ホットココアと角砂糖



 自室に戻ると、部屋中に甘いかおりが充満していた。思えばあまり飲む機会がなく、故にかぎ慣れたものではないが、それでも其れが何であるのか一瞬で理解のできる、独特で何にしろ甘ったるい匂いだ。
「珍しいモン飲んでるね」
 ぱたりと扉を後ろ手に閉め、そう声をかけたゼロスが彼へと近寄る。部屋の中心付近のテーブル、その傍らの椅子に座して本を読んでいる彼は、話しかけられたことではじめてゼロスが戻ってきたことに気付いたようで、少しばかり目を丸くさせながら顔を上げた。
「……上がったのか」
 彼、クラトスが、ゼロスの濡れた髪を見てぽつりと呟く。そのものの言い方からゼロスは、クラトスが"ゼロスはシャワーを浴びに行った"という、たったそのことすら今の今まで忘れていたように感じて、何となくさみしい気分というか、若干の不満を抱いてしまう。けれど、ゼロスが文句を言葉にするよりも先に、クラトスは、まるで叱られることを待つ子どものような申し訳なさげな顔をする。だから結局のところ何も言えず、曖昧に苦笑いを浮かばせるだけで終わってしまうのだ。
 クラトスが座している席の、テーブルを挟んだ向かい側。テーブルの下にきれいに収められている椅子の凭れを掴み、それをテーブルから引き離す。そうしてその椅子に腰を下ろしたゼロスは、クラトスの目前に置かれている白いカップをじっと見つめた。
 薄っすらとした湯気が音もなく揺らいでいる。匂いは先ほどよりも断然強く、それはどうやら作りたてのようだ。特別甘味を好むわけでない彼は、普段ならば殆どコーヒーを飲む。おかしいとまで言うつもりはなくとも、クラトスがココアを飲んでいるのはとても珍しいことだった。
「ねえ、それちょっとちょーだい」
 肩に下げたタオルで濡れたままの髪を軽く拭きながら、ゼロスはそのカップを指差す。さりげに本の続きを読んでいたらしいクラトスが再び顔を上げ、不思議そうにゼロスを見た。
 やがて頷いたクラトスに何となくの満足感を抱きつつ、長い指先で硝子製の白い取っ手に触れ、それをそうっと持ち上げたゼロスは、あまり口をつけていないらしく、予想以上に残っているカップの中身を目にして、それをそうっと口元に寄せた。
 甘い、香り。
 静かに含んだそれはとてもあたたかく、その匂いとは裏腹に控え目な甘さで、随分と飲み易い。ほっと息をつき、カップを元の場所へと戻す。無表情で本を読み進めているクラトスを眺め、ゼロスはふいに苦笑した。
「ホント、天使さまはヘンなとこでテキトーだよねえ」
 立ち上がり、片手をテーブルの上について、もう片腕を伸ばす。ゼロスは、クラトスが本の頁をめくるその度、微かに揺れ動く長い前髪を、自らの指先に絡ませた。ゼロスよりも先にシャワーを浴びたはずのクラトスの髪は未だにしめっている。乾かそうとする意思があればとっくに乾いているだろうに、本人にその気がない故、いつまでもこうして濡れているのだ。
 風邪をひいてしまうかもしれないし、折角のきれいな髪なのだから手入れしなければ勿体無い。本格的にあれをやれこれをやれと言う心算はないから、せめてきちんと乾かせろ。それは、ゼロスがほぼ毎日、クラトスに言い続けている言葉だ。聞き入れられた記憶はあまりない。
 抜け目など何処にもないように見える彼は、実のところ随分と適当というか、意外と面倒くさがりなところがある。自分自身に無頓着すぎるのだ。
「きちんと乾かせっていつも言ってるでしょーが」
「…次から気をつける」
「それ昨日も言ってたぜー?」
 からかうように指摘すれば恨めしそうに睨み上げてくるものだから、誰のために口を酸っぱくしてるんだと思いながらも黙ることにした。再び椅子にどさりと座り込みながら、がしがしとタオルで髪を拭く。自分のこれがひと段落ついたら、クラトスの髪を乾かしてやらなければ。ごくごく自然にそんなことを考えるゼロスは、憎まれ口こそ数多いものの、とても面倒見がいい。それもまた他人からすれば意外な話かもしれない。

 夕食後の時間をこうして穏やかに過ごすのは久しぶりだった。普段ならばどうにも片付かない仕事に追われ、眠るその直前まで机に向かっていることも多いのだが、今日はそれがない。明日も今のところは予定がなく、好きなだけ休んでいられる。
 自らの長髪は随分と乾き、それだからすぐにでも向かい側に座る彼の髪をきちんとしたいのだが、その本人はゼロスの思いに気付くこともなく、一心に読書を続けている。あまり邪魔をすると機嫌を損ねてしまう可能性があるために、ゼロスはぼんやりとクラトスが一息つくのを待っている。
 自分のことなのだから、きちんとしようと思えば出来るだろうに、本当におかしなところで適当な性格だなとは思う。けれどもゼロスは案外、クラトスの適当さに付き合うのが好きだった。これは相手が自分だからこそ出てくる、クラトスの"素"なのだ。心を開いてくれている証であるだろうし、ある種の甘えであるようにも感じる。それに加え、かわいらしいと思えるのだ。
「…………」
 本のふちに添える形でそれを支えていたクラトスの手指がふいに動きを見せる。視線は頁を見つめたまま、その片手だけがテーブルの上を彷徨った。グローブの無い素手がやがて持ち上げたのは、ココアの入ったカップ。クラトスはそれを自らの口元へと運び、もう冷めてしまっているだろうココアを飲み込む。
 ぼんやりとそれを眺めたゼロスが、そっと彼を呼んだ。カップを手にしたままのクラトスが、ゼロスに視線を向ける。
「それ、もっかいちょうだい」
「ああ」
 少し不思議そうにしながらも、それでも当たり前のように。クラトスは、そのカップをゼロスへ手渡す。それを受け取ったゼロスが、白いふちを口元へと運び、甘いそれを口にする。やはり冷めてしまってはいたが、ゼロスにとっては変わらず美味いものに感じられた。
「…そういえば」
 今、ふいに思ったこと。
「間接キス。…今更だけど」
 そういえば先ほどから互いに、互いが口をつけた箇所でこれを飲んでいたような気がする。さも当たり前のように、何の意識もしないで。
 恋人同士である今、口付け以上のこともやっているのだから、間接キスなど気にする理由も最早無いのかもしれないが。
「………」
 テーブルを挟んだ向かい側のその人は、ゼロスのその発言にぽかんと目を丸くしたと思いきや、無表情なそれを徐々に崩し、頬を赤らめていく。言葉が見つからないのかおろおろとして、視線を彷徨わせながら本を閉じた。
 かわいらしいその様子に思わず笑ってしまえば、また恨めしそうな目で睨み上げられるものだから。
「……髪、乾かしてやるよ」
 笑いを懸命に堪えながら、タオルを片手に立ち上がった。そのまま近寄り、赤い顔を隠そうとしてか俯いてしまったクラトスの頭にぽんと手の平を置く。まだしめっている鳶色の髪を、いとしいと思いながら指に絡ませた。




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