雪と緋色



 吐いた息はあまりに白い。
 凍える手の平を握りしめ、寒さに身を竦ませれば、それはまるであの日を再現するかのようだ。
 くだらない、とゼロスは内心に呟く。悪態をつきながら、拭いきれぬ不安感に眉をひそめた。
 雪化粧した街はか弱い日差しを受けて、ただ静かにかがやいている。その風景はゼロスが一に嫌うもの。
 忘れることも逃れることも叶いはしないあまりにも鮮明な記憶は、一面の白の中心で歪みながら揺れ動く。
「ゼロス、」
 呼びかける声が意識を現へと引き戻した。低く落ち着いた声質の主は、ゼロスより数歩先の場所に立ち、そうしてゼロスをじっと見つめている。
 名を口にしたきり何も言おうとしないクラトスは、花びらのように舞い降りる雪の中で、やんわりとした微笑を浮かべたのだ。

 世界統合後、テセアラ国王は以前にも益してゼロスを城へ召喚するようになった。表面上では落ち着き払っているように見える王はけれども、ゼロスを呼び出しては毎回毎回同じようなことばかりを話し出す。確かに、事情を知りもしない人間からすればこの事態はあまりにも不可解で驚愕すべきものだ。――彼も混乱しているのだろう。そう理解しているつもりであっても、流石に同じ話に同じ答えを返し続けるのは苦労する。
 朝早くから赴き、帰路につける頃には昼を過ぎていた。疲労して普段よりもいくらか歩くのが遅いゼロスに、クラトスが歩幅を合わせている。
 どうせだからそこらへんの店でも見てまわろうかと提案したのは、他でもないゼロス自身だった。近頃は特に忙しく、まともに会話すら交わした記憶がない。ゼロスの屋敷に身を置くクラトスは、ゼロスが外へ出るとなれば護衛として共に居るものの、疲れがちなゼロスを気遣ってかいつもにも増して無口でいた。
 雪の降る中ではつらくとも店の中にいけばそれなりに忘れられる。
 ここ数日間の空白を、少しでも埋めていければいい。
「……これはすごいな。硝子の中に模様が描かれている」
 硝子細工を専門とした店。わずかにその身を前方へと傾かせ、棚に置かれた真四角の硝子を覗き込むクラトスが、感心したかのような声で静かにつぶやく。
 その硝子の中には花模様。ゼロスにとっても見慣れぬ細工のものだ。
「なかなか綺麗だねえ」
 そう言いながらもゼロスは、硝子細工に目を奪われている様子のクラトスを眺めていた。何処か幼くすら見える顔つきの彼は今、珍しい細工の数々を心から楽しんでくれているようだ。
 真っ直ぐ屋敷に戻らずにいて良かった、と。
 この時ばかりは。

 店を後にし、歩み出す。クラトスがその手にしているのは先ほどの硝子細工が入ったちいさい布袋。遠慮するクラトスを押し切る形で購入したそれを、彼はとても大事に持っている。
 ほんの数分の間にずいぶんと勢いを増した雪に時おり視界を奪われながらも、歩き慣れた道をひたすらに進んでいた。
 ………ああ、やはり、どうにも思い出してしまう。
 不安だと思うのか不快だと感じるのか、どっちともつかぬ感覚が胸の内を廻っている。
 ふいに、近くで何かが割れたような気がした。
 白を撒き散らす強風の中。

 血、が―――。

「………!」
 視界に紅色が映った瞬間、空を切り裂く鋭い音を聞いた。
 目を見開くゼロスの目前に立つクラトスが、逃がしたか、とちいさく呟く。
 その、足元。積もった雪に、ああ、紅い―――血が、…血が染み付いている――。
 脳裏が真白く染まる。途端にゼロスは彼へと近寄り腕を伸ばした。

 ゼロス、ゼロス。落ち着いてくれ。
 混乱の中でその声ばかりが響いていた。
 すまないと、彼は何度述べたのだろう。
 何も記憶に残らない。
 ただ、ゼロスがふと我に返ったその時、周囲の風景は既に、住み慣れた自らの屋敷のものだった。
 自室。寝台のすぐ傍の椅子に腰掛けるゼロスは、目前で横たわる彼の手の平をきつく握っている。
「……ゼロス。少し、痛い」
 控え目に告げるクラトスの声にすら何の反応も出来ないまま、ゼロスはぐるぐると一連の出来事についてを思い出していた。
 世界が滅亡するような事態にはならなかったにしろ、そこに住まう人々は未だ、はてしない混乱の渦にまかれている。事情を知っている、いや、むしろ、当事者である自分たちとはあまりにも違う。
 そんな中で、理解のし難い現象の末に憎しみを抱く人間だって、きっと居るのだ。ゼロスが神子であるからこそ、その対象になったのか――他に何かしらの考えがあっての事だったのか。そのようなことは、ゼロスにすら解らない。
 理解出来るのはあまりにも少数だ。
 クラトスはゼロスをかばって傷を負った。浅い、などとはとても言えない。発熱が見られ、もしかしたらそれは毒かも知れぬと医者は言った。思いつく種類のものの解毒剤を飲んだ彼は今、安静を強いられている。
 それでいて、至って何事もなかったかのような、澄ました顔をして……ゼロスに気を遣っているのだ。
 何が悪かったのか。それを求めれば自分になる。ならば何処からすでに悪かったのか。思考は沈んでゆくばかりだ。自分が、折角だから店をまわろうなどと言ったから。城へ赴くときに彼を連れていったから。それとも、彼を自分の護衛として傍に置いたのが悪かったのか。…いっそ、自分が彼を好きにならなければ。
「ゼロス」
 徐々に傾いていく思想を、低い声が打ち切った。やけに脳裏にまで入り込むそれに、我に返る。心配そうな表情でゼロスをじっと見つめているクラトスに、ゼロスの内心がちくちくと痛む。
 心配すべきは自分自身だろうが。相も変わらず、ヘンなとこでお人好しで―――。思わず浮かべてしまった自嘲の笑みに、クラトスは切なげに眉を寄せる。そんな顔をしないでくれとばかりに。
「………これで、またおまえは、雪が嫌いになってしまったのだろうな」
 長い沈黙のその後に呟かれたのは、ゼロスにとっては最早当然のこと。何も答えないゼロスを目に、クラトスはそっと目を閉じる。
 そのまま、再び瞳を開けてくれぬような気がして――、無意識的に、クラトスの手を握る力が強くなる。
「私は、雪が結構好きなのだ」
 ぽつりと呟かれた言葉に、ゼロスの表情が強張る。
「悪趣味」
「…そうだろうか」
 忌々しげに返答する。
 それを耳にしたクラトスが、何処か寂しげに瞼を閉じた。
 気に食わないと思うのは、愛しいその人が、自分が一番嫌いな物を好きだと言った事に対する一種の嫉妬なのだろうか。
「……私がおまえと出逢ったその時。あたりは一面の雪だった」
「………」
 それを覚えている。だからこそ、好きなのだ。ぽつりぽつりと零される言葉は次第に弱まっていく。
「…眠い?」
 きつく手を握り、問い掛けた。それに頷くだけのクラトスは、それでもそうっと瞼を開き、申し訳なさげにゼロスを見る。
「いいよ。…おやすみ」
 その時ゼロスは、ようやくやんわりと笑みを浮かばせることができた。それは未だに固さを残してはいるものの、優しく。
 眠ったまま、二度と目覚めぬことがないよう――、まるでつなぎ止めるかのように、白いてのひらをきつく握る。
 不意に目を閉じたゼロスが思い出すのは、紅。
 白い雪にじんわりと染みこんでいく緋。




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