St. Valentine's day



 ようやく仕事が落ち着いた頃には、窓の外は橙色に染まりきっていた。疲労感に身を任せるがまま寝台に横たわり、あー、と意味もない声を上げる。空腹を感じているが、夕食にはまだ時間がある。ずっと待っているのもつらいところで、ならば少し寝てしまおうかとの考えに至った。
(天使さま…早く帰ってこねえかな)
 昼頃から出かけたままのクラトスを脳裏に思い浮かばせ、ぼんやりとそんなことを思う。一昨日も昨日も随分と忙しくて、ろくに会話もしていない。傍で色々と支えてくれる彼は、ゼロスに気を遣って必要以上のことを口にしようとはしないのだ。それが心地良いと感じる反面で、申し訳ないという気持ちもある。
 やるべきことは一通りやった。暫くの間はゆっくりと過ごせるだろう。
 与えてしまっているだろうさみしさを、自らのこの手で掻き消してやれれば良いなと、そう笑ってゼロスは目を閉じた。視界はちいさな光の粒が散らばる、星空のような黒一色に染まり、ぼんやりとした意識はうとうと、うとうとと浮き沈みを繰り返しだす。
 ―――そうしてどのくらい瞼を閉じていただろう。夢と現の間を彷徨っている最中、ふいに物音を聴いた。それは、扉が開かれた音のようだ。とても近く、この部屋の扉なのだと知る。次に耳に入り込んできたのは、つい先ほど聴いたものとほぼ同じのもの。開いた扉を閉じたのだろうと察する。
(…天使さま)
 屋敷で働く使用人たちが理由も無くゼロスの部屋の扉を開くことは無い。好き勝手に開閉を出来るのはたった一人しかおらず、けれども伝わってくるのは扉関係のものと思われる音だけで、他には何の気配も足音も聞こえては来ないが、だからこそ―― そう、だからこそ、部屋に入り込んできたのが彼なのだと、ゼロスには解るのだ。
 大した意味はないけれども、何となくたった今目覚めたかのようなふりをして起き上がる。重たい瞼を擦りながら振り返ると案の定、部屋の中央付近に設置されたテーブル、その傍らの椅子に座したクラトスの姿があった。
「おかえりー、天使さま」
「ああ。……起こしてしまったか?」
 自らの思考がしっかりと的を得ていたことに喜びを感じながら、立ち上がって彼へと近寄る。最寄の椅子を適当に掴み取り、テーブルを挟んだ向かい側にまで持ってきてそれに腰を下ろすと、ゼロスを真っ直ぐに見据えてちいさく頷いたクラトスが、何だか申し訳なさげに小首を傾げた。
 かわいらしいな。そう内心で呟き、そうじゃないと首を横に振る。
「たまたま起きちゃっただけよ」
 きっぱりと口にすれば、わずかに強張っていた表情がふわりと綻んだ。
 ああ、やっぱりこの人はかわいい。
「……ゼロス」
 静かに名を呼ばれる。なに、とゼロスが返事をすると、彼は自らの膝の上に置いた紙袋の中をがさごそと探り出した。買い物をしに出かけたことは知っているが、自分は何か頼んでいただろうか、とぼんやり考える。思い出そうとしても結局のところ思い当たるものはない。
 ひたすらにうとうとしていただけとは言え、一応眠っていた瞬間もあったのだ。少しばかり眠く、脳裏は霧が立ち込めているかのように薄ら白い。
 それだから、ふいに目前に差し出されたそれに、すぐに反応することが出来なかった。
「…ん…、…え? …これ」
「………」
 手の平ほどの大きさの、箱。それは青色のリボンと朱色の紙でうつくしく飾り付けられている。珍しいなと思ったゼロスは、そこで漸く今日が何の日なのかを思い出した。"バレンタインデー"、いつ頃から行われるようになった行事なのか知らないが、人が人へと何らかのものを贈る日だ。
 その殆どは女性から男性へ。そして、チョコレートを贈物とすることが多いらしい。今の今までそれを忘れていたゼロスとてそれに無関係であるわけではなく、むしろこのメルトキオでは誰よりも多くものが贈られてくるのではないだろうか。
「要らないのならば適当に片付けるが」
 呆気にとられて目を見開くばかりの最中、あくまでも無表情なクラトスがふいにそんなことを呟き出した。驚いて硬直してしまっているだけなのだが、それをクラトスは、ゼロスが困惑し迷惑がっているのだろうと勝手に判断したらしい。じっとその箱を見つめていたゼロスはその顔を上げ、慌ててそれを否定した。半ば奪い取るようにして箱を手の内に納め、要らないわけないでしょと呟く。
「開けてもいい?」
 問いかけると、クラトスは無言のままでただ頷いた。ゼロスの長くしなやかな指が丁重に包みを剥がしていく。そして現れた白い箱をそうっと開けると、中には薄緑色の四角いクッキーが入っていた。
「……チョコレート菓子を贈るのが流行りだそうだが、おまえはあまりそれを食べぬようだから」
 そう言いながらふいと視線を逸らしてしまったクラトスを目に、ゼロスはくすくすと笑み声を零した。ああこれは間違いなく照れているのだなと考えて、その不器用な様子に口元が綻んだまま戻ろうともしない。
 眠気なぞ吹き飛んでしまった。
「俺さまってば愛されてンのねえ」
 上機嫌に笑いながら箱をテーブルに置き、ひとつクッキーを指でつまんで口元へと運ぶ。決して穏やかなものではなかった生まれ育ち、そして神子という自らの立場柄、貰い物には滅多に触れようとしないゼロスが、クラトスからの贈物であればさも当然のようにそれを食す。さくさくとした軽やかな食感と、自らが好む味付けに夢中でいたゼロスは、それを静かに眺めていたクラトスが安堵からほっと息を吐いたことに気付かずにいた。
「美味いね、コレ。メロンだし」
「…そうか。それはよかったな」
「メロン味のクッキーってめずらしー気がすんだけど、どっかで買ってきたの?」
「……さあな」
 訊ねても曖昧な返答しかしないクラトスは、ゼロスが三度ほど問いかけても決して折れようとはしなかった。それを大して気に留めないゼロスの機嫌はとても良く、空腹であることも手伝って次から次へとそれを平らげていく。

 やがてゼロスは、何時の間にやら寝台の上に座り、本を読み始めているクラトスに気付いて静かに椅子から立ち上がる。クッキーは残り二、三枚ほど。夕食前に食べてきってしまうだろうなと思わず苦笑いを浮かばせながら、なるべく物音を立てぬようにして部屋から出た。階段で一階へと下り、セバスに声をかける。珈琲を淹れるためのものを一通り用意してくれないかと言うと、彼はすんなりと頭を下げた。さすが長年ゼロスに付き添っているだけあって、何を考えているかなど解るのだろう。飲みたければこちらで淹れる、等というようなことは一言も口にしない。
 リビングの中央付近のテーブルの上には山ほどの箱や花束が置かれていた。今日がバレンタインデーだと思い出した今、あれが何で誰宛てのものなのか嫌でもわかる。触れるつもりも食すつもりもまるでなく、だからこそ誰もその存在をわざわざゼロスに知らせようとはしないのだ。
「お待たせいたしました。では、これを」
「ん、ああ。あんがとな」
 やがてキッチン方面から戻ってきたセバスは、ゼロスにそうっと銀色の横長いプレートを手渡す。その上には先ほど言ったとおりの品物と、二つの珈琲カップ。きっと理解してくれるだろうとは思っていても、よく分かるもんだなと感心してしまう。
「クッキーには濃い目のものがとてもよく合いますよ」
「おー、んじゃそうし……ってアレ、俺さまクッキー食べてるって言ったっけ?」
「いいえ、言ってはおりませんが」
 あまりにも自然な口調で流しそうになったが、よくよく考えてみると不思議なものだった。抱いた疑問をそのまま口にし、首を傾げるゼロスを見て、セバスはさらりと返答をする。
「ここ最近、クラトス様は懸命にお菓子作りの練習をしておりましたので」
 特にクッキーに精を出しておりました。そう言って深く頭を下げたセバスを目にしながら、ゼロスはたった今聞いたその言葉をひたすらに脳裏に響かせていた。

 渡されたプレートを両手に持ち、二階の自室を目指しつつ考える。混乱しかけた思考を懸命に落ち着かせ、ええとつまり、と胸内に呟く。自分が好きなメロンの味の、とても美味だったクッキーを思い出していた。
(天使さまがくれたアレ、……手作り?)
 そうと決まったわけではないけれど。
 そうであれば、それを何処で買ってきたのかを言おうとしない理由も解るような気がした。
 言おうとしないのではなく、言えないのだ。
「…天使さま!」
 自室の扉を開き、その名を呼ぶ。開いたそれを片手で閉めてしまい、手にしたプレートをテーブルにドンと置いて、ゼロスはクラトスへと近寄った。彼は分厚い本を傍らに置き、きょとんとした顔でゼロスを見上げている。
 いとしさに任せて飛びつくと、その勢いで彼を寝台へ押し付ける形になってしまった。
「ッ、ゼロス…!?」
 実際には随分と大人びているゼロスの珍しい行動に狼狽するクラトスを差し置いて、ゼロスはその両腕で彼をきつく抱きしめる。痛い、と小さく文句を零したクラトスが、やがてそうっとため息をついた。
「…随分と機嫌がいいな」
 呆れたような、それでいてこれ以上ないほどのやさしい声だ。押し倒されているという現状をどうにかする気もなくなったのか、その白い指で、彼はゼロスの赤い髪先をいじりはじめる。
「うん。…アンタのおかげ」
 答えながら、両腕に更に力を込めた。




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