呼吸は止まり、鋭く出づる



忘れきった頃にふと遣って来る、その程度のもの。生まれつきだったと思うそれは、よくよく思い返してみればどちらかと言うと重たい部類に入ったような記憶がある。しかし幸いなことに私は確りと治療を受けれるような環境下にあり、あまり細かに憶えてはいないが…ある程度、治すというか抑え込むというか、まあそのようなことを誰かにして頂いたのだ。
そのおかげなのだろう、成人してゆくに連れて、其れは少しずつ顔を出さなくなり―― ミトスたちと旅をしているその最中には、一切訪れることがなかった。
其れが存在していたということさえ忘れていた。ほんの数年前まで。

いつ頃からの話だっただろう。それは覚えていない。予兆にすら気付かなかった。いや、きっとそれすら無かった。
喉内の、息が詰まる程の違和感。何処か奥底から生じ、出てゆこうとする燻りに抗う術もなく咳き込む。苦しさの合間に息を吸うと、喉の奥深くからやけに引き攣った呼吸音がした。それが脳裏に残響を残してゆく。
そこまでして漸く、あまりにも唐突なこれが何なのかを理解した。ああそういえば、…過去に幾度も体験したことがある。咳を繰り返すその傍らで、何処か懐かしいとすら感じる自らが在った。
私はこれを随分と嫌っていた。それでも、こんなものですら追懐の内に入り込むのか。不可解なものだ。―――そう、当時は確か、そんな事を考えていた。
あれからというもの、そう頻繁な話ではないが……忘れた頃にふと、それは遣って来る。胸部の不快感、喉の内側に張り付いた燻り。抑え込めぬ咳に視界が点滅する。苦しいとも鬱陶しいとも思いはしたが、出来うる限り大人しくしていれば何れは落ち着くものだった。
唯、自覚できる予兆はあまりない。私が気付いていないだけなのか本当に無いのか知らないが、それが一番に不満だ。突如顔を出すそれは、場所を選んではくれぬ。
コレットを救い出した後、世界のあちらこちらを周り出したロイドたちに仕方なく続く。幾度となく戦闘を繰り返していたその最中、不意にクッと不快感が込み上げた。
咄嗟に口元を押さえる。しかし、それまで抑え込むことは叶わなかった。咳き込む私を目に、彼らはさぞ驚愕しただろう。それはあまり考えたくない事であるが。

じきに治まる、だから気にしないでくれ。皆にはそう何度も伝えたつもりで、…結局、それが聞き入れられることはなかった。
メルトキオの上流階級区域、その屋敷の一室。野宿をするという予定が、私のせいで随分と狂ってしまった。辺りは草原と森で他に何もありはしなかったが、それでも最寄りと言えばメルトキオだったのだ。私を差し置き、あっという間に進んでしまう会話のその中で、ゼロスの屋敷を借りようという提案に意を唱えた者は居なかったようだ。…それもまた、私を差し置いて。
決して初めて足を踏み入れたわけでもない部屋も、今だけはひどく居心地が悪いように思える。いや、部屋自体が悪いわけではない。貸してくれたことは本当に有り難いのだが。
眠れず、寝台に座したまま窓の外を眺めていた。カーテンを退け、露になったガラスの向こう側は暗い。空はあまり見えなかった。

足音がする。人の気配に気付いてドアへ視線を移動させたのと、コン、と高い音が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。声をかけてくる様子は無かったが、誰かなど大体で判る。
どう応じるべきかで悩んでいる間に、それは音もなく開かれた。サイドテーブルに置かれたスタンドランプだけが照らす部屋の中、橙色の仄かな光は何時の間にやら閉められているドアのその前に立つ人物へまでは届かないようだ。
「ゼロス」
影に隠れたまま動こうとしないそれに焦れて、名を呼ぶ。そうしてようやく姿を現した彼は、異様なほどに無表情だった。
ああ、心配をかけてしまっている。…心配してくれているのだな。
無言のままで歩み、最初に窓辺へと向かった彼は、そうしてカーテンへと手を伸ばす。それを完全に閉め切ってしまって、次に私へと近寄った。やがて寝台の端へそうっと腰を下ろしたゼロスは、私に背を向けたきり何も語ろうとはしない。
「………」
言いたいこと自体は山ほどある。予定を狂わせた。迷惑をかけている。…しかしそれを口にするのは躊躇した。こういうことばかり言っていると、何故だかゼロスは不機嫌になる。そのような経験が数度かあって、…ただでさえ面倒ごとを引き起こしているのに、その上、彼の気を損ねるような真似までしたくはなかった。
静寂。それが、今だけはひどく痛い。突き刺さってくるかのようだ。
「………?」
何と声をかけたら良いのかすら分からず、無力に黙り込んでいた。その中でふと、右手の上に体温が重ねられる。
他人の、…ゼロスの。あたたかい手のひら。
「なんで大人しく寝てねーのよ。あれだけ寝てろって言ったのに」
言葉に詰まる。ぽつりと呟かれたそれにすら、何の返答も出来なかった。すまない、たったそれだけが口をつきかけて、…寸でのところで止まる。
それの代わりだと言わんばかりに零れてゆく咳が、どうにも憎い。
「…それ、生まれつき? 俺さま、アンタにそーゆーのがあるだなんて知らなかったんだけど?」
「そういえばそうだな…」
言われてみれば確かに、これを誰かに語ったことはなかった。幼少の頃は流石にどうだか覚えていないが、ミトスたちと共に旅に出る前も、その後も。今頃になって時々顔を覗かせるようになっても、今までは誰にも気付かれることがなかった。今にして思えば運が良かったのかもしれぬ。
そんなことを一人でぼんやりと考えていたのが悪かったのか、ふいに振り向いたゼロスが至極不満そうな顔で此方を睨んでくる。…もとは生まれつきのものだが、つい最近まで忘れていたのだ。だから仕方がないだろう。咄嗟にそんな言葉が零れていた。
我ながら言い訳にすらなっていないと思えるそれを耳に、ゼロスはまた向こうを向いてしまう。…機嫌を損ねてしまっただろうか。何をどう言えば良いのかすら分からず、そんなひどく自らが腹立たしい。
「………隠そうとすんなよ」
消え入りそうなほどに小さな、ふいの声。重ねられたままの彼の手のひらが、私の右手をきつく握る。
「これから。具合が悪くなったら真っ先に俺さまに言え。…隠そうとすんじゃねーぞ」
荒い言葉遣いと、低い声。けれども再び振り返った彼は、私の姿を目にそうっと微笑みを浮かべてくれる。それに、ひどく安堵をした。現金なことだと自分自身、思う。
「ほら、横になんな。ちゃんと寝てるんだぜ?」
「…わかっている」
立ち上がったゼロスに促されるがまま、もそもそと上半身を倒す。シーツを被り、目を閉じて、……暗闇の中で腕を伸ばした。
――すぐさまに握られる、手。よ、と小さく声がして、ゼロスがすぐそこに屈んだことを察する。カチリと響くそれは恐らく、ランプのスイッチの音だろう。
眠ろうとすることさえ久しぶりだった。どのようにして眠っただろうか。それをひとつひとつ辿るようにして思い出す。
「……ッ」
空いている片手を咄嗟に口元へと遣る。咳き込んでしまうのをどうにも抑えきれない。息苦しさの中、繋いだ手に力を込める。それを握り返してくれる事が、ひどく心強く。
「クラトス」
優しい声色が名を呼ぶ。
やがて、彼のもう片方の手のひらなのだろうそれが、瞼の上にやんわりと添えられた。




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