?」
星海さんに言われて、俺はニヤついていたのかとなんとなく顔を触る。まあ隠しているわけじゃないから、好きな人が試合見にきてるらしいんで、と素直に言ったら「お前好きな奴とかいんの?!」と驚かれた。
「まじか。影山って恋とかすんのか」
「俺だって人っすよ」
「人かもしんないけどバレー以外に興味無さそうじゃん」
「んな事ないっす。ずっと好きだったんで」
「へー!!やべ、おもしれえ!んじゃ今日はその子の為にトス上げんの?」
「いや、そいつはバレーしないじゃないすか。トスはスパイカーの為に上げます」
「……お前って真面目で偉いと思うけどさ。やっぱなんかちょっと思考はつまんねえよな」
「は?」
星海さんとの会話が切り上がらない中で、昼神さんが「時間だぞ」と声をかけた。スマホをバッグにしまって、ロッカーの扉を閉める。あ、返信すんの忘れた。まあいいか。どうせ名前は試合を見に来てる。もう試合の会場に居るはずだから。
競技コートに向かうと、会場は観客で埋まっていた。ほぼ満席だろう。スターティングメンバーが順に呼ばれて、俺も呼ばれる。場内から「影山選手ー!」「影山さんがんばって!」と、知らない人達が声援を送ってくれる。
「飛雄!」
なんとなく、名前の声が耳に届いた気がして思わず声の出どころを探した。けど、ほんの数秒しか視線を動かすことができなくて、名前も国見も見つけられなかった。
それからすぐに試合が始まって、アドラーズ優勢のまま1セット、2セットを連取した。なんとなく今日は自分の調子が良い。チームもそれに気付いているようで、途中交代を挟みながらも頭から最終セットまで俺はフル出場させてもらった。時折、会場を見渡してしまうけどやっぱり二人のことは見つけられなくて。ホイッスルが鳴ればボールに全神経を注ぐから、結局俺は試合終了のその瞬間まで名前のことを頭のほんの片隅にしか置いてなかった。
その反動なのか、試合が終わった途端、スマホを確認したくて堪らなかった。今どこにいる。少し話せるか。会えるか。聞きたくて、姿が見たくて。これが恋というもんなのか。高校三年間はろくに会うこともなかった。社会人になってからはなおさらだ。電話もほとんどしたことは無い。そんな俺でも、名前に好きだと言う権利はあるだろうか。ずっと好きだったと言って、名前は信じてくれるだろうか。国見は、そんな俺をどう思うだろうか。
「影山、今から打ち上げだけど行くか?」
「すんません。ちょっとそれどころじゃないっす」
「は?!おい影山ァ!先輩の誘いの断り方がなってねえだろ?!こら!どこ行く影山!」
走ってロッカーに辿り着いて、雑にスマホを操作する。思えば、俺から電話をかけるのは初めてかもしれない。けど、帰ってしまったらまたしばらく会うことはできないんだろうから。迷っている暇は無かった。
国見名前の名前を探してタップする。何コールかしても、出る気配はない。もしかして、もう移動してしまっているかも。電話を切って、スマホを手に持ったまま控え室を飛び出した。なんでこんなに必死なんだろう。よく分からない。けど、頭より先に体が動くから。今までだってそうやってきたから。会場から出ていく観客の波に構わず飛び込もうとすると、手に持っていたスマホが震えながら鳴った。“名前”だ。
「もっ、しもし!」
「《びっくりしたあ。飛雄、試合直後だよね?電話大丈夫?》」
「名前、今どこだ…!」
「《今?今はCエリアの出口から出る》ところ、」
「名前!!」
「ひえっ?!」
「ウワッ、影山…!」
偶然、電話をしながら目の前に現れた名前と、連れの国見を発見して大声で呼び止めた。近くの人はちらちらと俺を見ていたけど、退出の流れは止まらないから立ち止まる人も居なくて、結果的に誰も騒ぎはしない。流れの中から出てきた名前は国見の手を掴んで俺の元へ向かってきてくれた。
「飛雄、久しぶりだねえ!試合おめでと!なんだか大人っぽくなった?」
「ああ。お前は変わんないな」
「ひど!ちょっとは大人になったでしょう?」
「名前は変わんないって」
「英は黙っててよ!ていうか飛雄、こんなところで立ち話してて平気なの?」
「長居すると俺は怒られると思う。けど、言いたいことがあったから」
「言いたいこと?」
眠たげだった名前の目元は、少し見ない間に化粧でぱっちりとしたものになっている。可愛いっちゃ可愛いけど、俺は飾らない名前も好きだ。そんな名前の目がくりくりと動いて俺を凝視する。くっ、と喉が詰まりかけたけど言い淀んでいる場合じゃない。もう言える機会はない。これ以上胸にしまっておきたくない。
「俺、名前が好きだ」
「えっ」
「うわあ……こんなところで」
ちらほら人の視線が刺さる気がするけど、ちょっと構ってられない。アドラーズは別に恋愛禁止じゃないし、既婚者だっている。俺は悪いことをしているという感覚なんか無い。名前は口を開けたまま固まっていた。それから、国見に小突かれてみるみるうちに顔を赤くした。
「待っ、飛雄、嘘だ、」
「名前サイテー。その返し超笑える」
「英ほんとに黙ってて!」
「嘘じゃない。俺はずっと名前のことが好きだった」
「そんな、の、わたし、私のほうが……」
「だから国見」
「は……俺?な、なに……」
「名前を、姉さんを俺にくれ」
「は?」
「ちゃんと大事にするから。頼む」
「飛雄っ、何言っ……やだこんなとこで頭下げないで!何やってるの!?」
名前が俺の肩を揺するから、その手を掴んで顔を上げた。びくっと名前は体を強ばらせたけど、俺の目を見つめたまま逸らさないでいてくれた。
「名前。結婚してほしい」
「?!え……ええええ……?」
「影山さあ、名前と付き合ってもいないってこと分かってる?」
「分かってる。だから結婚前提に付き合って欲しい」
「そ……」
「はあ。やっぱ影山の考えることって俺には理解できねー。でも俺名前の結婚に許可出せるような権限持ってないし。親父にでも挨拶しに行けば」
「そうか。そうだな、名前。今日はもう宮城帰るか?俺もついて行っていいか?」
「へっ、返事を聞いてないのに親に挨拶に来るの?!」
「……ああ、」
あまりにも必死になったせいで、肝心の名前の返事を聞くのを忘れていた。断られるという可能性も十分有り得るのか。そうか。自覚はあったけど俺って高校の時から変わらず馬鹿なのかもしれない。
途端に、心臓が握られるような緊張感に襲われて、握っていた名前の手を思わず離した。すると、今度は名前が両手でぎゅっと俺の手を握ってきた。
「なんで離しちゃうの、」
「……だって」
「言ったでしょ、私のほうが飛雄のことずっと好きだった。初めて飛雄のバレーする姿見た時から、今日までずっとずっと好きだったから」
名前の目からは涙が零れていた。泣いてる。泣いてるのに笑ってる。名前は泣きながら「よろしくお願いします」と返事をした。国見に視線を向けると、どうぞご勝手にと言われた。言葉は冷たいけど、その口元は緩く笑んでいた。
長かったお互いの片想いは、こうしてようやく終わりを告げた。
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