当然のことながら、こんな形でベレスがディミトリの部屋に来るのは初めてだった。時計の針が正確に時を刻んでいく。時間の流れは何があっても変化しないものだけれど、今、この時の流れは若干狂っているようにベレスには思えた。夜はまだ長い。それを指し示す数本の針。ディミトリが部屋の鍵をかける。ガチャリ、と冷たい音が響くと、ふたりだけの空間がうまれる。
 ――ふたりだけ。そう表現をすれば、少し甘いものを想像しがちだが、この場にそういったものは皆無と言ってよかった。そのままベレスはベッドに横たえられる。純白のシーツに、翠の髪がぱあっと広がった。それと近い色をした瞳は、僅かに潤んでいるかのように見える。そして、そこには複雑な感情が宿っていた。本当に良いのか。こんなことは許されないのではないだろうか。正確に言えば今の自分たちは「教師と生徒」という関係では無いけれど、かつてはそうだった。
 加えて、ベレスにはそういった経験が無い。ずっと傭兵として生きてきたし、その後に歩んだのはガルグ=マク大修道院に併設された士官学校での、教師としての道。いまはアドラステア帝国に抗うひとりの女であるが――彼はそう単純なものではない。ファーガス神聖王国の王となるはずだった男だ。あらゆるものを失ってしまったとはいえ、彼の身体に流れる血が変わった訳ではない。
 
 改めてそんなことを考えたベレスに、ディミトリは躊躇無く口付けをした。自分の唇に、彼の唇が押し当てられていると気付いたのは数秒後で、ベレスは頬のあたりがかっと熱くなっていくのを感じる。段々と全身が火照っていく。灯されたのはひとつの火だというのに、あっという間に広がった。ベレスの翡翠のような瞳に、うっすらと涙が浮かぶのが分かった。嫌だから、というものではない。無意識に現れてしまったのだ。ベレスはそう濡れた視線で訴えるが、ディミトリに伝わっているのかは定かではない。
 そもそも、口付けだって初めてだ。角度を変えて何度も口付けられながら、ベレスはぼんやりと思う。彼のそれは柔らかい。そのうちに触れるだけでは物足りなくなっていったらしく、ディミトリの舌がベレスの口を抉じ開けた。舌が、他者のそれで弄ばれる。
「っ……」
 熱い吐息と、少しの甘さを帯びた声がこぼれた。ぎゅっとベレスは瞳を閉じている。こんなにも近くに彼は居る。左胸の奥の方が壊れそうになるほど、痛む。もうずっと――ずっと、ディミトリのことが、愛おしかったのかもしれない。こんな時になって、ベレスは気付いてしまった。士官学校で、共に過ごした約一年。いろいろなことがあった。様々なことを話した。一緒に出かけることもあったし、食事を摂ることもあった。本当にたくさんの思い出がある。今の彼は、そういったものを遠ざけて、違ったものを全面に出して帝国に噛み付いている。それでもベレスは彼のことが愛しいのだ。彼が優しかったのも、彼が穏やかに微笑んでいたのも、事実。今との差を考える度、彼の味わった苦痛が見えてくる。分かってやれる、なんてことは言えないけれど。
 ディミトリは繰り返した。深い口付けを。ベレスの声がだんだんと上擦ったものに変わる。それに気付いたのだろう、彼がくっと笑った。その直後にギシ、とベッドが軋む音がする。ベッドの上に転がされたベレスは、されるがまま、といった様子だ。
「……先生」
 耳元で、声が発せられる。ゾクリとした。普段とはまるで違う声。ベレスという存在を、喰らおうとする者の声。彼が耳朶を食んだ。なんとか押し込めていたはずの高い声が、部屋に広がっていく。それもまたいつもと全く違う声で、ベレスは白い両手で口元を覆い隠した。そんなことをしても、出てしまった声を喉に戻すことは出来ないのだけれど。
 お前の声を聞いているのは俺だけだ。そうディミトリは囁く。確かにここにいるのはベレスと、ディミトリ。他の誰かがいる訳ではない。しかし、あまり大きな声を出すわけにはいかない。自分が此処にいるということを、誰かに知られたら。ベレスは、そう考えて声を出すまいと必死だ。ディミトリが妖しく笑んだ。きっと、彼女の考えが読めたのだろう。ふたたび、彼が耳朶を甘噛する。
「んん……」
 先程よりも、駆け巡るものは激しかったようだ。閉じられていた瞼は開かれて、ふたつのエメラルドがディミトリをとらえている。涙できらきらと輝くそれは、普段以上に美しく、そしていつもは絶対に見られない表情も相まって、官能的に見えた。ディミトリはそんなことを思いながら、また唇を塞ぐ。今度はただ重ねるだけだったが、ベレスは熱っぽく彼を見る。それでは足りない、とでも言いたげだ。なにかが湧き上がるのを感じ――ディミトリは何度目になるかわからないそれをベレスに与えた。深い、深い、キスを。
 
 執拗に口付けを繰り返したあと、ディミトリの手がベレスの柔肌を撫でた。腕や、首元。足。あちらこちらに、ひとつひとつ明かりを灯すように触れる。その間にベレスの身につけていたシンプルな服は剥ぎ取られていき、彼女は顔を真っ赤に染めながら強く目を閉じてしまう。故に、ディミトリが浮かべた表情を彼女は見ていない。ベレスを見るそれは、獣のようにぎらぎらとした目ではなく――愛しい女性を見る、男性のそれであったのだが。
 ディミトリの大きな手が、至るところに触れる。ベッドの上にいるベレスの四肢は思っていた以上に細く見えた。傭兵として長いこと戦ってきて、それからガルグ=マクで暮らすようになっても戦いの日々を過ごしているのに。確かに、普通の女性よりはしっかりとした体なのだろう。だがしかし、ディミトリからすれば華奢に見えるのだ。体格差がある。当然ながら。ベレスの肌はやや日に焼けている。そこにそっと触れ、時に唇を寄せ、そして見つめる。
 ディミトリは思う。このまま時間が止まってしまえばいいのにと。そうすれば少なくとも幸せなのだ、自分は。彼女が同じであるとは断言出来ないけれど。そう、朝が来れば、この空間は壊される。瓦礫すら残らず、ただ、消えてしまう。いつも通りのふたりに戻るのだ。今の関係は、仮初のものだから。ただ、彼女がディミトリのことを気遣って――こんなことをされているのだ、愛し合う男女の行為の真似事をしている、ただ、それだけなのだ。発情期に一瞬だけ契る獣と大差無い。
「あっ……」
 彼の唇が、首筋に寄せられて、また声がこぼれる。ディミトリの指が触れたのは、胸のあたり。そんな場所を触れられたことなどない、一度も。はじめての感覚にベレスが身を捩った。
「声、聞かせてくれ」
 ディミトリが耳元で言う。
「あ、あ……でもっ……あ、ああっ……!!」
 彼女の瞳から、透明なひとしずくが落ちた。長い睫毛がそれで濡れる。ディミトリが膨らんだそこを繰り返し触れた。寄せられていた唇が名残惜しそうに離れると、そこには赤い印が捺されている。ベレスはただ甘い声を発し続けた。ディミトリの理性の箍は、今にも簡単に外れてしまいそうだ。
 
 このまま、好きだと、言えたら――ディミトリはぐっとその言葉を堪える。
 このまま、愛していると、囁かれたら――ベレスは思考を止めようとする。
 
 自分たちはそんな簡単に結ばれる訳がない。互いにそう思っていて、思っているが為に、いびつな今の行為から逃げない。新しい日が来たら、このすべてが終わったら、自分たちはいつもの関係に戻るだけ。ただ、ベレスはディミトリを慰めようとしている。そしてディミトリもそれを受け入れた。それだけのことだ。
 ディミトリの手がおりていく。ベレスの四肢には、幾つかの傷や痣がある。戦っているのだから、当然のこと。そしてこれからもそれは増えていくだろう。今この時だけ、ディミトリによって印される赤いそれとは違って。
「……ん、あっ……んっ……」
 ベレスがぎっと唇を噛んだ。波のように強く押し寄せるものの名を、彼女は知らない。
 
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