「あ、あついです…!」

私は額から流れる汗を服の袖で拭いながら抗議した。けれど教授は私を無視して、魔法薬を作り続けている。

助教授として初めての仕事は、研究室の在庫整理だった。授業で使って無くなっている材料は書き出し、ぐちゃぐちゃになってしまっている瓶を元の正しい場所へ並び替える。

難しい仕事ではないが、なにせ数が多すぎる。
似たようなもの(青芋虫の乾燥させた奴と緑芋虫の乾燥させたやつとか、蛇の皮の種類だとか)もたくさんあり、思うようにスイスイとは終わらない。加えて、教授が魔法薬を調合しているため、室内温度がすごく高い。室内で蜃気楼でも見えちゃうんじゃないか、と疑いたくなるくらいだ。

そんなに暑いのに、何故教授は汗ひとつかかず涼しい顔なんだ。絶対涼しくなる魔法自分にかけてるよこの人、自分だけ…!!

顎を伝い落ちる汗を手で拭い、整理を進めていく。

「教授、これは何ですか?」

「ワニの心臓を乾燥させたものだ」

「へえ、珍しいですね。あ、この薬草って、もしかして湖から取ってきましたか?」

「そうだ」

「私も昔取ろうとしたんですけどね〜、湖の底の方だったんで断念してたんですよ」

「そうか」

「はい」


会話が続きません。


仕事中に無駄話するなってことかもしれないけど、少しくらい会話してくれたっていいじゃないこれから一年は一緒にやってくんだから、円満な人間関係を築こうとする私の努力を報えさせてよ…!

こちらを向こうともしない教授の背中をじろーっと睨みつけた瞬間、教授が杖を振って鍋の火を止めながら振り返ったので、私は慌てて教授に背を向け、棚に向き直り試験管を手に取った。
背後から、今睨んでいなかったかという疑惑の視線をひしひしと感じながら、私は棚の高いところに瓶を置くために梯子を上った。

「気を付けたまえ」

教授が注意を促す声が聞こえる。言われなくとも、気をつけてますよ、と心の中で呟いて棚に試験管を置き、降りようとした瞬間、足が空を切った。

足を滑らせて、一段踏み外したのだ。

体勢を崩し、しがみついた梯子ごと後ろに重心がずれ、あとは重力に従うしかなかった。
声を出す暇も無く、宙に浮く感触がして、思わず私は強く目をつむった。



ガシャアアアン!!



派手な音を立て、梯子が床に落ちた。

私は体を襲うであろう痛みに身を強張らせたが、一向に痛みがこない。どころか、柔らかいものが下にある気がする。そして、全身が薬草の匂いに包まれているような…?

「重い」

低い声が真下から聞こえて、私は咄嗟に横に跳び起きた。

「きょ、教授…!?」

そう、私はよりによって、教授を下敷きにしてしまっていたのだ!
…というより、教授、助けてくれた………?

「怪我は、無いか」

そう言って教授は私にいつもの不機嫌そうな口調で問いかけた。けれど、私にはその言葉に、確かな優しさを感じた。
返事がないのを不思議に思ってか、教授はいくらか眉間に皺をよせながら私の顔を覗き込んだ。至近距離で教授と目が合い、私の心臓は飛び跳ねた、

「だ、だいじょぶ、です。教授が助けてくださったの、で」

赤くなる頬をおさえながら、私がつまりつまり言うと、私の行動を怪訝そうに見つつも眉間の皺はいくらか緩めて、教授はそうか、とだけ言った。

助けてくれてありがとうございます、と言えば、助教授の仕事をはじめて初日早々怪我をされては困りますからな、とそっけなく教授は返した。

教授のなぜか一挙一動にドキドキしつつ、完成したらしい魔法薬を試験管に入れるため、先ほどまで教授がかきまぜていた大鍋の前に立った。

「何の薬ですか?」

「まだ開発中だ。それはただのサンプルのひとつに過ぎん」

鍋の中の魔法薬は、まるで、まるで。

「青い空みたいですね。夏っぽくて、私好きですよ。こういう色」

「…そうか」

「でも、教授に夏は似合いませんよね。冬の方がまだマシです」

「だから何かね」

「いえ別に。で、教授の夏のご予定は?」

「安心したまえ、毎日私が君を一人前の社会人かつ助教授になるまで、全てを叩きこんでやろう。この夏は、休む暇などないと思いたまえ」

「…ということは、毎日教授と一緒ってことですか?」

「残念ながら、そういうことになりますな」

教授は意地悪くニヤリと笑ったけれど、私にとってそれは残念ではなくて、むしろ嬉しいと感じる自分がいることに驚いた。



暑い長い夏は、始まったばかり。
私の恋も、始まったばかり。


新学期まではまだまだ時間がある。



今、私の長い夏は始まった。





(教授が好き…なの、かな。好きって、なんだろ。)


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