diamond ring(寿嶺二)
A ring to be completed because the sun overlaps with the moon.


『結婚かあ。ボクは恋人の気が無さ過ぎることで有名なんだよね〜……』
こらそこ!寂しいって言わないで!と寿さんが叫ぶ。
『名前ちゃんはどうなの? あんまりそういう浮ついた噂聞かないけど』
トーク番組だかなんだかで、俳優と女優の電撃結婚を話題にしていた。寿さんが私に話題を振った。
『そうですね、私はあんまりそういうのは……。そういう感じの雰囲気にならないんですよねどうしてか』
隣のアイドルから、少しじとっした目で見られたような気がした。残念ながら事実なんです。
寿さんを見ると、私を見ていて、それから顔をくしゃっとさせて笑った。
『そっか、あはは、じゃあさ! ぼくら2人は一生一人身貫いていこう? はいはーい! 選手宣誓!』
その言葉が、笑顔が、本当に嬉しくて、私はこの言葉を支えに1人で墓場までいこうと、思ったのだ。
「……なんて、」
私は小さくそう呟いて、テーブルの上の三角柱、期間限定メニューの写真が載ったPOPを指で小突いた。
「名前ちゃーん、おまたせー。ちょっと混んでて」
顔を上げるとトレーを持った寿さんがいた。カップが二つ、ちゃんとストローが差してあった。
はい、と寿さんが私の前に一つを置く。
「ありがとうございます」
「うん、冷たいのだけど、寒くなあい?」
大丈夫です、と言って手に持った。確かに秋口の今、少し肌寒くなっているが、ホットだとホイップが乗らないしなあと思いながらストローで少しかき混ぜた。
寿さんはダンボールのスリーブのついたカップに口をつけた。湯気が少し立っている。
「けどすっごい偶然だよね、オフの日に会うなんて、初めてじゃない?」
寿さんが言う。私はストローに口をつけて、「そうですね」と返した。
「いやー今日出かけてよかったなあ〜用事も何もなかったんだけど、家に居ても暇でね」
「いざオフになるとなにしていいかわかんないですよね」
「そうなんだよね!」
寿さんが楽しそうに言う。
他愛もない話をした。寿さんがかけていた黒縁のボストン眼鏡が、湯気でたまに曇って、寿さんが照れたように笑った。
「ご馳走様でした」
「ううん、気にしないで」
店を出てそんな会話をした。冷たい風が吹いたけれど、空は明るく陽気な日が照っている。
「ねえ、せっかくだし、このままどこか行かない?」
寿さんが言う。
「あっもしかして予定がある? それならいいんだけど」
慌てたように言う寿さんを私は見ていた。
「いや、無いですけど…………いいんですか?」
私の言葉に寿さんが「うん?」と言う。それからちょっと照れたように笑う。
「あっはは、ぼくちん世にも奇妙な1人身アイドルだからねぇ。予定なんてもうすっからかん!」
寿さんが楽しそうに笑う。
「ね、だからさ、ちょっとだけぼくに付き合ってくれない?」
下から覗き込むようにして寿さんが言う。首を傾けたことで髪が少し揺れた。
「……はい、どこ行きます?」
私は最後に笑みを作って言った。寿さんが嬉しそうに笑って、「やっりー!」と小さくガッツポーズをした。
私はその手を見つめる。
左手の中指に指輪をしていた。そんなものをしているところは、見たことが無い。休日だけ、付けるんだろうか。
「どこ行きたい? 名前ちゃんの好きなところ、お兄さんがどこでも連れてってあげるよーん♪」
寿さんはそう言って笑う。
逃げ出したいなあと思った。
そんなこと言えるはずもなく、「そうですね、」と私は思案顔をした。


あの指輪、確か月宮さんがプロモーションをしてた指輪。
シンデレラをモチーフにした有名ブランドの限定品マリッジリング。
男性用にはプラチナのボディにダイヤモンドとアイスブルーのダイヤモンドが一つずつ並んで付いている。
確か女性用には一周グルリと二つの色のダイヤモンドが交互にあしらわれていて、リングの周りを永遠に続くダイヤが2人の人生を永遠に……とかなんとか言っていたような。
男性用が45万、女性用が55万で合わせて……。
「100万…………」
「ん? 何か言った?」
大きな園内マップを前に寿さんが振り返って瞬きをする。
「い、いえなんでもないです」
「そ? ねぇ名前ちゃん何乗りたい? 初っ端から絶叫系いっちゃう?」
寿さんが子供のような顔で笑う。あははは……と私は愛想笑いを浮かべた。
100万、100万って。半端な覚悟で出せる金額じゃない。いくらアイドルで稼いでるとはいえ……。
「名前ちゃん? 大丈夫?」
はっと我に返ると寿さんが私を下から覗き込んでいた。私は慌てて下を向いていた顔を上げる。
「わっ、いや、大丈夫ですすみません!」
「そう? 具合悪かったりしたら言ってね? なーんかボクはしゃぎ過ぎちゃって、せっかくの休日にこんなとこ引っ張ってきちゃったけど……」
「いえそんな! 絶対楽しいです行きましょう! どこ行きます!?」
寿さんに気を使わせてしまった。私は慌てて取り繕って、いつもの笑顔を見せ言ってみる。
寿さんが少し笑った。なんだか大人びた顔だと思った。
「名前ちゃんは可愛いね」
寿さんの言葉に私は声を失って顔を赤くした。
「あっはは、行こっか」
寿さんは笑って、歩き出す流れで自然に私の手を取った。
私はそれを振り払うことも、握り返すこともできずにただ引かれるがまま歩きだした。
近場の遊園地は、平日でも案外賑わっていて、着ぐるみの配る風船や移動式の軽食販売、カラフルでポップな乗り物、楽しい雰囲気で溢れていた。
もう私達もいい大人で、何もない日にこんな所に来ることはない。
なんだか非日常的で、プロモーションビデオでも撮っているような気分になった。この人がいてプライベートだなんて、なんだか考えれなかった。
ふわふわしているような気分。
ふわふわ……ふわふわ…………。
「大丈夫?」
「すみません……」
私はベンチに座ったまま寿さんの差し出したカップを受け取った。
「ゴメンね、ボクがはしゃぎ過ぎちゃったから断れなかった?」
「いえそうじゃなくて! 行けると思ったんですけど……」
頭がクラクラして胸に鉛が溜まったように気持ち悪い。ああそうだそういや昨日日付が変わるまで酒を飲んだんだった。
寿さんが私の隣に座る。背中に手を添えて、私の顔を覗き込む。
「二日酔いというか……」
「飲み会だったの?」
寿さんの言葉に私は苦い顔した。寿さんが私の顔を見てぱちぱちと瞬きをする。
「……ひとり酒です」
寿さんが固まって、それから大きな声で笑った。
「あっはは! そっかそっか、休み前だもんね」
笑う寿さんに苦い顔を返して、私はカップのストローに口をつけた。
ふふふと寿さんがまだ笑っている。
「いやーそっか〜ひとり酒かあ〜」
にこにこして言う寿さんを私は少し顔をしかめて見た。
「寿さんは誰かと……」
言いかけて寿さんの左手が目に入る。誰かと。
「うーんまあね、ボクちんこう見えて寂しがりやだからさっ。ランランと呑むことが多いかな。まあ向こうはボクの事いい財布としか思ってないかもしれないけど……」
寿さんがはははと力なく笑う。
「黒崎さん……そっか黒崎さん」
繰り返したら「ん? なあに」と返ってくる。いえ、と返す。
「……でもなんかあれですね、遊園地で酒の話って、大人になったと言うか……」
「なってしまったと言うか?」
寿さんが顔を傾けてそう言う。目と目が合って、私達は一緒に笑った。
寿さんが伸びをするように腕を上げて、叫ぶ。
「もーやだねー! 時の流れっていうのは。永遠に子供でいたいのにさ!」
「ホントですよね」
「名前ちゃんももう大人かぁ。最初に会ったときはまだ十代だったもんね」
寿さんが眉の力を抜いた優しい表情で私を見た。
「なーんかお兄さん悲しいなあ」
「あはは、どういう感情ですか」
寿さんがうーんと思案顔をして、
「妹が自分の手を離れていく兄の感情?」
と笑った。
私はあははと笑った。カップの中の氷が溶けたのかジャラリと音を立てた。
「なーんて」
寿さんはそう言ってベンチから立ち上がる。
「歩ける? 今度はゆったりしたのに乗ろう?」
あ、はい、と頷いて、私も立ち上がる。まだ少し残っていたカップをゴミ箱に捨てた。
今度は、寿さんの手は私の手を取らなかった。
ガタン、と少し揺れた気がする。
「緑色でちょっと嬉しかったけど、乗り込んじゃったら関係ないねー」
観覧車のゴンドラの中は狭いからか声がよく反響した。段々高くなっていく。
窓に顔を近づけて下を覗く。乗り場がどんどん離れて行く。
「私昔から高いところ好きなんですよね。乗り放題の、腕に紙テープ巻くのあるじゃないですか、それで観覧車ばっかり乗ってたことあります」
私は自分の手首を自分の手で掴んで輪にしてみせた。寿さんが笑う。
「そうなんだ、可愛いね」
私は寿さんを見て、それからあははと誤魔化すように笑ってからまた外の景色に顔を向けた。
寿さんの可愛いには意味なんてないんだきっと。そうだだって普通に後輩と2人きりで観覧車とか乗れちゃう人だし、そうだ、後輩だ、いちいち反応してたらおかしい。
「ぼくはそうだなぁ、観覧車かあ」
寿さんも窓の外を見ていた。背もたれに背を預けたままで、窓に額を近づけて見ている私は随分子供に見えるんじゃないだろうかと思った。
「ねーちゃんがね、結構おてんばでさ。ぼくはすっごい怖がってるのにジャンプしたりしてゴンドラを揺らすの。ぼく泣いちゃって」
あははと寿さんがこっちを向いて笑う。
「暫くトラウマになっちゃって乗らなかったなあ」
「それは……可愛いですね」
私は思ったままの台詞を口にするのに少し戸惑い、変な間ができた。
寿さんが笑って、
「そうだよ? ボク子供の頃は可愛かったんだぁ」
と言う。それから力を抜いて、
「いつの間にこんなんになっちゃったんだろ」
そうおたどけたように言った。
ガタン、と大きく車体が傾いて、危うく窓に頭を打ちそうになった。
「大丈夫? 風かな、凄い揺れた」
窓の外を見るともう随分高いところに来ていた。前のゴンドラも少し揺れていて、何もない上空ではわかりにくいが風は強いらしかった。
「もう全然怖くないんですね」
私の言葉に寿さんが「ん?」と言って、それから暫く変に固まった。
私を見て、うーんとちょっと眉を下げて、結局はあははと笑った。
「しまった、怖がるフリしてそっちに座っちゃえば良かったな〜」
なーんてと寿さんが笑う。
座ります? というのは、おかしい。後輩の距離じゃない。
「またまた」なんて言いながら笑って、私はまた窓に顔を近づけた。
頂上は過ぎていた。
「そういえば、新しくレギュラー番組決まったんだって?」
「あ、はい、深夜帯の、小さい番組ですけど」
「そっか、おめでとう、お祝いしなきゃね〜今度呑みにでもいく?」
寿さんが「ランランとかも呼んで……」というので「来てくれますかね?」と返した。「絶対来るよ、タダメシだーって」と寿さんが笑って、窓に視線を向けた。
会話が絶えることはなかった。さすが寿さんというか、まあ私も静かな方ではないし、それが原因でいつも友達のまま終わるのだし、当たり前といえば当たり前で、いつも通りといえばいつも通りで。
「もう終わりか〜下りてるときの方が早いね」
寿さんの呟く通り、観覧車はまもなく乗り場地点に戻る。
乗り場には午後のブレイクタイムの時間帯のせいか、偶然誰も並んでいない。
乗り場を目前にして係員がガチャリとドアを開ける。寿さんが腰を浮かす。
「もっ、もう一周行きます!」
私は寿さんを手で制して、反対の手の人差し指を係員の人に示すように見せた。
えっ、あーはい、と係員は気の抜ける返事をして、再び扉を閉めた。
ゴンドラが再び上昇していく。
「…………ええと、」
寿さんが戸惑ったように口を割った。
「何か話したいことでもあった?」
首を傾げて優しく聞いてくれる。
私は視線を泳がせて、足を揃えて足元を見ていた。
「いや、その、そういうのは無いんですけど……」
じゃあなんでもう一周なんて、と自分で自分を責める。うわ、なに、なにしたんだ私。自分の必死な声と係員の温度差も相まってより恥ずかしい!
ゴンドラの中は沈黙が降りていた。
中々ない空気に私はどう破っていいものか思考を巡らせていた。
ふふ、と不意に寿さんが笑った。
「嬉しいよ、ボクももうちょっと乗ってたかったんだ、ありがとう」
優しく言って笑う。
私は口を開けてなんて大人な対応だと思った。やっぱり先輩だ、この人は。
私は小さく息を吸い込んだ。もうちゃんと訊いてしまおうと思った。胸を借りるつもりで。これからも後輩でいるために。
「あの……、左手の、指輪は、」
結婚指輪ですか、と言う台詞はどっかへ行った。
寿さんが目を見開いて私を見た。
目が合っている。こんな顔初めて見たと思った。
固まっていて、呼吸をして胸が上下するのさえいけないんじゃないかというくらいどうすればいいのかわからない静けさだった。
ガタン、とゴンドラが揺れた。
「あっ……その、だ、黙ってるんで! 誰にも、言わないし……だから……」
両手を振って慌てて言ってみる。
寿さんが我に返ったように目線が動いて、「ああ、うん……」と上の空のような返事が聞こえた。
「…………」
「…………」
聞かなきゃよかった、なにしてるんだ。
観覧車はまだ中腹ほどで、頂上が遠い。
視線を足元に向けながら、もっと早く回ってくれと無茶な要求を内心でする。
ガタン、とまた車体が揺れた。
「……あのさ、」
「はっ、はい!」
寿さんが無理矢理笑ったような笑みを私に向けて、それから視線を少し下げる。寿さんの指が指輪を数回撫でるように触った。
「うーんと……あのね、」
寿さんが言いにくそうに喋る。
「あ、その言いにくいことなら無理にはっ」
私の言葉に寿さんが顔を歪めて、
「うん……そうなんだけど……」
と視線を落とす。
今の言い方不味かっただろうか、ていうか私の言葉全てが寿さんを困らせているようにしか思えない。何を言ったらいいんだ、何も言わないほうがいいのかな。
私はなんだか泣きそうになってしまった力の入った目頭のまま、外の景色に視線をそらした。
「……頂上に着いたら、言うね」
寿さんの声がして顔を向ける。寿さんは眉間にしわを寄せたまま無理矢理少し笑ってみせた。
「はい……」と私はそれだけ返した。
窓の外は見れなかった。
ガタン、とまた音がした。ゴンドラが登っていく音だけがする。じっと足元を見ていた。
小さく息を吸い込んだのがわかった。
「これね、結婚指輪だけど、……そうじゃなくてね、その……うーんと……」
顔を上げると先のゴンドラは見えなかったからきっと頂上だ。
寿さんが珍しく歯切れ悪く言葉を切る。数秒沈黙が降りた後、寿さんが深く息を吐いた。
「…………結婚指輪だけど、結婚しない決意を込めた指輪っていうか」
寿さんが私の足元を見たまま言う。私は口を開けたまま、ほおけたように呟く。
「45万ですよ……」
「ええっなんで値段知ってるの?」
寿さんが驚いた顔をして私を見た。
「月宮さんがプロモーションしてて……聞いたんです……」
「う、そうなんだ……」
寿さんがまた視線を落とす。無意識なのか指輪を指で触る。
「……引いてる……よね」
上目遣いで私を見る。引くっていうか、なんていうか。
寿さんが上体を起こして深いため息を吐いた。
「さらに驚きなんだけどねぇ、ペアで買っちゃったんだよねぇ……総額100万……」
寿さんはまた溜息をついてふらりと窓の外に視線を向けた。
「そっ、それホントに自分のためだけにですか?」
テンパってしまって最低な聞き方をしてしまう。
「そうなんだよねぇ……望みもないっていうのにね……」
寿さんは座席に完全に背を預けて、脱力した腕は足の間に、景色を遠い目で眺めていた。
「それは、その……」
「ぼくって度々こういうことしちゃうんだよね、寂しいのかな……何にもならないことに費やしちゃって……うん、なんていうか、うん……」
すっかり意気消沈してしまって、遠い目をしている寿さんを前に、私は慌てて思考が右往左往するだけだった。
テンパって、なぜか立ち上がる。
「あっ、あの! いや、だって寿さんまだ若いですから、結婚、本当にしたら、全然無駄じゃないし……その……」
寿さんの視線が私に向いて、暫く見つめる。
それから力なく笑った。
「そうだね」
私は拳を作っていた両手を下ろした。何してるんだろう全てが裏目にでる。
「……すみません……」
「ちょっとちょっとなんで名前ちゃんが謝るのー?」
ガタン、とゴンドラが揺れてグラリと身体が傾いた。
「おっと、」
肩を支えられていた。寿さんの座る座席の背もたれに反射で手をついていた。
距離は、近い。
寿さんと目が合っていた。
「…………ごめんね、ぼくが変な話したからだね」
寿さんはそう言って少し眉を下げて笑って、優しく私の肩を押し戻した。
「……すみません」と謝って、私は身を引く。向かいの座席に戻った。
暫くして扉が開いて、外の新しい空気が入ってきた。
「すみません、ありがとうございました」
と寿さんが係員に一言声を掛けて降りた。
地上に足がついた。ゴンドラは変わらず回っていく。
乗り場を出てみると冷たい秋の風が肌に届いた。
「帰ろっか」
寿さんの声に、「そうですね」と返した。
少し後ろを歩いた。
寿さんの左手に、指輪。
引くっていうか、そうじゃなくて。
そんなに強い想いがこもってるんだと、思って。
「名前ちゃん? どうかした?」
駐車場。寿さんが車にキーを差し込んでいるそこから少し離れて足を止めた。
カラスが遠くで泣いている。
「ええっ! ちょっと名前ちゃん!? どうしたの!?」
寿さんが慌てた様子で私に駆け寄る。肩を優しく掴んで、顔を覗き込む。
次から次へと涙が地面に落ちて、私はそれを見ていた。ポツポツとシミが出来る。
「名前ちゃん、」
寿さんが屈んで私を覗き込んだ。心配そうな顔だった。
目が合って「すみません」と謝る。寿さんが顔を歪めて、「違うよ」と言う。
「何も悪くないから、……一度ゆっくりしようか」
そう言って肩を抱いて車へ案内する。
いい大人だ、もう大人で、私も、寿さんも、大人、しっかりしなきゃ、いけなくて。
足を止めると寿さんがまた顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」と聞こえた。
「…………きなんです、寿さん……」
消えそうな声で、いつもの自分からは想像のできない声で、涙は止まらず言ったら益々溢れた。
「え……?」
寿さんの声がした。涙が地面にシミを作っていく。
ぐっと、腕を取られて顔が露見する。覗き込むように見る寿さんの目は見開かれていた。
「今……なんて……」
「好きです、好きなんです寿さん……」
私は寿さんから身を引いた。腕を掴んでいた手は悲しいほどあっさりと外れた。
私の鼻をすする音ばかり聞こえていた。自分でも本当に自分なのかわからないくらい、涙が出て、微塵も笑顔を作れなかった。
私じゃない、こんなのはもう、多分寿さんの思う後輩苗字名前じゃない。
誤魔化してきたのだ、きっと。酒なんか飲んだりして、ずっと。笑い飛ばしてみたりなんかして、ずっと。些細な言葉に、縋ってみたりして、ずっと。
寿さんの靴が、地面と少し擦れて音がした。
「…………うそ、だって、……ほんとに……?」
茫然とした声がした。
私はしゃがんでしまいたくなる足を、最後の理知で留めた。
「……すみません、もう、いいんです」
結局寿さんを困らせただけだ。どうにもならないことなんて言わないべきなのだ。言ってはいけないのだ本来は。
私は両目を抑えて、長く息を吐いた。無理矢理口元を引き上げてみる。それでも顔まではあげられなかった。
「けど、涙、止むまでちょっと待ってください……」
深呼吸をする。気管がゆるゆる震えて、息が上手く吸い込めなかった。
「ままー、あの人泣いてるー」
子供の声が聞こえてすぐさま母親の咎める声が聞こえた。
私は慌てて息を吐いて、手の甲で瞼を擦る。顔を上げて子供に向かって何でもないよと笑おうとした。
バッ、と抱きしめられた。
驚いて見る。視界の端に見えた子供。母親がばっと子供の顔の向きを変えさせ、引きずるように子供の手を引っ張っていった。「ママー」と聞こえ「しっ!」と強い静止が聞こえた。
「…………こ、とぶきさん」
抱きしめる力は強かった。背中と頭の後ろに手があって、強い力で抱き寄せられていて、私の身体が少し上に引き上がっていた。寿さんの胸に顔を埋めることになっている。
寿さんの頭は下がっていて、垂れた髪が顔を覆っていた。
「…………ほんとに? 信じられないよ……」
頭のすぐ上で声がする。吐息が頭頂、髪にかかって熱い。くぐもった声、直接頭に響くようだった。
「…………信じられそうなこと言って……」
頭の後ろに添える手に力がこもる。髪がくしゃっとなった。
「こ……とぶきさんは、え……? だって……指輪…………」
私は思考が上手くいかず、文にならない単語を言う。
止まったかと思った涙が一筋、残っていたのか流れ落ちた。
抱きしめる力が緩んで、少し間ができる。見えた顔は、苦しげに眉が歪められた顔だった。
すぐそこの距離で目が合って、私は瞳を揺らして見ていた。寿さんは視線を少し下に落とすと、ゆっくり口を開いた。
「……一人で生きていこうと思ってた。だけどボクは寂しがり屋で、何かの弾みに誰かと……、誰かに、間違って愛してるって、言ってしまいそうで」
寿さんは視線を落として、それから私に視線を上げて、やっぱり落とした。
「……君以外になんて、言いたくなかったんだ。けど君と、一緒になんてなれやしないと思ったから…………」
寿さんの身体が私の方へ傾いて、肩に額が付く。頬に寿さんの髪が当たってくすぐったかった。
くぐもった声がする。
「だって名前ちゃんぼくのこと事務所の先輩としか見てないし、誰の誘いだって付き合っていくし、妹みたいって言ったって、ランランも一緒にって言ったって、変わらず笑って、悲しそうな顔一つもしない」
頬に触れている髪が少し動いた。
「挙げ句の果てにはぼくに結婚できるよって励まして……」
寿さんの頭がゆっくり持ち上がった。眉が歪んで苦しげだ。
「ああホントに可能性もないんだって、……思ったのに………………本当に……?」
私はその目を至近距離で見つめて、また泣きそうになったのを止めるように何度も頷いた。
寿さんが私を見て、眉尻を下げて笑った。
それから指で私の目尻に溜まった涙を拭う。
ゆっくりと私の手に自分の手を重ねて、引く。
車まで引いて、開けかけていたキーを開ける。
「乗って」と声を掛けて自分はすぐに運転席に乗り込んでしまう。
素直に従って助手席に乗り込むと、キスをされた。
「こっ、とぶきさん……」
「うん」
寿さんが腕を伸ばして助手席のドアを内側に閉めた。外の音が絶たれ静かになる。
顔が近づいてもう一度唇が触れた。優しいキスだ。
「……どうしよっかな、なにからしよう」
寿さんはそう言って笑う。愛しそうに笑う。
「君としたいこと、たくさんあるんだ」


「は? おいいつから」
黒崎さんの声に寿さんは「ふっふっふ〜」と楽しそうに笑う。
「教えなーい」
寿さんはそう言い上機嫌でビールグラスに口をつける。黒崎さんがそのグラスの底をガッと持ち上げて、寿さんがぐはと奇妙な音を立ててむせた。
「ちょ、ラン、ランランひどっ、う……」
げほげほと咳き込む寿さんを尻目に黒崎さんが深いため息をつく。
「知ってたら来なかったつーの……」
舌打ちをしてビールに口をつける。目が合った。
「てめぇも、そうならそうっつえよ。あーつかなんで俺呼んだ」
「だってー誰かに自慢したくて」
「くっだらねぇ」
寿さんが笑うのを黒崎さんはそう吐き捨てて焼き鳥に手を伸ばす。
私はビールグラスに口をつけた。机にグラスを置いたらそのタイミングで声がする。
「つか、ちゃんと時間作んねーと、コイツ極度の寂しがり屋だからな、すぐ他の奴んとこ行っちまうぜ」
「ちょっとランラン! 寂しがり屋は事実だけどボクちん意外と固いオトコなんだよ?」
「まあてめぇ意外と女の影ねぇもんな。モテねぇのかなんなのか」
「モテないんじゃなくて気をつけてたの!」
私は笑って、またビールに口をつけた。
「てめぇ意外に飲める口かよ」
黒崎さんが私のグラスを見て言った。
「はい、まあ弱くはないです」
「たまに相手しろよ、割り勘だけどな」
黒崎さんの言葉に寿さんが慌ててグラスを置く。
「ちょっとちょっとランラン! 堂々と人の恋人口説くってどういうこと! ダメだよ名前ちゃん行かないで!」
「あんま束縛すっと嫌われんぞ」
黒崎さんは軽くあしらって空の皿を重ねる。すんませーんと店員を呼び止めまたいくつか注文した。
「で? ランラン他に聞きたいことない?」
「あ? 興味ねぇ。つか二人でやれよ、金だけ置いて帰れ」
「ひっどい! 流石に酷いよランラン! ていうか心配してくれなくてもボクら今夜はオールナイトだからさあ」
「おい聞きたくねえ、同僚のんな話」

大きな窓からは夜景が一望できた。
「気に入ってくれた?」
振り向くと寿さんが居て、脱いだジャケットをソファに落とした。
「はい、でもこんな良いところ……」
「ぼくは大人の男だからね、こんな所にも連れてこれちゃう。惚れ直した?」
寿さんが不敵に笑って、それから力を抜いたように笑う。
「心配しなくてもいいよ、ぼく地味に仕事多くてさ、お金は結構あるんだよね。それに初めては……ちゃんとしたかったから」
寿さんの手が私の背中に回って抱き寄せた。
「ふふ、緊張してる?」
「う、えっとその」
あははと寿さんが笑って、チュ、と軽くキスをした。
私が顎を引いて俯くと、寿さんが髪を優しく撫でる。
「名前ちゃんは可愛いね」
私は寿さんの腕の中で、少し考えた。そうして顔を上げる。
「あの……それよく言いますけど、……」
寿さんがぱちぱちと瞬きをして、それから笑った。
「あっはは、そっか、そんなに言ってるかなあ」
顔が近づく。間に影が落ちる。
「よく言ってるなんて言うの、名前ちゃんだけだと思うよ」
えっ、と顔を上げると寿さんが優しく笑っていて、それから顔が近づきキスになる。
「あ、そうだ」
寿さんは不意にそう声を上げると、ふわと私を離す。
「目瞑ってて?」
そう言い置いて行ってしまうので、私は素直に目を閉じた。
「まだ開けちゃダメだよ」
「わっ!」
急に耳元で声がしたのでビックリして飛びのく。
「こーら」
寿さんがそう言って私の目を片手で隠す。「目、閉じててね?」とまた耳元で言って、手を離す。
私は目を閉じていた。寿さんが私の前へ回ったらしかった。
手に指が触れたのでピクと跳ねる。寿さんがちょっと笑った。
手を持ち上げられて、指に触れる。
左手、薬指。
「開けていいよ」
囁くような声がした。
ゆっくり目を開ける。
キラキラ、煌く、リング。
私は暫くそれを見つめていた。
はっ、と思う。
「ご、55万ですよね……」
「あははは、ムードが台無しだよ」
すみませんと慌てて謝る。いやでも恐縮する。こんな値段の……こんな綺麗なもの……。
寿さんが笑って少し息を吐いた。
「君がいなかったら一生引き出しに眠ってた物なんだからさ、気負わないでいいよ」
私を見て優しく笑う。そうして私の指にそっと触れる。
「それに……綺麗だよ。テレビがなかったら、ずっとつけててほしいのに」
ちゅ、と薬指に優しく触れるキスをした。
「……寿さんのは」
「ん? ああこれ?」
寿さんがポケットから指輪を取り出す。
「はめてもいいですか」
「いいけど……」
寿さんから指輪を受け取って、寿さんの左手を取る。
長くて綺麗な指。薬指。
ゆっくり指輪を通して、滑らせる。ぴったりとはまった。
「……なんだか照れちゃうね」
私は寿さんの指に何度か触れて、そうしてゆっくり持ち上げた。
キスをする。左手の薬指。色んなものを込めて。
顔を上げたら、寿さんが固まっていて、暫くして頬が少し赤くなってぱっと手が離れた。それを口元へ持っていく。
「いや、うん……されるのって慣れてなくて」
視線を逸らして言う寿さんを見て、私は、はっと我に返って赤くなる。か、考え直してみると結構凄いことをしたというか!
「すっ、すみませんなんか変なこと……」
顔が近づいて気づくと触れていた。
少し長いキス。
顔が熱いのがわかって、私は視線を逸らす。
「幸せだなあ」
寿さんの声に顔を上げる。
眉を柔らかく下げた笑みだった。
寿さんが一度目を閉じて、それから小さく笑った。
目を開けた寿さんは一つ笑って、それから私の腰に手を回した。優しく引き寄せる。
「さてと、まだ夜は長いよ、マイガール?」
不敵に笑って、キスをした。
背中と太ももの裏に手を添えて「よっと」と軽く持ち上げる。
「わっ!」と驚いて思わず寿さんの胸に手をついた。
そのまま大きなベッドまで運ばれて、優しく降ろされる。
ギ、とスプリング音が小さくなった。寿さんがベッドに片膝をついて、私にキスをした。

End
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