▼ 56 軌跡
身体が、動かない。
並居る強敵を払いながら辿り着いた、クリスタルタワーの最上階と思しき広い空間。周囲に気を張りながら進んでいた、はずだったのに。
禍々しい姿を模(かたど)った邪竜の像の中心を抜け、最奥へと続く鏡のようなものに姿を映したその時。まるで神経麻痺魔法のシェイドを掛けられたかのように、手足がぴたりと時間を止めてしまった。
───罠だったのか。理解した時には既に遅く、愉快そうな笑声と共に地の底から這い出るような低く、重々しい何者かの声が響き渡った。
「その鏡に姿を映した者は五匹の魔竜の呪いに掛かるのだ」
姿は見えない。しかしこの声の主はおそらく。
「魔王…ザンデ…!!」
手足は動かずとも声を出す事と、視線を巡らせる事は出来る。先頭にいたルーネスとユウリは鏡越しに後ろを見やるが、やはり皆も同じように動きを封じられてしまっていた。
もうザンデの声は聞こえない。気配も消えた事から、この場からは去っていったようだ。襲い掛かってくる危惧は無くなった。しかしどうする。どうやってこの状況を脱すれば良いのか考えろ。
魔法と違い、呪術は時間経過で解けるものではないだろう。簡単には足を踏み入れる事が出来ない、こんな果ての地にある塔の上階で、外部からの助けを望める状況でもない。だが動けぬ以上、策を練ることも出来やしない。
…ここまで来て。辛い経験をしながら、皆の希望を繋ぎながら、やっとここまで辿り着いたのに。そこに待つ魔王との対峙すら適わず、ひたひたと歩み寄る衰弱の音色に耳を傾けなければならないというのか。
「ルーネス…」
隣から掛けられた震える声。ルーネスは鏡越しにそちらを見遣れば、目元に不安気な色を浮かべているユウリと視線が絡んだ。
「…大丈夫。きっと、何か方法が見付かるはずだ」
そうは言ったものの、どれだけ力を入れようとしても指一本すらぴくりともしてくれない。せめて、せめて誰か一人だけでも動けたのなら。そうであれば、まだ…
───しっかりしろ!!
絶望が姿を現し始めたその時だった。聞こえたのは暖かく、けれど胸を締め付けるような痛みを思い出す、懐かしい嗄(しわが)れた声。
「…ドーガ!?」
───そうじゃ、魂は不滅じゃ。
よいか、魔竜の呪いを解くのは五つの光の心だけじゃ…
わしが五つの光の心を探し出してくるまで耐えるのじゃ!
待っているのじゃ!頑張るのじゃぞ!!
ドーガの激励を受け、また心に勇気が戻る。魂は不滅とはよく言ったものだ、こちらの世界に干渉するだけの力を持っているだなんて。あるいはドーガ達だからこそ、なせる技なのだろうか。
暫し、待て。その言葉に五人が些かの緊張を解いた所で、ドーガは予め目星を付けていた“光”の心を持つ者達の所へとその魂を飛ばした。
最初に向かったのはサスーン城。ここには光の戦士の一人、イングズと強い絆で結ばれた姫君がいるはずだ。必ずや力になってくれるだろう。確信に近いそれを感じ、ドーガは魔力で生前の姿を象ると姫の御前へ赴いた。
「イングズ達が危ないのだ!サラ姫、わしと一緒に来てくれ。魔竜の呪いを解けるのは光溢れる心のみ…そなたの力が必要なのじゃ!」
「イングズが!?行きます!連れて行って下さい!!」
何とも勇敢な姫君だ。臆せず二つ返事で同行を願い出てくれるとは、さすが一人でジンの驚異からサスーン城の危機を救おうとしただけある。
サラ姫を連れ、そのまま転移魔法でカナーンへと降り立った。ここには飛空艇技師であり、下の世界が闇に包まれた時に光の戦士達を命懸けで救い出してくれた、シドがいる。彼ならばきっと。
「シド、力を貸してくれぬか?」
自宅で妻の手作り菓子と共にお茶を楽しんでいたシドは、前触れも無く現れたドーガの姿を見て驚愕した様子だったが、事情を聞くやいなや瞳を閉じ、懐かしみながら言葉を紡ぐ。
「ルーネスらの為なら、どこへでも行くぞ!彼らは絶望を突き付けられたわしに光をくれた…出来る事はなんでもしてやりたい。連れて行ってくれ!」
妻の方からも「行ってあげて下さい」と。シドはその言葉に強く頷き、立ち上がった。
同じく浮遊大陸に位置するオーエンの塔。かつて程ではないにしろ、轟々と唸る炎。人の気配が無いそれに、一抹の不安が胸をざわつかせる。ここは一時期、光の戦士達と同行していた古代人の生き残りが離脱した場所だ。彼の安否は未だに確認されていなかった。
「デッシュ…よもやお主は…」
死んで、しまったのか。最悪の事態が脳裏を過ぎる。
消えてしまって時間の経った命の灯火は、蘇生魔法でも呼び戻す事は出来ない。しかし何としてでも、今は彼の力を必要としている。なんとかならぬものか…しかし奇跡は起こるものだ。ドーガの心配を他所に、程なくして煤で汚れた姿がよく通る声と共に飛び出してきた。
「よっこらしょっと!!…お、なんだ?見た事のねえ爺さんだな。こんな場所になんか用かい?」
「デッシュ!生きていたのか!」
「何言ってんだ、俺が死ぬわけないだろ!」
なんとも頼れる言葉を発しながら服に付着した汚れを払い、所々焼け焦げてしまったそれを見て顔を顰めたデッシュはそれでも大きな怪我をしている様子は見受けられない。
「今しがた、オーエンの塔の修理が終わった所さ。危ねえ危ねえ…全く、あと一歩遅かったらどうなっていた事か…もう少しで浮遊大陸は制御不能になっちまう所だったぜ…で、爺さんは誰なんだい?どうして俺の名前を知っている?」
「わしはドーガ。光の戦士達と共にある者。デッシュよ…一難去った所すまぬが、レフィア達が危ないのじゃ…」
塔に異常が起こった時、それを直すべく己に課せられた使命。炉の中で暴発による死を覚悟しながらも、絶対に諦める事なく使命を果たせたのは光の戦士達の存在がとてつもなく大きかった。
彼等と出会えたからここにいる。記憶を失っていたデッシュにとって、仲間と呼び、友人のように接してくれた事。このオーエンの塔へ連れて来てくれた事、突然離脱を宣言した自分を心配し、けれど送り出してくれた事。
皆に、また会いたい。自分よりも遥かに重い使命を背負う彼らの助けになりたい。その想いも、全てが力になっていたのだ。
「次から次へとトラブル続きだ…だがあいつらのピンチとあれば仕方ねえ、行ってやるぜ!!」
にっと笑ったデッシュに、つられてドーガも微笑を浮かべた。信頼を寄せる人達に、また彼等も信頼されている。繋がりが力となる。これだから人間は、強い。
下の大地へ戻り、次に向かったのは大臣ギガメスの姿に扮した怪鳥ガルーダが魔の手を伸ばしていた、サロニア城。ウネが眠りについていた祠からほど近いそこで起こっていた内戦は、新王アルスの誕生により終戦を迎えた。
王はまだ年若く、幼い。しかしその幼さゆえの柔軟性が良い方向へ作用し、国は以前よりも豊かになりつつある。五人の内、王が特に慕っていたのはアルクゥだ。年齢が近く、物腰柔らかで豊富な知識を持つアルクゥを兄のように思っていたのだろう。
「サロニアの王よ!アルクゥ達の為に、力を貸してくれんか!!」
「アルクゥが!?」
その名を耳にした瞬間、アルス王は玉座から勢いよく立ち上がり側近へと不在間の指示を出した。自国を救ってくれた恩人のため、と迅速に判断が下せるその姿に、異を唱える者は居ない。
「もちろん行きます!!」
その瞳に宿る強い光は、この先も暖かく国を包んで行くことだろう。サラ、シド、デッシュ…そしてアルス。光の戦士達が歩んで来た軌跡の上に存在する彼らもまた、光の戦士だ。
魔竜の呪いを解くための、光溢れる心を持つ者達。五人の戦士達の動きを止めたそれに対抗するには、相応の人数が必要だ。まだ足りていない。次の場所へ向かおう。
そうして降り立ったアムルの村で、自らを光の戦士だと豪語する老人達を呼び寄せると、これまでのように事情を説明した。信じる力は光となる。この老人達も例外でなく、それぞれの胸の内から溢れる光を感じるのもまた事実だった。
「頼む、誰か一人…ルーネス達を助けに来てはくれぬか?」
「あの若者達が…うむ!当然、力になるぞ!」
威勢良く、リーダー格と思しき一人が一歩前へ出て、名乗りをあげた。
「いよいよ勇者の出番じゃな!よし!わしが行こう!!」
「おお、感謝する!それでは行くと…」
「…待っとくれ!!」
不意に一人が声を上げ、原の向こうを指差した。その方角からは淡く優しい、そして清廉なる光を纏った何者かの気配を感じる。
あれは、一体。
導かれるままにそちらへ歩みを向けると、徐々に濃くなる暖かな気配。そしてそれが視界に入った瞬間。一際眩い光を纏うそれに、目を見張った。
まだ新しい、建てられたばかりの墓標。そこに高く結ばれた、勿忘草を彷彿とさせる美しい天(あま)色のリボン。
「これは…」
手を伸ばし呟いたドーガに呼応するかのように、風に遊ばれたそれが流線を描いた。
───私も 連れて行って下さい
聞こえてきた声に、ドーガは思わず振り返った。しかしそこには誰もいない。静寂に包まれたこの場所で、確かに若き女性の声がした気がするのだが。
「もしや…」
再び、視線をリボンへ向けた。光の戦士の一人…尊き心を持つユウリは、自分を庇った事で仲間を失い精神を崩しかけた事があると、ウネに聞いている。ウネは夢の世界で彼女の背を押し、またユウリ自身の想いと願いにより立ち直ったと聞いているが、その夭折してしまった少女の名は…
「水の巫女…エリア…」
結び目が、するりと解けた。ふわり、風に乗って小さく舞い上がったそれから感じる、清らかな光。聖なる祈りが込められた確かな存在を手に取ると、ドーガは天を仰いだ。
「恩に着るぞ…クリスタルの巫女よ…」
死してなお現世に干渉出来る存在は、そう多くない。おそらくだがエリアは、ドーガの存在が近くにあったからこそ光を示す事が出来たのだろう。大切な仲間…友人の、力になる事を強く望んでいる。その光を感じる事が出来るのも、声を聞く事が出来たのも、偶然が巡り合わせた奇跡だったのだろうか。
これで、打ち勝つる光が揃った。あと少し。ここまで来れた彼等ならば、必ずや成し遂げてくれる。手を貸してくれた勇気ある者達に、くれぐれも魔竜の闇に心を飲まれてくれるなと念を押し。光の戦士達、そして───かつての“友”が待つクリスタルタワー上階へと、転移魔法を唱えた。
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