▼ 43 名を呼ぶ声、ひとすじの光
どれだけ足掻こうが、過ぎた現実を変える事は出来ない。だからこそもう二度と、同じ過ちを繰り返さないように、これから先の事を見据えるのだ。
深い深い、水の底。暗くて、寒くて、寂しくて。感覚は無い筈なのに身体は冷たく、色々なものが奪われていくのが分かって。凄く───怖かった。
ユウリが目を覚ますまで、あれからそう長くは掛からなかった。水底からゆっくりと浮上してゆく意識が現実なのだと認識した時、一番最初に聞こえてきたのは何度も自分を呼んでくれていた、優しい声。
ああ、帰って来られたのだと。安堵から浮かべた微笑みと、じんわりと熱を共有する手。そこから伝わる命の暖かさは、生を感じるのに充分の意味を持っていた。
「…ルーネス、」
掠れて出しづらい声に少し違和感を覚えたが、すぐ傍で手を握ってくれている彼の憔悴した様子を見て、薄っすらとだが察した。あの時から、おそらく結構な時間が経っている。深い眠りについている時、聞こえたこちらの名を呼ぶ声は彼のものだったが、こちらが必死に呼び続けたのもまた彼の名だった。
「ユウリ…」
泣き笑いのような表情を浮かべた彼の右手が伸ばされ、優しく頭を撫でられる。繋がれたままの左手。心地好いその温もり。
「…私、どれくらい眠っていたの?」
「十日間くらい、かな」
「十日…そんなに…」
まだ頭がぼうっとする。身体中が痛いし、関節も動かしづらい。それもそのはずだ。十日間ずっと意識を水底に沈めたままで、床に根が生えてしまったのかと思う程ぎしりと軋む。
ああ、それよりも、すぐ傍にいる彼を安心させてあげたい。私はここにいるよ。戻ってきたよ。そう伝えたいのに、身体を起こそうとした瞬間にくらりと揺れた視界がそれを遮る。
「大丈夫か?」
「うん…ごめんね、ありがとう…」
支えてもらいながらゆっくりと半身を起こし、少しだけ息をついた。ここは、どこだろうか。水のクリスタルに光が戻り、目の前で大切な人を亡くし、洞窟の崩落に巻き込まれたところまでは覚えている。
軽く周囲を見渡してみても、覚えのある場所ではない事はすぐに分かった。だがいくつかある整えられたベッドに、見慣れぬ調度品。どこかの宿にいるのだという事は理解出来た。
鮮やかな色のついた世界。時は、その歯車を再び回して動き出してくれた。エリアの祈りが届いたのだ。
良かった。彼女の意思と覚悟が無駄にならなくて。多くの人を光の元へ救い出す事が出来て、本当に。
まだまだ、全ての驚異から守れているわけではないけれど。それでも、沈んだ大地を復活させる事が出来たのは、またひとつ未来へと希望が繋がったという事だろう。
繋がれたままの手に、そっと力を込めた。確かに感じる、温もり。やんわりと握り返されたそれがとても嬉しくて。
「一人じゃなくて、良かった…」
思わず呟いてしまった言葉には、夢の中にいた時に感じていた孤独を。失う事を恐れた色を、滲ませていた。
はっと息を飲むように瞳を揺らしたルーネスは、一体いつから傍で手を握って居てくれたのだろうか。名前を呼び続けてくれていたのだろうか。
「ずっと、傍に居てくれていたんだよね?ルーネス、ありがとう」
ガタン、木で作られた椅子が音を立てたのと同時。柔らかく温かいユウリの身体は、強く腕の中に引き込まれた。
少し痩せてしまった身体はそれでも力強く命の音を響かせ、安心を与えてくれた。迷いなくふわりと背に回された腕は、夢の中のように、ルーネスを求めているかのように縋る。
エリアを失ってしまった事は、これからもふとした時に心を大きく揺さぶるだろう。忘れろという方が無理な話なのだから、それはその時どきに落ち着かせていけば良い。エリアの生きた証を胸に刻み付けながら、彼女の事を思えば良い。
ルーネスは、ユウリがその瞳を再び開いてくれて本当に良かったと、喜びを噛み締めた。以前のような微笑みを浮かべ、自分の名を呼んでくれる。
それがこんなにも、嬉しいと感じるなんて。ユウリが目を覚まさないこの数日間、いかに不安と焦燥に苛まれていたのかが、嫌でも実感させられた。
「…夢の中でね、何度もルーネスの事を呼んだの。怖いよ、寂しいよ、助けて、って。泣きながら呼んでたよ」
私、本当にルーネスがいないと駄目みたいだね。少し困ったように微笑って付け足されたその言葉は、自分に対する呆れと、彼に対する絶対的な好意と信頼感を、深く滲ませていた。
それは愛する者を失う事を心の底から恐れた今、ユウリが居ないと生きていけないかもしれないとすら思ったルーネスの方こそ感じた事だ。
どれだけ。どれだけ、目覚める瞬間を待ち侘びた事か。無意識下で、抱き寄せた腕に力が籠もる。離れないで、と涙声で懇願されるが、元よりまだ抱擁を解くつもりなどさらさら無い。
「…ユウリの気が済むまで、何度だって、いつまでだってこうしてるから」
オレはここに居るから。不安に思う事は何も無いよ。優しい色の含まれた声で告げられたルーネスの言葉に、ユウリの涙腺が更に刺激された。
「それだと、一生かかっても気が済まないかもしれないよ?」
「それでもいい。一生かかるなら、一生傍に居るよ」
子供が交わすような、軽い口約束のように捉えられていたかもしれない。けれど、この言葉に偽りはない。ずっと、傍にいる、と。それは紛れもない本心で、強く想う願望なのだから。
「あのね、私…」
ぽつりと、ユウリが口を開いた。
「…私、本当に…一生、ルーネスの傍に居たいなぁ…」
今にも泣き出してしまいそうな、震える声。将来の約束のような言葉に、ぎゅっと込められた腕の力に、流れ込んでくるような想いに。どうしようもなく、愛おしさを覚えて。
───本当に、もう。大好きだなんて言葉では、到底表せない程に、君を。
「…ああ。ずっと、離さない」
君が居ない世界なんて考えられない。考えたくもない。だから、どうか。もう二度と、今回のような事は起こらないで。
ずっと、ずっと───いつまでも、傍に居て。隣で笑っていて欲しい。幸せだと、そう感じていて欲しい。
ただそれだけ。たったそれだけの、願い。けれど本当の意味で願いが叶うのは───約束を守れるのは、いつになるのだろうか。
守ると誓った。その言葉に偽りは一切無い。しかし全てから守り切るには力不足なのだと、今回の件で思い知らされた。ならばどうする。いや、だが、それでも。
…それでも、思い描く未来の為に。いつだって、抱く想いは変わらないのだから。
「…次は必ず守る。絶対に、ユウリを一人にはさせないから」
「うん、ありがとう。私も、皆を…ルーネスを守れるように、強くなるね?」
「はは、頼りにしてるぞ?」
「ふふ、うん!」
音もなく忍び寄る闇を澄んだ光で照らし、希望に溢れた平和な日常。それを取り戻す為だったら、どんな危険な所にだって向かう覚悟は出来ている。
迷いは剣を鈍くする。いつかデッシュに言われた言葉だ。記憶を無くした彼が持つ使命は決して易しいものではなかったが、オーエンの塔で決断した時の、迷い無き姿。覚悟を貫く、揺るぎなき意思。
そうして守るべきものを守り抜く、お手本のような兄貴分の言葉を胸に刻み付け、己の胸に誓いの決意を立てる。揺るぎなき、光の意思。
「皆で守ろう。エリアが託した、この世界を」
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