▼ 42 絶望の淵
「ユウリはまだ、目覚めないのか…」
ぱち、ぱちと暖炉の薪が時折爆ぜる音を聞きながら、視線を上げずイングズが静かに口を開いた。
時間を止められていた世界の歯車が水の巫女と光の戦士達によって動き出し、海の底に沈んでいた大陸が復活したのは七日と少し前の話だ。
五人がアムルと呼ばれる村の人間に救助されてから数日。アルクゥ、レフィア、イングズの三人は間もなく意識を取り戻したが、肉体的に相当な負担が掛かっていたであろうルーネスが目覚めたのは、更に三日も経った頃であった。
しかし底を尽きかけ、尚も絞り出すかのように膨大な精神力を使ったユウリが目覚める気配は未だ、無い。心に深く負ったダメージも関係しているのであろう。
無論、それは皆同じなのだが。特にユウリは、件の水の巫女と好い関係を築いていたのだ。彼女を目の前で、何よりも自分を庇った事で失ってしまったという事実が、鋭い刃となってユウリの心を傷付けた。
「このまま目を覚まさなかったらどうしよう…」
泣きそうな声でレフィアが呟く。少し前にユウリの部屋へ行った彼女は、まるで眠り姫のように目を覚ます様子のないユウリを見て落胆しながら戻ってきた。
空っぽになってしまった魔力や精神力は、ゆっくり身体を休めれば自然と回復する。体力もそうだ。大抵は休めば回復する。現に四人は目を覚ました。けれどユウリだけが、未だに意識を取り戻さないのには理由があるとしか思えない。
その理由というのは先に挙げた、水の巫女エリアの死。それに至るまでの過程。心に負った深い傷。
体力でも魔力でも精神力でもない。それは彼女自身が乗り越えるしかない試練なのだろうか。何か、別の手立てで解決する事は出来ないのだろうか。
「僕が様子を見てきます。ユウリもそうだけど、ルーネスの方も心配だから」
ルーネスは目を覚ましてからずっと、ユウリの傍で看病を続けている。病み上がりという表現が適切なのかは分からないが、まだ体調も万全ではないはずなのに。
放っておいたら自分も倒れるまで見守り続けるかもしれない。それはさすがに幼なじみとして見過ごす事は出来ない。アルクゥはユウリの事は勿論だが、ルーネスの事も気掛かりなのだ。
「…ルーネス」
寝台に横たわるユウリの手を握り、祈るように目を閉じているルーネスもまた、回復したのはごく最近の事だ。
「僕が交代するね。ルーネスもそろそろ休まないと身体がもたないよ」
「ああ、でも…」
やはりと言うべきか、いつ目覚めるか分からないユウリが心配で傍を離れたくないのだろう。
「ユウリが目を覚ました時にルーネスが体調を崩していたら、確実に心配するし、自分のせいだと思ってしまうかもしれないよ?」
「そ、れは…」
少し狡かったか。だがこうでも言わないと、ルーネスはアルクゥの言う事を聞いてはくれないだろう。
…本当に、この二人は。相手の事を想うのは良い事だが、毎回限界を超えていたらいつか自分の身体を壊してしまう事に気付いて欲しい。
「ほら、少しでいいから。仮眠しておいでよ。ね?」
「…分かった。アルクゥ、ユウリを頼む」
「うん」
ルーネスからユウリの看病を交代したアルクゥは、ベッドサイドの椅子に腰掛け、彼女の手をゆるく握った。
自分やルーネスとは違う、小さい手。この手で抱え込むにはあまりにも辛い出来事。それならばその悲しみを、苦しみを、こちらへ分けてもらえたらいいのに。
エリアを失ってしまった事は勿論悲しい。しかしユウリが感じているのは、それだけではないのだ。
「ユウリ…人にはね、運命というものがあるんだ。その時が来たらこうなる、というのが予め決まってる。未来予知が出来れば変えられるのかもしれないけれど、そんな力を持っている人なんて存在しないかもしれない。だから…」
エリアのとった行動も、それ故に命の灯が消えてしまった事実も、全ては。
「本当に、ユウリのせいじゃないんだよ。だからこれ以上、自分を追い込まないで…」
お願いだから。早く、戻ってきて。ユウリの笑った顔を見る事が、アルクゥの楽しみでもあり幸せな日常なのだから。
特別な感情が全く無いかと問われたら、答えはノーだ。妹のように思ってきたユウリだから、その感情は家族に対する愛情みたいなものなのかもしれない。
ユウリは一人の女性として、とても可愛らしいとは思う。だからといって、恋仲になりたいかと問われたら、それはまた少し違うような気もする。
妹のような存在のユウリ。幼なじみの彼女はいつか誰か───このままであればまず間違いなくルーネスなのだが───と恋に落ちて、そして結ばれるのだろう。
自分がユウリから幸せを貰っているように、ユウリも相手に幸せを貰えるのならば、喜んでそれを祝福したい。そう思えるという事は、おそらく恋愛感情とは違うのだ。家族愛。やはりそれが、一番当てはまっているように思える。
「ユウリ」
名前を呼びながら、そっと髪を撫でる。暖かい、けれど反応のないそれにアルクゥは表情に哀しい陰を落とした。
「ユウリ…」
皆、心配しているよ。目を覚ますのを、ずっと待っているよ。君の心を縛っている鎖が解けるのを、願っているよ。アルクゥの祈りは、ユウリに届いているのだろうか。
僕はいつだってユウリの味方だよ。呟いた言葉が聞こえていたのかは分からない。けれど、表情が僅かに和らいだように見えたのはきっと気のせいではない、と。
アルクゥが見えない闇の中に希望を抱いた時、ルーネスは別室で頭を悩ませていた。
ユウリが目を覚まさないのは、自分のせいかもしれない。
クラーケンを撃破する少し前、癒しの光が強く送り届けられてくるのを感じた。それはとても暖かで心地好く、傷だけではなく心まで洗われていくような、包み込むような優しい光だった。
ユウリと共に癒しの光を送ってくれたエリアが命を削ってまで願っている事が伝わってくるようで、優しくも儚い彼女の最期を思うと胸が張り裂けそうに痛む。
同時にユウリが負った傷は計り知れないものだと。すぐに分かった。心が不安定になってしまった上に、限界を超えて精神力を使っていたのだ。
その、精神力を使わせていたのは、自分だ。回復魔法を掛け続けてくれ、と。そう頼んでしまったから。
それは違う、クラーケンを倒すにはルーネスの力が不可欠だった、あれは最善の策なのだ。そう言われてしまうかもしれない。
けれど負担を掛けた事は紛れもない事実。他の方法を取っていれば、違う状況を作れたのではないか、と。ルーネスは、そう考えてしまったのだ。
不用意にクリスタルへ近付かなければ。もっと周囲を警戒していれば。ユウリの手を引いていれば。しっかり、守れていれば…エリアは、矢を受ける事もなかったかもしれないのに。エリアは自分を責めるような事はしてほしくないだろうと、ユウリの心が揺らいでしまったあの時に思ったのは本心だ。
けれど後悔ばかりが浮かび、心を痛めつける。守りたいと、そう願ったユウリを追い込んだ原因の一端が自分にあるかもしれないだなんて、思いたくもない。けれど、事実はそう甘くない。
アルクゥに少し休めと言われたが、一人になると考えがぐるぐると回り、余計にルーネスを疲れさせた。
ベッドへ横になり目を瞑ると、自分に笑いかけてくれるユウリの姿が思い出される。ルーネス、と呼んでくれる声、向けられる眼差し、くるくると変わる表情。そのどれもが愛しかった。
「ユウリ…」
名前を呼んでみても、自分一人しかいない部屋。返答は勿論、無い。両目の上に片腕を乗せると、その重みが妙に心地好かった。
守ると、誓ったはずだったのに。魔物から、災厄から、あらゆる痛みから。心の底から大切で、愛おしい彼女を。自分の手で、守りたかった。
こんなに悔しい思いをしたのは今が初めてだ。不注意にも似たほんの少しの油断。彼女の傷を庇えなかった事は、ルーネスの心をも傷付けていた。
否、自己嫌悪に苛まれていると言った方が正しいか。彼がそこまで思い詰める要素など無いと、誰もが言うだろう。それでもルーネスは、思う。大切だからこそ、辛い思いをしてほしくないのだと。
この状況になって、強く思う。少しでも、傍に居たい。触れていたい。抱きしめて、暖かさを。安堵を───愛おしさを、感じたい。
当たり前になっていたのだ。ユウリが隣にいる事が。いつでも一緒に過ごし、歳を重ねてきた。今までも、これからも、ずっと。ずっと、その当たり前が続くのだと、思い込んでいた。
しかし今、隣にユウリは居ない。日常を失う事が、こんなに恐ろしい事だったとは。考えた事が全く無いわけではないが、いざ直面するとあまりの恐怖に竦んでしまいそうだ。
同時に、心は認めた。ユウリの事を、自分で思っている以上に。もう、どうしようもない程に、愛しているのだと。
危険な旅の途中、何かあってはいけないと、ひたすらに押し殺し続けていた自身の想い。…いや、押し殺していたのは言葉だけか。心に嘘はついていなかった。触れて、抱きしめて、キスをして、どうにかして伝わるようにしていたではないか。
こんなにもユウリの事を想い、考え、全てから守りたいと思っていた気持ちの先にある答えなんて、一度だけと唇を重ねたあの夜から───いや、それ以前から気付いていた。恋心はとっくに、全てを認めていたというのに。
きっとユウリは、こんな風に悩み自己嫌悪するルーネスの事を放っておかないだろう。あなたのせいじゃないよ、と。ルーネスと全く同じ言葉を掛けながら微笑みかけてくれるのが想像できる。なのにうじうじと悩んでしまっては、本当に守りたいものも守れなくなってしまうではないか。そんなのは絶対に、嫌だ。過去には戻れないのなら、これからの未来は同じ過ちを繰り返さないようにすれば良い。
思い至った考えに、少しだけ心が軽くなった気がする。一人にさせ、考える時間を与えてくれたアルクゥに感謝しないといけないな。思いながら拳を握ろうとしてみるが、力は上手く入らなかった。どうやら指を動かすのも億劫だと感じてしまう程に、身体は限界らしい。
すう、と意識が遠退いていくのが分かった。少しだけ眠ろう。そして起きたらすぐにユウリの元へ行こう。
今は大事な旅の途中。想いを口に出して伝える事は出来ないけれど、それでもユウリを愛しいと想う気持ちは変わらないのだから。
眠り姫の瞳が開いたら、思いきりこの腕に抱きしめたい。そうして言うのだ、ありったけの想いを込めて。おかえり、次は絶対に君を───
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