幼女と俺と残念なおっさん
ここで質問、いや相談したいことがある。
学校帰りに遭遇した幼女。大体の幼稚園児が被っている黄色い帽子のツバ部分は握りしめられ過ぎて原型を留めていない。その下から見える表情は口を一文字に結んで泣きそうになっているのをグッと堪えている。
まぁ、ここまではまだいい。迷子の幼女を見かけただけだ。親切だかお節介だかな通りすがりの主婦が声をかけて対処してくれるだろう、普通ならば。
「おい」
「…」
「…おい」
「……」
問題はその幼女は俺の学ランの裾を握りしめたまま離さない、ということだ。
【幼女と俺と残念なおっさん】
何故だ。まだ優等生だか優しそうな風貌の学生なら分かる。だがしかし、何故俺なのだ。
「…離せよ」
俺の腰までしかない身長を見下しながらボソリと声をかけてみるが無言で首を振られる。別に子供好きでも何でもない俺にはその態度はただイラッとさせるものでしかない。しかしこの住宅街では人目が多い為無理に引き剥がすことも出来なかった。
何故なら今日、俺は停学が解けた登校日初日だからだ。次問題を起こせば退学処分をちらつかせられている為、帰り道幼女に乱暴を振るったなんて通報されれば一巻の終わりだ。退学なんてバレてみろ、おふくろが倉庫から弟が昔使っていたバッドを出してきて俺を殴り殺すに違いない。その確信だけはあるし、まだ死にたくはない。
「かったりぃ…」
未だ皺が取れなくなるであろう俺の裾を強い力で握りしめている幼女を尻目に溜息を吐けば、黄色い帽子がビクリと揺れた。泣くか?いや、泣く前にその手を離せ。
「……」
しかし幼女は頑なにその手を離さなかった。むしろ裾を掴んでいる手が一本から二本に増えた。マジか。
どうしたものかと立ち往生していると、通りすがりの買物帰りであろう主婦が俺たちの様子を胡散臭そうなものを見るような目つきで伺っている。これは少々まずい、せめて怪しさだけは回避せねば。
とりあえず一歩前に進むと幼女も裾を掴んだまま一歩進む。二歩進んだら歩幅が違う為幼女は三歩進んだ。試しに普通に歩いてみたら両手で裾を掴んだ状態のまま小型犬のように小走りでついてくる。そのせくせくと動く足がチワワを連想して少し面白い。
そのままコンビニに進むと適当に飲み物を選んでレジに向かった。何故か一緒に置かれたいちご牛乳も清算に含まれていたので睨んでみたが視界に入るのは黄色い帽子だけだ。くそ、こっち見ろガキ。
店を出てからも店員が訝しげにガラスの向こうからこっちを見てくるので仕方なくいちご牛乳を袋から出してストローを差し渡せば俺の裾を掴む手が一本減った。あ、いい案を思いついたぞ。
俺はそのままコンビニに引き返すと適当に子供の好きそうな駄菓子を買う。清算を済ませ外に出て、先程と同様袋から出して封を開け差し出せば裾を掴む最後の手がそれを受け取った。
よし。
「あっ」
という幼女の声が聞こえるがもう遅い。俺は一気に走り出して逃げた。コンビニなら店員さんが警察にでも連絡してくれるだろう。
短い間だったな、と走りながら振り向けば何故か幼女は必死に俺を追いかけていた。泣きそうな顔をしながら片手にいちご牛乳、片手に駄菓子、肩からは幼稚園バッグをかけて…って両手塞がったままそんな走り方したら絶対こけ…
「…っく、っそ!」
た。盛大に顔面からすっころんだ。流石にこれを放って逃げる程俺も外道ではない。
「おい!」
俺は慌てて引き返すと幼女に近付く。こけたせいで駄菓子の中身は散らばりいちご牛乳はコンクリートの上を無残に流れている。肩を掴んで起こしてやれば、鼻の上と膝に擦り傷を作っていた。店内から様子を見ていた店員もタオルを片手に飛び出してくる。
「大丈夫?」
優しそうな店員さんの心配そうな表情が幼女の顔を覗き込む。しかしこいつはさっきからずっと見せている泣きそうな顔を一切変えず俺の裾をまた掴んできた。
あぁ、もう。俺の負けだ。
「妹さんにこんな悪戯はダメですよ〜」
完全に兄妹だと思っているらしい店員の説教を生返事で聞きながら、俺は三度目のコンビニへと入り絆創膏といちご牛乳、駄菓子を買い直すと袋片手に裾を掴む幼女の手を掴みその場を後にした。まさかこの五分の間に五百円が消えるとは思わなかったぞ。
「…お前家どこだよ」
先程とは打って変わって俺の手をぎゅっと握りながら横をてくてくと歩く黄色い頭に向かって初めてまともな声をかけてやる。暫く無言が続いたので返事はないか、と思ったが幼女は小さな声で呟いた。
「おりさか団地」
「あー、はいはい。じゃあとりあえずその近くまで行くぞ」
聞いたことのない特定過ぎる場所に仕方なく携帯のマップで見てみれば、ここから二駅も離れた駅前団地だった。マジか。ちらりと幼女を見下ろす。強がってはいるようだが擦りむいた膝が痛いのだろう、少し引きずっている。
仕方ない。俺は今月発売の漫画は諦めるしかないと重い足取りで駅へ向かった。訂正する。十分の間に千円が消えた。
「ここか?」
電車に乗って到着した場所を念の為と確認すれば黄色い頭が縦に揺れる。しかしまだ家には誰もおらず鍵もない、と聞いて団地前の公園でようやく怪我した膝と鼻を洗って絆創膏を貼ってやった。明らかに怪我しましたーって見た目に親が喚かないことを祈る。本当に祈る。
「大体お前なんであんなトコいたんだよ。見たら幼稚園こっから目と鼻の先じゃねーか」
公園のベンチに並んで座っていちご牛乳と駄菓子を堪能している幼女に俺は携帯を見ながら溜息をついた。どう考えても迷子になる訳がない。
「……」
しかし何も話そうとしない幼女。ただ駄菓子をハムスターのように口いっぱいに放り込んでむしゃむしゃと食べている。こうなったら親が帰ってくるまでここで待つしかないのだろう。幸い団地に向かう通行人が見える為気付きやすいかと安心していたら何故かだんまりな隣から寄りかかる重さを感じた。おい。
「寝るなよ」
「……」
言われて目を擦る幼女。どうやら空腹が満たされたせいか、眠気が襲ってきているらしい。それだけはやめてくれ。
「俺お前の親の顔なんて知らねーんだからな」
うっかり向こうが気付かず通り過ぎる可能性だってある。そう頭を小突けば小さく頷いた頭がまた揺れた。聞いてねーだろ…。
「っちゅん、」
おまけにくしゃみまで飛び出してきた。春といえどそろそろ日が暮れて肌寒くなるのは分かる。分かるがなんだ、なんでそんなにこっちを訴えるように見てくる。
暫く見つめ合っていたが、二度目の小さなくしゃみで俺は腹を括るべく溜息をついた。
「ほっんとこのクソガキ…」
俺は渋々幼女を脇の下から抱え上げて膝の上に乗せた。正直俺も少し寒いと感じていたなどという気持ちは一切出さず、吹いてきた風から守るように両手を体に回す。
温もりを感じたせいか睡魔に負けそうになっている幼女を見ながら俺は溜息をついて面白そうにこちらを伺う通行人を睨みつけた。
早く帰ってこい、クソ親め…。
「かなちゃん!」
それから三十分ほど通行人を睨みつけていると、すっかり暗くなった路地の中慌てた声が小走りに近付いてきた。
「ぱぱ!」
それまで俺の膝の上でぐっすり爆睡していた幼女は飛び起きて近付いてきたおっさんの方に駆け寄る。ああ、ようやく終わった…。
「迎えに行ったのにいないから心配してたのに!」
「ごめんなさい…」
さっきまでの無口な不愛想キャラはどこに行ったんだよって突っ込みたくなるぐらい満面の笑みでたくさん話す幼女こと「かな」という名前だったクソガキは父親らしきおっさんに抱かれて何やらボソボソと耳打ちしている。何にせよ無事帰れて良かったな、三時間と千円を奪われた俺は本当にただのとばっちりだ。
さて用事も済んだし帰るか、とベンチから立ち上がった所でおっさんがこっちを見ていることに気付いた。何だ、言っとくがそいつが勝手に俺に引っ付いて怪我したんだから文句は聞かねーぞ。
「あ、ああああのありがとうございました!」
「はぁ、別に…」
…とは思っていたがこんな赤面しながら礼を言われるとは思っていなかった。おっさんは片手にガキを抱えながらもう片方の手で恥ずかしそうに頭を掻いている。
「片瀬(かたせ)くんには二度もご迷惑をおかけして何と言っていいのか、その、」
「あ?おっさん何で俺の名前知ってんの」
たどたどしく話しかける姿に社会人の癖にコミュ障かよ、と呆れていると何故か教えてもいない俺の名前を言われて驚いた。
「え、あ、っと、そそそそそそれはっ」
しまった、と言いたげなおっさんの慌てように気持ちが悪いと身を引こうとしたが、今日一番見慣れた小さな手が俺の制服を小さく引っ張った。
「ぱぱ、かつあげされたの、かたせが助けたんだよー」
「は?カツアゲ?」
ていうかお前最初からそうやって喋ってれば俺も苦労しなかったんだよ。あどけない瞳を向けてくる幼女ことかなの言葉に最近の行動を振り返ってみれば思い当たる節はあった。
「あ、あー…あの先々週の残念なおっさん…?」
確かカツアゲされて身ぐるみ剥がれそうになっていたおっさんを助けたっつーか不良が通りがかった俺に標的を変えたってだけの話だったんだが、どうやらおっさんはそれを助けられたのだと勘違いしたらしい。ちなみに昨日までの停学はこれが原因だ。
「学校側に問い合わせても片瀬くんがそんなことする筈ないの一点張りでお礼も言えず…」
まぁ、実際そうだしな。などと胸中で思っていると、残念なおっさんは礼がしたいと何度も頼み込んできた。正直それは適当にあしらって逃げることが出来たのだが、数行前を遡ってくれ。俺の制服を小さく引っ張っている手はいつの間にかまた皺が出来るぐらい握りしめられている。
この短時間で分かった。俺は、この手にとても弱い。
結局この親子とは長い付き合いになること、実は残念なおっさんこと平岡(ひらおか)さんはカツアゲの時俺に一目惚れしていた後天性ゲイであること、かなはそれを応援すべくわざわざ二駅離れた高校近くまで来て俺を探していたこと、知っていたらこの後の「夕食をご馳走させてほしい」という申し出は断っていた筈だ。
断っていた筈だと、日曜日の昼下がり、膝の上で呑気に寝るクソガキを見ながら俺は思った。
…思いたかった。
end.
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