▼ 41 許されざる者
一瞬の間に起きた事がスローモーションに見えた。からんと転がる杖。突き飛ばされた身体を起こす間もなく、視界に入ってきた現実はあまりにも信じ難く残酷で。
何故、どうして。つい先程まで談笑しながら隣を歩き、光が戻ったら一緒にウルの村を散歩しようと約束していたではないか。なのに何故、どうして───こんな事に、なってしまったのだろうか。
純白の祈祷衣を鮮血に染めて倒れゆく彼女は、その身を呈して光の戦士を、希望を、ユウリを庇って。
「いやぁぁぁ!エリア…!エリアーっ!!」
ユウリの悲痛な叫びが響き渡った。崩れ落ちるエリアの身体を咄嗟に抱き留めたルーネスが必死に呼び掛けるも、エリアが負った傷は相当に深いのか苦痛に顔を歪ませている。
「大丈夫か、エリア!?しっかりしろ!!」
「エリア!!お願い返事をして!!」
体勢を直し駆け寄ったユウリもエリアの顔を覗き込むが、患部───矢を放たれた傷口の周囲に広がる赤と比例するように生気の色を失っていく。一気に押し寄せてくる、不安。恐怖。
柔肌を深く抉るこの矢は構造上、無理に抜こうとすると傷口を広げてしまう危険性がある故に下手な事は出来ない。杖を手繰り寄せ、治癒魔法を詠唱し流れ出る赤を止めようとするが、呪術を込められているのか中々止まってくれない。しかしなんとか応急処置だけは施せただろうか。
少し、ほんの少しだけ。出血の勢いを緩められた事に安心したのも束の間、戦闘態勢に入り辺りを警戒していたアルクゥ、レフィア、イングズの三人から放たれた殺気を感じ顔を上げた。
「光の戦士すら消し去る呪いの矢を避けるとは運の良いやつよ」
ゆらり、姿を現したその者はにたりと笑い、ゆったりとした足取りでこちらへ向かってくる。片方の手には弓。そしてもう片方には魔力から生成されたと思しき禍々しい邪気を纏う、矢。
瞬間、悟った。これはただの飛び道具ではない。生命そのものを侵食し削り取る、強力な呪いを込められた矢だ。治癒魔法など気休めにしかならないのかもしれない。その矢で、彼女を。大切な友人の、エリアを貫いたというのか。
「許せない…!!」
「ほう…本来ならばお前に向けられた矢を、そやつが勝手に庇って受けたのだ。恨むのなら突き飛ばされた間抜けな自分を恨むんだな」
愉快そうに言い放たれたその言葉に、怒りで身体が震える。感情の昂ぶりから涙が零れそうになりながらも立ち上がろうとしたが、ルーネスがユウリの腕を引きそれを制する。
感情の勢いそのままに向かっていっては精細を欠くだけだ。止められた事にユウリは若干の戸惑いを覚えたが、ルーネスの行動の意味も理解出来る。迂闊に相手の懐へ飛び込んで行っては、もしも罠が張られていた場合、返り討ちに遭ってしまう。
光の戦士の存在を知っているという事は、闇の世界の者なのだろうか。この世界を封印した手の者か。
「お前は何者だ」
鋭い眼光でイングズが問う。すぐ傍で静かに臨戦態勢に入っているアルクゥもレフィアも、その眼には激しい怒りが宿っていた。
皆同じだ。大切な仲間を傷付けられて許せない気持ち、その勢いのままに飛び掛かろうとするのを我慢している。この状況に黙っていられるほど臆病者ではない。
「俺はクリスタルの光を奪うためザンデ様につかわされたクラーケン!死ねい!!」
軟体動物の姿を彷彿とさせる、何本も生えた長い足を操り攻撃態勢に入ったクラーケンが、すぐにでも仕掛けようとしている。それぞれも武器を構え直しそれに備えると、傍にいたルーネスが静かに口を開いた。
「…ユウリ。オレに、回復魔法を掛け続けてくれないか」
その視線の先。矢を放った魔物は不適な笑みを浮かべている。
かちり、ルーネスの両の手に握られた剣が音を立てた。構えるその双眸には、燃え上がるような怒りが宿っている。
「あいつは…あいつだけは、オレが絶対に、何があっても必ず倒すから」
しかしこちらを振り返った彼は、ユウリを安心させてくれる、いつもの優しさを湛えた瞳で。ああ、対象が違うだけでこんなにも───こんなにも、人は強くなれるのかと。立ち向かう強さを。必ず、と。己を、仲間を信じる強さを。
「負担、かなり掛けちまうかもしれないけど…」
「ううん、大丈夫。分かった。私の、ありったけの精神力を込めるから。…エリア、少しだけ待っていてね」
詠唱体勢に入ったユウリは、深呼吸を一つ。集中させた精神を乱さぬよう、ゆっくりと魔法の羅列を紡いだ。淡い光がユウリの手を、ルーネスの身体を包む。これなら多少の傷は負っても瞬時に塞がってくれるだろう。
両の手に剣を二振り。恐れず敵の懐へ飛び込み、迷いなく、目にも留まらぬ速さで繰り出されるその双剣の一閃は、いつか見た本の英雄の姿を彷彿とさせた。
かつて世界を救ったとされる、二刀流を操りしその英雄────駆ける戦士ツインソード。覇王、そう呼ばれていた彼とルーネスが、重なった。やはり世界を救うのは。光の戦士たちの中でも一際強く眩い輝きを纏った、ルーネスなのだろう、と。そう思わずにはいられない。
前衛のルーネスは剣で斬り伏せ、イングズは状況に応じて剣と魔法を使い分けている。間合いが取れるイングズは、比較的ダメージが少ない。黒、白の両属性を使える彼は傷を自分で癒す事が可能だ。
アルクゥは主に黒の魔法で後方から攻撃、時にはアイテムを使い前衛の二人をサポートしている。クラーケンからは十分な距離を保てている。
接近戦に持ち込んでいるルーネスの方は、当然クラーケンからの猛攻を正面から受ける事になる。ユウリの治癒魔法のお陰か、幸いまだダメージが蓄積されていないようだが、深く刻まれた傷は癒えるのに時間が掛かってしまう。
レフィアもシーフの職故に接近戦型だが、素早い身のこなしと、ルーネスがクラーケンの気を引きつけているお陰でターゲットにはされていない。それでも届いてくる攻撃で受けた傷は、近くにいるイングズが治癒しているようだ。
薄暗い洞窟の最深部で繰り広がる戦闘を開始して、どのくらい時間が経過したのだろうか。ユウリの額にはじわりと汗が滲み、息が上がり始めている。それは白魔法の詠唱に必要な精神力が限界に近付いているサインだった。
アルクゥの魔力も、イングズの魔力精神力も、レフィアの素早さも。全てが次第に鈍くなっていく。クラーケンのリーチの長い脚に薙払われ、続けざまに放たれる中級氷魔法のブリザラによるダメージも防ぎきれていない。
そして真っ向から攻撃を受け続けているルーネスも、徐々に体力が奪われているのが分かる。新たに付けられた生傷が癒えきっていないのだ。滴る血が痛々しく、双剣を握り直す際に時折拭う仕草が見える。
このままでは。クラーケンが倒れるのが先か、皆の体力が、ユウリの精神力が尽きるのが先か。最悪の結末。そこに見える絶望が脳裏を掠めた。
…いや、そんな弱気でどうする。皆を信じなければ、世界を救う事など出来るはずがないだろう。クラーケンも先程までの余裕な表情は消え、苦痛に顔を歪めている。あと少し、なんとか皆が耐えられる事が出来れば、打ち倒せるかもしれない。
肩で息をするルーネスに更なる癒しを届けようと精神力を絞り出そうとした所で聞こえた、か細い声。
「…私も…お手伝いします」
薄らと瞳を開けたエリアが半身を起こし、ユウリの手をゆるく握り返していた。
「エリア!?」
「…この戦いを終わらせるには…彼の力が、必要でしょう…そのためには…」
そうは言うものの、彼女の身体は、矢に込められた呪術の影響で、とても起き上がれる状態ではない。ましてや魔法の詠唱など、負担が掛かるような事はしない方が賢明だと誰もが思うだろう。
「エリアにそんな無理はさせられないよ、今は安静にしていて!そんな呪いは、戦闘が終わったらなんとかして浄化するから…!」
「いいえ…今ここでクラーケンを倒さなければ、また光が奪われ…世界は永遠に、時が止まったまま…」
そんな事は、水の巫女として見過ごす事は出来ない、と。残された、僅かな時間の中で出来る、精一杯の使命だ、と。
そんな事を言われてしまえば、もう彼女を止める事など出来はしなかった。その先、どうなってしまうのかが…予測出来たと、しても。
「さあ…私の、力を…」
「エリア…」
なんと儚く、尊いのだろうか。脆弱で、けれどとても強(したた)かな巫女。その心の内にある一本の芯は決して揺らぐ事はなく、その中から紡ぎ出される癒しの光は優しい旋律となって奏でられた。
クラーケンの触手を剣で弾き間合いを取ったルーネスも、ユウリのものとは違う光に気付いたようだ。ちらりとこちらを見、一瞬驚愕したような、戸惑ったような表情を見せたが、エリアの強い眼差しに何かを感じ取ったのだろうか。
ふ、と笑みを浮かべると小さく頷き、素早く魔物の懐へ潜り込んだ。渾身の力で打ち込まれる斬撃。アルクゥとイングズ両者から放たれる雷撃。レフィアから繰り出される連撃。そして二人から送られてくる癒しの光。
四人の、力を振り絞った集中的な猛攻。二人の、織り交ざった癒しの光。もうこれ以上戦闘を長引かせる訳にはいかないと、皆の体力が告げている。それを皆理解していた。ここで、決める。終わらせる。
そして残り少ない精神力を使い続けたエリアの体力が尽き、身体がぐらりと傾いた時。凄まじい咆哮を響かせながら、ついにクラーケンの巨体が地に伏せた。
ぴくりとも動かなくなったクラーケンの身体が灰となり崩れていく。それは今までに倒してきた要所に立ち塞がる魔物達も同じだった。同時にキン、と強く眩い光を輝かせる、水のクリスタル。これで時の封印は解けたのだろうか。
しかし今回は達成感ばかりではない。五人の心に、深く抉られ刻み付けられた生々しい傷。想像さえしていなかった残酷な結末が、残されていた。
崩れるエリアの身体を支えようとしたユウリにも、受け止めるまでの力は残っていなかった。衝撃を和らげるのが精一杯だというように、その場に膝を付く。
「エリア!エリア…!!」
「…水のクリスタルに光が戻ったのね…ありがとう…あなた達のおかげ…」
「無理に喋っちゃだめだよ、何か…何か絶対に助かる方法を見つけるから!」
「うっ…さあこれを…水の力が持つ、称号を…」
瞬間、五人の心の中にある光が急激に力強く輝いた。それは風、火のクリスタルから啓示を受けた時のように、あたたかで優しく、包み込むような輝き。
上空高く跳び急降下による強力な一撃で敵を貫く誇り高き竜騎士
敵のターゲットを集め雷属性の武器を得意とする海の覇者バイキング
自らの体力を削りながらも負の力で敵全体を斬り裂く暗黒剣技の使い手魔剣士
召喚獣を呼び出し様々な効果がランダムに発動する幻術師
操る竪琴により異なるサポート効果を発揮できる吟遊詩人
どれもがこの先に待つ困難に立ち向かう心強い力になるだろう。しかしその代償に尊い犠牲を払うだなんて、そんなのは望んでいなかった。身体を動かすのもやっとなのに、これ以上の傷はもう───
「ユウリ…本当にありがとう。とても…楽しい時間だったわ…私の事、ずっと…忘れないでいてね…」
「エリアっ…しっかりして…お願い…!!」
「いいえ、私はもう…さあ、もう行って下さい…」
「やだ…嫌だよ、エリア…」
「お願い…闇を振り払い、この世界に再び平和を………」
ふ、と。握られた手から力が抜けた。冷たい地に横たわる身体。息が、止まる。ゆっくりと閉じられたその瞳はもう二度と開くことはなく───
「エリア…嘘だよね?目を覚ましてよ…!ねぇ、エリア…!!」
古代人の村で、エリアが何かを言いかけた事を思い出した。その本当の意味はたった今、彼女本人が最期に伝えた事だったのだろう。ずっと忘れないでいて、なんて。そんなの…約束しなくても当然の事なのに。
彼女はこうなるかもしれない事を薄々感付いていたのだろうか。どうして。どうしてあの時───
「私が…ちゃんと周りを見ていれば…」
あの時に、気が緩んでいなければ。しっかりと呪いの矢を避ける事が出来ていれば。エリアが代わりにその身を差し出す事も、命を落とす事もなかったのに。
「私の、せいだ…」
「ユウリのせいじゃない」
「でもっ!!」
「違う…!」
傍で様子を見ていたルーネスが、咄嗟にユウリの身体をきつく抱き寄せた。精神的に不安定になっているのが見て取れたからだ。それもこの状況なら仕方がないだろう。特に心根の優しいユウリの事だ、そう思い至ってしまってもおかしくない。
だがエリアは自分のことを顧みず、その身を呈して守ってくれた。世界の希望を。自分の大切な、友人を。その思いを無駄には出来ない。だから自分を責めるような事はしてほしくない。それはきっと、エリアが望む事ではないからだ。
「大丈夫だから…」
ルーネスの思いが優しく掛けられたその言葉と腕から伝わったのか、次第にユウリの様子が落ち着いていく。ぎゅ、としがみつくように彼の胸へ顔を埋めると、流す事を忘れていた涙が次から次へと、堰を切ったように零れ落ちた。エリアの亡骸の傍で。ただひたすらに、悲しみを乗せて。
微かに揺れる地面。響く地鳴り。それが徐々に近付いてくるのを感じ、何が起こっているのかいち早く察知したアルクゥが焦燥の声を上げた。
「地震だ!洞窟が…っ!天井が崩れるっ!」
「皆、早くこっちへ来るんだ!テレポの魔法で脱出する!」
「ユウリ、ルーネス!エリアを連れて早く来て!!」
「ああ。…立てるか、ユウリ」
このままこの場にエリアを残しては行けないと、彼女の亡骸を抱き上げたルーネスが傍で涙を流し続けるユウリに優しく声を掛けた。
「うん…大丈夫…」
ふらつく足に力を入れ、テレポの詠唱を始めたイングズの元へ駆け寄る。デッシュがオーエンの塔最上階で地上へワープさせてくれた装置の力を今後も役立つと見て、同じ効果の魔法を古代人の村で調達しておいたのだろう。
皆の身体が魔法の光に包まれたのと同時、崩れゆく洞窟の最深部。轟く崩落の音に、どうにか繋ぎ止めていた意識がふつりと遠退いていった。
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