胡蝶、波音



………暑い。そう呟いてゼロスは、窓からピンポイントでベッドと自分を射してくる陽射しを避けた。
寝返りを打ったことによるベッドの軋みが、未だ睡魔の中にいた彼を覚醒させる。
ちいさな唸り声を上げながら目を擦り、まとわりつくシーツの妙な暑苦しさに眉を寄せた。耐え切れずに引き剥がす。ばさり、という音が、部屋の中を響いて回る。
「……暑い……」
自分の左肩が、真っ直ぐに伸びた太い光と重なる。その、まるで火の近くにいるかのような暑さに、彼は先ほどと同じ言葉を溜息まじりに吐き出した。
久しぶりに、最悪な目覚めを迎えた。ゼロスは心中でぽつりとそう思う。これの前のゼロスの『最悪な目覚め』は、ありきたりな話だが悪夢を見て飛び起きた日だった。
大切なひとを亡くした夢だった。ゼロスは今でもその夢に不安を煽られることがある。
本当にそうなってしまうのではないかと。そして、その可能性を否定することができないのだ。絶対にないと、言い切ることができない。
彼の大切な人は、ふらりと揺らいだ水面が、いつしか音もないままに消えてしまうそれによく似ている。目を離せばすぐに。跡形なく。
「……天使さま?」
熱い陽射しを避け、ぐうっと背伸びをした彼は、そこでふと何かを思い出したかのように辺りを見渡した。
普段ならば、隣で眠っているか、部屋の中央あたりに置かれた机に着いて本を読んでいたり、珈琲を飲んでいたりしている人の姿が、今日に限って何処にも見えない。
ゼロスは、また不安になる。暑さに叩き起こされた今日と、悪夢のせいで眠れなくなったこの間とが重なり合うような錯覚を感じた。
夢なのか現なのか、それすら分からない中で、ただただ後悔の念に苛まれる、錯覚。
突然のことだった。けれども、手を差し伸べてさえいれば助けられたのかもしれないのだ。仮に救うことができなかったとしても、共に死ぬことは出来ただろう。
目の前で死に逝く彼を見殺しにし、自分だけがのうのうと生き延びる。なんて。
「―――……」
ゼロスは小さく息を呑んで、慌てて立ち上がった。
寝癖のついた髪さえ気にしようとせずに、勢いよく部屋のドアを開け、走る。
天使さま。叫ぶようにして呼びかけた声はゼロス自身の足音に消える。何処へ行ったのか。何をしているのか。その思考すべてが焦燥感になる。
見つからない姿に、ぽたりと汗が頬を伝って落ちた。喉の奥底からこみ上げてくるものがある。喚き、なのか、叫び、なのか。ゼロスにはそれさえ分からない。
「天使さ、」
よく分からないそれが、とうとう弾けて、零れる。―――その瞬間だった。
ぐい、と後ろから腕を引かれた。出掛かった叫び声が、ぴたりと止む。振り返ると、そこにはクラトスの姿があった。
ひどく驚いた様子の彼は、無言のままゼロスの腕を掴んでいる。なんと声を掛けるべきか迷っているようだった。
強張っていたゼロスの表情が、少しずつ緩やかなものになっていく。息を吐いてクラトスの腕を振り払うと、彼をそのまま抱きしめた。
「…ゼロス?」
どうしたのだ、と問いかけるクラトスの声は、硬い。動揺を隠しきれていないようだ。ゼロスはそれにくすりと笑う。
「あー…よかった。ごめんね天使さま、俺、ちょっと寝ぼけてたみたい」
重なる互いの鼓動に安堵を感じつつ、ゼロスは冗談っぽく笑った。そうか、と、クラトスがやわらかい声色で呟く。
そうしておずおずとゼロスの背に両手をまわした彼は、それきり何も言わないでゼロスに身をゆだねていた。
詮索する気はないのだろう。やさしい人だと、ゼロスは思う。


「……水遊び? ロイド君たちが?」
口元へ運ぼうとしていたフォークが、ぴたりと止まる。小さく切られたパンが刺さっているそれを皿の上へと戻して、ゼロスは首を傾げた。
白い指先でカップを取り、珈琲を口に流し入れたクラトスが、それをこくりと上品に飲み干してから頷く。
「今朝手紙が届いていた。明日はきっと暑くなるだろうから、都合さえ良ければ、と。…恐らく、昨日思い付いた話なのだろう」
そう言ってコーヒーカップを置いた彼は、そこで言葉を一旦区切ってゼロスを見た。様子を窺っているらしい。
ゼロスは、向こう側の壁にかけられたカレンターをじっと見つめた。時折、音もなく珈琲を飲むクラトスを横目に見て、下手な貴族よりも優雅 に見えるそれにひっそりと感嘆する。今更だが、いつ見てもそう思ってしまうほどに、彼の仕草は善い。
「…うん。いいんじゃないかな」
暫く黙っていたゼロスが、笑いながら頷いた。ロイドたちと共に世界を統一してから、約二年半。おちゃらけていても神子という立場の彼は、減らしてもまだ増える仕事に、半ば追われるようにして生活している。ついこの間、新しい月を迎えたばかりのカレンダーも、既にスケジュールの殴り書きでごちゃごちゃだ。これでも、去年よりはいくらかましなのだが。
なにはともあれ、そういうわけでゼロスは忙しい。嫌でも嫌でなくとも、遊びにいける暇などない。
……はずなのだが、どういうわけか、今日だけは空白なのだ。スケジュールも何も入っていないらしく、カレンダーにも今日の日付だけにぽっかりと穴が開いている。
自分自身の運が良いのか、ロイドの運が良かったのか。どっちなんだろう、と、ゼロスは何となく考える。
「平気、…か?」
微かに目を細めたクラトスが、心配そうに訊く。ゼロスはそれにくすりと笑って、片手を机につくと、少し身を乗り出すような形で彼に手を伸ばした。
机の上に置いてある食事にいくらか気を遣いながら、やわらかい鳶色の髪を撫でる。
「大丈夫だよ。天使さまもいるし、」
囁くようにして言ったそれに、彼の頬が赤く染まる。その反応があまりにも可愛らしいものだったから、「久しぶりにあいつらの顔もみたいしな」という言葉は、敢えて心中だけに収めておくことにした。


集合場所であるアルタミラに辿り着くと、その入り口には既に、ゼロスとクラトスを除いた全員が揃っていた。
二人の姿に気付いた彼らが、おおい、と声を上げて手を振る。懐かしい顔だ、とゼロスは思って、なんとなく横目で隣を歩くクラトスを見た。
二人分の着替えだのタオルだのを適当に詰め込んだバックを持っているクラトスの表情は、少し硬い。柄にもなく緊張しているようだ、と察して、ゼロスは思わずそれに笑ってしまった。
じと、と睨んでくるクラトスに慌てて謝るが、綻んだ口端はなかなか元に戻らない。
「久しぶりだな、クラトス!」
ぱたぱたと犬のように駆けてきたのは、ロイドだった。彼は、隣にいるゼロスのことなど気にも止めないで、勢いに任せてクラトスに飛びつく。その衝撃にふらりと身を揺るがせたクラトスの肩をしっかりと支え、「あれ、アンタこんなに痩せてたっけ?」と呟いた。
まさか、とすかさずゼロスを睨む彼のその目は、先ほどクラトスがゼロスを睨んだ目よりも遥かに怖い。僅かに殺気までもが混じっている。それに少したじろぎながら、誤解だ誤解、とゼロスは首を横に振った。それでも尚続く疑惑の目に、クラトスが苦笑いをする。
「……良く、してもらっている。心配はいらない。…それよりロイド、暫く見ないうちに随分と背が伸びたのだな」
ロイドの腕から抜け出したクラトスが、感慨したように言った。「ついこの間までは、身長にも結構な差があったはずなのに」。
やはり成長が早いのだな…と、クラトスは笑う。彼は、急激に大人っぽくなった我が子の姿を、頭の先から足元まで見つめ、ひどく誇らしげな顔をしている。
実の父親に褒められることに慣れていないロイドが照れ笑いを浮かべる中、ゼロスだけが面白くなさげに黙り込んでいた。
「まあ…積もる話は後にしてさ、早く向こう行かねえ? 待ってるぜ、あいつら」
苦笑い気味に言ったゼロスの言葉に、やっとふたりは現に戻ってくる。アルタミラの入り口で、こちらをひどく微笑ましげに見つめている仲間たちへと視線を向けて、ふたりはまた笑った。こういう時だけは似てるんだよなあと、ゼロスは密かに溜息を吐く。

澄み渡った広い空に、青く揺らぐ海。暑い日差しと生温い風がセットで襲うこんな日は、確かに水遊びをするにはもってこいだ。
わあきゃあと浜辺で遊んでいる皆を、クラトスは少し離れた場所の、ビーチパラソルの下で眺めている。
一応、いつ濡れても良いような服装で来はしたものの、最初からクラトスには水、…というか、海。それに触れるつもりはなかった。
クラトスは、海が好きだ。けれども、触れるよりも眺める方がいい。引いては寄せる波を見つめながら、ぼうっとしているのが好きなのだ。
此処に本があれば、また良い。クラトスはぼんやりと考える。ロイドやゼロスが聞けば、またジジ臭いと笑われるだろうが。
「――天使さま。何してんの?」
不意にかけられた声に、クラトスはふっと顔を上げた。つばの広い麦わら帽子をかぶっているゼロスが、サングラスを片手にクラトスを見下ろして いる。「ぼうっとしていた」とクラトスが呟くと、彼はそれにおかしそうに笑った。
「せっかく海に来たんだから、少し泳いでくりゃいいのに」
それとも、まさか泳げない? そう悪戯に笑うゼロスを軽く睨みつけてから、クラトスは立ち上がった。それにびっくりしたらしいゼロスが一歩あとずさる。「…怒った?」。心配そうに尋ねてくるので、クラトスはすぐさま首を横に振った。
「いや、そうではない。お前の言うとおりだと思っただけだ」
クラトスは、海を眺めるのが好きだ。それだけで一日を潰せる自信がある。けれど、折角誘われて来たのに、眺めるだけと言うのもどうなのか。クラトス自身にとってもそれは悩みどころなのだ。
意を決してビーチパラソルから出ると、そこはまるで別世界のように暑い。陽が容赦なく射してくる、その感覚に足をとられそうになる。
ほんの一瞬ふら付いたクラトスの背を、後ろでゼロスが心配そうに見つめている。泳いで来いと言ったのは他でもない自分だが、そもそもゼロスは、あのクラトスが自分の言葉に素直に立ち上がるだなんて考えもしなかったのだ。
それに、ああは言ったものの、実はあまり水に濡れてほしくもない。元々、海、リゾート地、というものには、何処の馬の骨やも知れない男がツキモノなわけで。
欲目をナシにしても人目を引く彼には、出来る限り目立ってもらいたくないのだ。
ゼロスがそこまで思うのには幾つかの理由がある。その中には、唯単に「自分が嫉妬するから」などという、個人的な意見も入っているのだが、一番はやはり「本人に自覚が全くないこと」だろうか。
自分がいかに人目を引き、女性からも、時には同姓からも、所謂『そういう目』で見られているのか。彼はそれを全く理解していない。
頭は良いはずなんだけどなあ…と愚痴を零すゼロスは、ちくりと痛む自分の頭に溜息を吐いた。
「天使さま、気をつけてよ? 時々おっきい波来るから」
「…ああ」
波の音がする。
ゼロスは、引いては寄せる波に両足を呑まれながら、おもむろに濡れた砂へと手を伸ばしているクラトスをじいっと見つめた。
―――久しぶりに、こうして外で遊んだからだろうか。少し、頭がぼうっとする。ちょっと疲れたんだろう、そうゼロスは思った。けれどそれも、決して気分が悪くなるようなものではない。
約二年半ぶりに見た仲間たちは、外見には多少なりとも変化があったが、それ以外は特に何も変わった所はなかった。ジーニアスは相変わらずがきんちょで、リーガルを密かにライバル視しているし、しいなの胸も(本人は気にしているようだが)相変わらずでかい。
ボインとしたあれを、久しぶりに拝むことができた。ゼロスはふとそんなことを考えて、無意識に自分の頬に手を添えた。こんなことを本人に言おうものなら、間違いなく頬に手の形の跡がつく。ついでに、クラトスにもこっそり軽蔑される。
そういえば、さっきしいなと話していた時も同じことを思っていたなあ、なんて。そう思い出して、思わず口に出したりしなくてよかった、とゼロスは安堵した。
「………あれ。天使さま?」
ざあ、と耳の中にまで入り込んでくる波の音に、不意に我に返った。気付けば、つい先ほどまで浜辺で何かを探していたクラトスが、いつの間にやら沖合いにまで足を運んでいる。しきりに波の下へと手を伸ばしていることから、何かを拾っては海の中に棄てているようだ。
ゼロスはふと、この間見たあの悪夢のことを思い出した。今朝のように。なにより鮮明で、現実的な夢が、彼を追い立てる。
―――夢の中の光景と現実の景色が、ぴたりと重なっていくような気がした。引いては寄せる海辺と、嵐のような激しい音と共に立ち上がる津波。それにひとつ、人影が呑み込まれていく―――。
近くにいたのに、それを眺めていることしかできなかった。呆然と目を見開いて、救いを求めるように差し出されていた手を、握り返すことすらせずに。
彼がいなくなったあとの静かな世界で何度、何度後悔したことだろう。なにをどう思っても彼は帰って来ないというのに、何度。
ざあ、と波の音が響き渡る。異常を感じるほどの大きな音だった。ゼロスは何かに背を押されたかのように走り出す。ぴたりと固まって動かない彼の、その名を呼んだ。
ゆるりとクラトスがゼロスの方へと振り返る。その瞬間、ゼロスが見たのは、大きく口を開けた魔物のような津波だった。
重たい衝撃に、ゼロスの体は痛みを覚える。息すら出来ない中、無意識に伸ばした手の平に、こつんと何かが当たった感触がした。ゼロスは咄嗟にそれを、ぐっと掴む。

暗い闇の中で、痛んだ体が大きく揺らぐ。遠くに聞こえるのは波の音。ゼロスは、暫くそうして夢なのか現なのかすら分からないままで、身動ぎひとつせずに目を閉じていた。
ぼんやりうつろいながらゼロスは考える。クラトスは無事だろうか、と。思わず握ったままの拳に力を込めた。ぐう、と、何かを握り締める感触。同時に、身体中を包み込んでいた冷たいなにかが、頭の先からすうっと引いていって―――。
「―――ッ!」
唐突に覚醒した頭が、ゼロスを現へと引き戻す。げほげほと咽ながら立ち上がると、ふいに声をかけられた。
「…大丈夫か?」
反射的に頷いてしまったものの、今のゼロスの気分は最悪だ。水がおかしな所へ入ったようで、なかなか咳が止まってくれない。息を吸い込めば吸い込むだけ咽てしまうような気がして、息苦しい。ついでに言えば頭から足先までびしょ濡れで、風が吹くと少し肌寒い。生理的なものから来た涙を海水に濡れた指先で拭えば、目前には何事もなかったかのように穏やかな海。魔物のような津波の姿など、夢でも見ていたかのように、面影すらない。
ようやく楽に息が出来るようになって、ゼロスは大きく溜息を吐いた。ちらりと横目で隣を見ると、そこには心配そうな顔でゼロスの背をそっと叩く、全身びしょ濡れのクラトスの姿がある。見た感じ怪我もなさそうだ。
……しかし、これじゃまるで俺がクラトスに助けられたみたいじゃないか。そう思ってほんの少しだけ機嫌を悪くしたゼロスは、しかしふっと視界に入り込んできたそれに目を瞠り、こっそりと笑った。
巨大な津波に呑み込まれた直後、無意識に伸ばし、何かを握った自分の手。それは、夢の中では取れなかったクラトスの手を、しっかりと握っている。
さっき握り締めた『何か』は、これだったのか。納得し、また笑うゼロスを、クラトスが不思議そうな目で見る。


そうしてずぶ濡れになった二人は、「着替えてきたほうがいい」と口を揃える仲間たちに押される形で、アルタミラのホテルの一室までやってきた。
リーガル自らがそのためにと借りた部屋らしいが、金も払わずに使用するには些か気の引ける部屋だ、とクラトスは思う。ホテルの最上階に備えられたこの部屋からは、何処までも、それこそ限りなく広がっている海を一望できるようだ。巨大なガラス窓の向こう側をひょいと覗くと、地上にいる沢山のひとがひどく小さなものに見える。
「……天使さま。そう身を乗り出して下覗いて、怖くない?」
「いや?」
いつの間にか着替えてきたらしいゼロスが、備え付けのタオルを自らの首に巻き付けながら尋ねた。振り返るクラトスはそれに迷わず首を振る。
お前は怖いのか? と訊きかえすと、「高いところって結構苦手なのよね」と、まだ幾らか子供のような意地を張りたがる傾向にあるゼロスが、珍しく素直に答えた。
言われてみれば確かに、ゼロスはあまり高いところへは近寄りたがらないな。クラトスはじっとゼロスを見つめる。
クラトスは他人のことを考えているとき、その張本人を凝視してしまう癖があるようだ。世界再生の途中だった時は意識してやらないようにしていた、との後日談を本人自身がしているのだから、自覚はあるだろうが。全てが終わり、ゼロスと共に暮らすことで落ち着き始めた頃から、またその癖が出てきてしまったらしい。
よく、その癖の対象者となっているロイドは、少し居心地が悪い、と言っていた。嫌ではないが、落ち着かないらしい。
けれどゼロス自身は、彼のその癖を悪しだとは思っていないようだ。見つめられることにもすっかり慣れたようで、そんな熱い視線を送られても、と笑っている。
やがてはっと現に戻ってきたクラトスが、またやってしまった、と言わんばかりにゼロスを見るので、ゼロスは一言「大丈夫」と言った。
「それより天使さま、風邪引いちゃうよ? 着替えといで」
「あ、ああ。そうだな」
「なんなら俺さまが着替えさせてやってもいいけど」
「………」
じと、と、鋭い目がゼロスを刺す。余計なことはするな、ついでに覗いたりもするな。相手の言いたいことが手に取るように分かるのだから恐ろしい。ゼロスが、少しだけ息を詰まらせる。
クラトスも、ゼロスがある程度自分の言いたいことを理解してくれると知っているからこそ、無言のままでいるのだ。だから、それを無視してヘンに手を出したりすれば……下手をしたら、高級ホテルがただのホテルに成り下がることだろう。そんなことになったら色々と困る。
「冗談だって。何もしないよ」
「………」
本当に、と言って笑うゼロスを、クラトスは黙って見つめている。なにかを考えているようだ。それが何かはゼロスには分からないが、疑われたりしているわけじゃないことだけは何となく理解できた。
ああこれはきっと風邪を引くな。こっそり内心で呟きつつ、ゼロスはぴたりと停止している彼を見る。綺麗だなあと、そう思った。
「ゼロス」
「なあに?」
「……先ほどは、助かった」
ぽつりと呟かれたそれに、ゼロスは一瞬俺なにかしたっけ? などと考えてしまった。すぐに何に対しての言葉なのか、理解することができたけれど。
突然のその言葉に上手く返答できずに、ただ一言、「うん」と言って頷いた。クラトスがふっと微笑む。そうして彼はゼロスの横を通り過ぎ、バスルームのドアノブに手をかけた。
「―――少し……、うれしかった。…と、お、思う」
気を抜けば聞き逃してしまうほどの、小さな声。それはしっかりとゼロスの耳の奥にまで入り込み、繰り返される。引いては寄せる波のように。
ばたんと、ドアが勢いよく閉められた。無音になった部屋の中、赤面したまま動かないゼロスだけがその場に取り残される。
「…反則だと思うんだけどなあ、今の」
閉め切られたバスルームのドアをじっと見つめて、ぽつりと呟く。そしてゼロスは、どきどきとうるさい自分の胸を誤魔化すように、部屋の中心に備え付けられているソファへどかりと腰を下ろした。
ソファの背もたれに全体重を預け、大きく息を吸い、それを吐き出す。かち、かち。時計の針が進む音だけがする。それ以外の音は何もない。聞こえてこない。ゼロスの肩から、力がすうっと抜けた。そして同時にひどく眠たくなる。
やっぱいくらか疲れるな。そう思ってゼロスは目を閉じた。何しろ、すべてが久しぶりだったのだ。仲間たちと会ったのも、遊びに出かけたのも、休日自体も。明日からはまた同じように、仕事に追われる日々が始まるのだが。それでもいい気分転換になったし、天使さまのせくしーなびしょ濡れ姿も(周囲の目に警戒しなければいけなかったが)拝めたことだし。まあとにかく、来てよかった。ゼロスはそんなことを考えながら、自分の身体をソファへと横たわらせる。
「………ゼロス?」
うつらうつらと浮き沈みを繰り返し始める意識が、ふいにその声を捉えた。ゼロスはそれに応じようと目を開ける。が、思いのほか疲れてしまっていたようで、きちんと目を開くことすら上手くいかない。
ぼやける視界の真ん中を、薄い黒が何度も上下する。それが自分の瞼であることすら気付けないで、ゼロスは夢と現の間をぼんやりとうつろっていた。
眠ったのか? と呟くクラトスの声を何処か遠くの場所で聴きながら、その一方で、静かに夢を見る。―――あの、夢だ。夢の中のゼロスが、何処なのかも知れない浜辺に立ち尽くしている。
自分の両足首が、引いては寄せる波に繰り返し呑み込まれていた。それは熱い陽射しと対照的で、ひどく冷たい。心地が良かった。ふと気付くと、目前にはクラトスが立っている。彼は、ぼうっと突っ立つゼロスをじっと見つめて、すっと腕を伸ばした。
伸ばされた腕を、ゼロスが取る。そして彼はそのまま、身動ぎひとつしないクラトスの手を引いて、海から遠ざけた。
ゼロスは、ひっそりと自らの心で燻っていた悪夢からようやく解放されたことを、ぼんやりと自覚する。大切なひとを亡くした夢。それはただの夢であって、現実のものではないことを、ようやく心から信じることができた。

「…クラトス」
「ん…? 起きたのか?」
「………」
ソファの足元に背を預け、眠っているゼロスに背を向ける形で座っていたクラトスが、呼びかけてくる声に反応して振り返った。
確かに彼の名を呼んだはずのゼロスは、けれど目覚めたわけではないようで、特に言葉を返してはこない。しかしそれの代わりだとでも言うように、胸元に纏められていた彼の片腕が、ふらふらとクラトスに伸ばされた。
クラトスはどうするべきかを考えあぐねて、ゼロスをじいっと見る。暫くそうして考え込んだ末に、恐る恐る、その手を握り返した。眠っているはずのゼロスの手に、ぐっと力が込められたのを感じ取る。やはり起こしてしまったか、と静かに慌てるクラトスをよそに、ゼロスの寝顔はやんわりと綻びる。
そうしてゼロスは、亡くしてなどいなかった大切なひとのぬくもりを握り締めつつ、穏やかな夢の中へと完全に落ちていくのである。もう数十分後、さすがに痺れを切らしたクラトスが、少し申し訳なさそうにしながら彼を起こすまで。





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