▼ 54 大丈夫
天高く、雲をも突き破らん高さで聳え立つ、月光を浴びて美しく輝く水晶の塔。光を集めて造られたそれはシルクスの塔、ウネはそう呼んでいた。殆どの文献にはそう書かれているが、その名称をクリスタルタワーと呼ぶものもあった。神秘なるその姿も今や闇を操る魔王の居城となってしまっているのだから、皮肉なものだ。
静かに停泊する巨大戦艦インビンシブル。その甲板で、レフィアは一人、物思いに耽っていた。塔の方面から身の毛もよだつ程の咆哮が聞こえてきて、思わず身体を震わせた。
明日、いよいよあの塔に登るのだ。ドーガとウネが過ちを止めてくれと願った、魔王ザンデ。命を散らしてしまった二人と同じく大魔導師ノアの弟子。一体どれ程の相手なのか。今はまだ、検討もつかない。
だがドーガとウネの強大なる魔力を文字通り肌で感じたからこそ、それと同等、もしくは闇の力を手に入れた事によりそれ以上の力を以て立ち塞がるのだろうかとも、思う。
レフィアは魔力を持たない。クリスタルの力を借りれば焼け石に水程度のものは放てるだろうが、ここに来るまで常に魔法で援護してくれていたアルクゥやユウリ、イングズには到底及ばないだろう。それは旅立って間もない頃、ネプトの神殿で魔法職に挑戦してみた時に嫌でも実感させられた。
自分には魔法よりも物理で仕掛ける方が向いていると思っている。ルーネスも言っていたが、人には向き不向きというものがある以上、それは仕方のない事だ。
それは常々感じていた事ではあるし、身軽に動けるシーフという職に不満を持った事は無い。ただ時に、真っ向から魔物と対峙する事に───恐怖を感じないのかと問われたら。
答えは否、なのだ。戦闘に怪我はつきもので、傷を負う度にユウリかイングズが治癒してくれるとはいえ、肌を裂く痛みは記憶として残る。幸いにも命に関わる程の重傷を負った事は無いけれど、自分よりも前線へ向かうルーネスは遥かに深い傷を負い、痛い思いをしているだろう。
まだ記憶に新しい、この間もそうだった。ドーガのフレアを受け、抉れた傷口からおびただしい出血。それでもなお怯まない彼の姿を見て…強い、勇敢だ、そう思うのと同時。自分がその立場だったら…とも、思ってしまった。
ぶるり。魔物の咆哮が聞こえた先程とは違う震えが、襲った。考えを要約すると、ただ怖いのだ。これから挑もうとする相手は今までよりも手強いだろう。そこで己の力が通用するのか、不安を感じてしまっている。魔物の豪腕が唸れば簡単に吹っ飛ばされてしまうだろう。身体がバラバラになってしまわないか、その時また立ち上がれるのか。
そんな事ばかりを考えてしまう。もちろん仲間達の事は信頼しているし、一人でなんとかしなければならないとは思っていない。ただ、迷い無くユウリを庇ったルーネスの姿を見て。自分も彼のように、己を顧みず誰かを守る事が出来るのだろうか、と。少しばかり自信を失ってしまっただけだ。
「眠れないの?」
びくり、肩が跳ねた。反射的に振り返ると、ランプの灯りを頼りにこちらへ歩み寄って来るアルクゥの姿が見えて安堵する。
「ごめんね、驚かせちゃって」
「アルクゥ…ううん。大丈夫」
アルクゥは特に気配を消していたわけではない。甲板へ続く扉が開く音もしたはずだ。それに気が付かない程、考え込んでしまっていたのかと、レフィアは視線を落とした。
「…皆は?」
「もう休んでるんじゃないかな」
「そう…」
今みたいに思い悩んでしまうのは自分だけ、という事か。皆は強い心の持ち主で羨ましい。普段は強がっていても、肝心なところで弱気になってしまう自分が嫌になる。
「アルクゥは、どうしてここに?」
「…ちょっと、風に当たりたくて」
少し困ったように微笑いながら隣に並ぶと、眼前の塔を見上げた。綺麗だね、そう呟かれた言葉に相槌を打つと、レフィアは手を掛けていた柵から身を起こす。
「いない方が良いかしら?」
風に当たりたいと言うのなら、一人で何か考え事をしたいという意味なのだろうか。そう思い踵を返そうとしたところで、アルクゥはかぶりを振り、優しくレフィアの腕を取った。
「少し、一緒に居てくれないかな」
無理にとは言わないけれど。苦笑しながらそう続けられた言葉に、断る理由も無く。一人では不安で押し潰されそうになっていた今、隣に彼が居てくれた方が安心するし、何より気が紛れる。
再び柵に手を掛けるレフィアを見て、付き合ってくれるのか、と。そう受け止めたアルクゥはそっと手を離すと、ぽつりと言葉を零した。
「僕達、ついにここまで来たんだね」
「浮遊大陸を出てからここまで来るのに…色々な事があったわよね」
「うん、本当に色んな事があった。浮遊大陸に居た時も、下の世界に来てからも…」
多くの出会いと別れ。その全てが美しいものとは、とてもじゃないが言えなかった。アムルの元気な爺達やサロニアでのアルス王子など、笑顔で惜別を告げたものもある。
だがつい最近の別れである大魔導師ドーガやウネ、浮遊大陸を脱してから初めて行動を共にした、水の巫女エリアとの別れ。生死不明ではあるが、オーエンの塔で炎の中に身を投じた古代人の末裔デッシュ。それらは悲しみと共に乗り越えなければならなかった試練。
いなくなってしまった、人達。残酷で儚い、光を未来へと繋げるための犠牲。
「辛い事もたくさんあった。それでも…僕はこの世界を守れるって、信じてるよ」
自分に自信を持てず、後ろ向きな思考で落ち込んでいた彼の姿が、遠い昔のように思えた。いつからだっただろうか。アルクゥは強くなった。アンデッドの魔物に怯えていた彼はもういない。
世界を守る。光の戦士である五人が…いや、五人と、希望を託してくれた皆の力を合わせれば、きっと出来るはずだ。レフィアもそう信じている。けれど…
「わたし…」
無意識に。隣にいるアルクゥの腕を、縋るように掴んでいた。
「…こわい、の」
小さく零された言葉。意識していないと聞き逃してしまいそうな程にか細く告げられたそれを拾い、レフィアの方へ向き直った。腕を掴む手が、声が、微かに震えている。
「皆で一緒に帰りたい。誰も欠けることなく、笑って浮遊大陸に帰りたい…」
強く、風が二人の間を吹き抜けた。靡くレフィアの美しい琥珀色をした髪を優しく押さえ、そのままあやすように撫でると、彼よりも小さい手が柵から離されもう片方の腕を握った。
「レフィア…」
怖い、と。そう告げた。今まであまり弱音を吐かなかった彼女が、泣いてしまいそうになりながら。デッシュが燃え盛る炉の中に飛び込んでしまった日の夜、傍目にも分かる程に落ち込んでいたのを覚えている。
それは大切な仲間を失ってしまった事から感じた悲しみとショックから来るものだった。エリアの時も、墓前では涙を見せてこそいたが直前のユウリがあの状態だったからこそ気丈に振る舞っていた。けれど深い悲しみをその胸に抱いていたのも知っている。
だが今回は、違う。これから起こりうる可能性、最悪の状況を思い浮かべてしまったからこその不安。皆で一緒に、その言葉だけで、何を思ってこんな夜更けにたった一人でここに居たのか、理解出来た。
けれどそれは、アルクゥも同じだった。眠ろうと目を閉じても、浮かぶのはまだ見ぬ魔王への不安と、言い知れぬ焦燥。果たして自分には対抗出来るだけの力が備わっているのだろうか。上手く的確な判断を下す事が出来るのだろうか。
部屋に居てはそればかりが浮かんでしまう。ルーネスかイングズの元へ行こうかとも考えたが、明日に備え休んでいる可能性もある以上それは憚られた。だから少しだけ、風に当たって冷静になろうと甲板に出たのだ。
そこには同じように、漠然とした不安と戦うレフィアの姿。胸中を知らされるまでは何を思っているのかまでは分からなかったが、こうして話してくれた今。
自分だけではない、と。不安に思う気持ちは同じなのだ、と。安心感を覚えたのもまた事実で。
「大丈夫」
俯き震える彼女に対して───この子を、守りたい。なぜだかそう強く思い、気が付いた時には柔らかい身体を引き寄せ自らの腕の中に抱き竦めていた。
「…僕も同じ。魔王の居城に挑むのだから、誰だって怖いと思って当たり前だよ」
力が足りるのか、守れるのか、成し遂げられるのか。皆で一緒に戻りたいと、そう思うのも、全て。
「今までだって、何度も嫌だと思った。痛いのも、怖いのも、失ってしまう事も全部。でも…その度に、仲間がいるから頑張ろうって。皆で帰りたいから頑張ろうって…」
抱きしめる腕に力が籠もった。伝わる体温から安らぎを感じる。こんなにも尊く、あたたかい存在。ああ、そうか、だから頑張れる。世界中に溢れるこの温もりを…
「…守りたいから。助けてくれた人達の思いも、仲間達の事も…一人では出来なくても、皆がいる」
だから、大丈夫。不安や恐怖は共有して、一緒に溶かしていこう?そう、自身にも言い聞かせるように続けられた言葉はどこまでも優しく、レフィアの胸の中へ広がっていった。
ありがとう、と。アルクゥの腕の中で、ひどく穏やかな声が零されたのと同時。顔を上げたレフィアはとても、とても綺麗な笑顔で───
「…あなたの優しい所、わたし…大好きよ」
「───………、」
息を飲み、思わず魅入ってしまった。彼女は仲間として大好きなのだと言っただけで、それに他意はないのだと、そう分かってはいても。
…心の中に、言い表せない感情が芽生えた気が、した。芽生えた?いや、それは違うかもしれない。もしかしたら…
「…アルクゥ」
「え、あ…ん、うん?なに?」
「背…伸びたね」
「…え?」
穏やかな声はそのままに、見上げてくるレフィアの顔は…確かに、以前よりも低い位置にあるような気がする。
以前、ああそうだ、前にもこうやって、落ち込む彼女を抱きしめた事があった。ルーネスがいつもユウリにしているように、落ち着く方法を…自分にも出来るのだろうか、と。試したと言っては言葉が悪いが、行動に移した事がある。
結果的に彼女は、嫌じゃない、落ち着くと、そう伝えてくれて。その言葉を嬉しいと感じたのは、自分も誰かに頼ってもらう事が出来たと思えたのもそうだが、その温もりを守る事が出来た、というのもあったのかもしれない。
その時からだっただろうか、彼女の事を無意識ながら気に掛ける自分がいた。アーガス城で一緒に祝祭へ行こうと誘ったのも、レフィアの笑った顔が見たかったからだったのかもしれない。そして先程感じた、あたたかい感情。まだはっきりとは分からないけれど、それはやはり…
「前にこうしてくれた時より、目線が高くなってる。自分では分からないわよね」
「そう、かな…そうかも…?」
くすくすと、あどけない少女のように微笑うレフィアの表情は、先程まで浮かべていた不安の色を消し和らいでいた。そういえば、今回も自然と受け入れてくれたな。むしろ向こうからも背に腕を回してくれたような…
意識してしまったからか、顔が熱を持つ。いや、顔だけではなく全身が熱い。風に吹かれ冷えた身体には丁度良いが、レフィアに伝わっていないか気が気じゃない。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど…」
でも、そんなのはどうだっていい。後悔だけはしたくないから、今ここで、自分に出来る事を。彼女の不安をもっと和らげる事が出来るのならば。一人で抱え込まず、頼って、寄り掛かってもらう事が出来るのならば。
「君も…君を、守れるように。頑張るよ」
そう伝えたのは、心の底から思った事だった。大きい瞳が零れ落ちんばかりに見開かれ、そして───彼女はまた、あの綺麗な笑顔で嬉しそうに微笑んだ。
「アルクゥ…ありがとう」
故郷に帰れば友人がいる。面倒を見てくれた大人がいる。…たとえ血が繋がっていなくとも、“家族”がいる。旅先で出会った人達、光を願う者達。
その皆に、自分達が経験してたような深い悲しみを受けさせるなんて、そんな事は…そんな思いなんて、誰にもしてほしくないから。だから、何が何でも一緒に帰るのだ。
「身体、冷えちゃうね。どうしようか、そろそろ戻る?」
「…もう少し、こうしていてほしいって言ったら…怒る?」
「…怒るわけないよ。僕で良かったら、お望みのままに」
緩めていた腕に、再度優しく力を込めた。只々感情を共有しているだけの抱擁。マイナスな思考はそのあたたかさに溶かされ混ざり合って、形を変え力になっていく。
“頑張れ”
“負けないで”
“頼んだよ”
それは思い違いだったのかもしれない。けれど確かに、目の前で失ってしまった光が、希望を繋いでくれた皆の声が、心の中から聞こえてきたような…そんな気がした。
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