2018-09-18
ふたりぼっちの楽園
カムイ、と名を呼べば彼女は振り返ってくれる。月明かりのような煌めく髪を揺らしながら。それがあまりにも綺麗だったから、僕は次の台詞をすぐに出すことが出来なかった。どうしたんですか、レオンさん。そう続ける彼女に、なんでもないよ、と返して笑みを浮かべる。すると彼女も同じように微笑ってくれた。それがとても嬉しい半面、複雑な気持ちにもなる。温かなもので胸が満ちていく感覚と、同時に走る鋭い痛み。僕たちは、あの頃には帰れないのだ。どうあっても、過去に戻ることは出来ない。それを主張するような痛みを隠すようにして、僕はもう一度笑む。そして傍らに座るカムイの体を引き寄せた。
「いったい、どうしたのです?」
らしくないですね、とカムイが言う。僕は何も言わずに、彼女の体温を手で感じ取った。もう二度と彼女を離したくない。このままずっと、一緒にいて欲しい。我儘な願いを、僕は抱えているのだ。これまでもそうであるから、きっとこれからも。
だが、もしかしたらカムイは心の奥で、光射す国を想っているのかもしれない。カムイはもともと白夜王国の人間だったのだ。太陽から愛され、この国ではどうあっても得られない恵みが降り注ぐ国の。運命の日、カムイは白夜王女であることを選択した。マークス兄さんの手は虚空を掴み、カミラ姉さんが顔を真っ青にし、エリーゼが泣きじゃくり――僕は彼女を憎んだ。今でも思い出すことが出来る、あの燃え滾るような憎悪が。抜け出すことなど不可能だと思われた絶望が。
しかしカムイは今、僕の隣にいる。戦争が白夜王国勝利という形で終わって数年。マークス兄さんも、エリーゼもいない暗夜王国にカムイは戻ってきたのだ。そう、僕の方から彼女を求めた。それを告げた時、カムイは目を丸くした。血のような色の大きな瞳は揺らいでいる。驚きを宿し、悲しみと喜びという正反対の感情を孕み――カムイは頷いたのだ、あの日、マークス兄さんの腕を振り払ったそれを闇へと伸ばして。
それからの日々は飛ぶように過ぎていった。白夜王であり、カムイの兄でもあるリョウマ。彼は当初、僕とカムイの結婚に反対していた。タクミ王子もそうだったし、口には出していないがヒノカ王女とサクラ王女もそれに近しい考えだったことだろう。カムイは白夜では英雄であり、聖女でもある。そんな彼女が敗戦国に嫁ぐなど、どう考えても幸福の道ではないだろうと。だが、カムイは頑なだった。僕の手を振り解こうとはしなかった。もうレオンさんを独りにしたくないのです、そう言っている彼女の隣で、僕は必死になって涙を堪えていたっけ。
「いや……ただ、昔のことを考えていただけだよ」
手を握りしめながら、僕は答える。カムイはそうですか、と続けて、そしてまた口を開く。
「それは、私の、ことですか?」
「えっ?」
カムイは鋭い。というか、僕がわかりやすいのかもしれない。どちらにせよ、彼女は僕が何を考えていたのかわかっている。間の抜けた声を返してしまった僕の髪に、カムイがそっと触れる。彼女は昔からこうだ、髪やら頬やらに触る癖がある。北の城塞で、ひっそりとした生活を送っていた頃からこうなのだ。それは鳥籠の外に出て、広い世界を知ってしまった今も同じで。
「レオンさん、とても……とても悲しい目をしていますから」
「そう? ……でも、君が言うなら、そうなんだろうね。僕たちはもう、引き返すことが出来ないから」
「……ええ」
カチ、と時計の針が進む音がした。もう深夜だ。明日だって仕事は山積みなのだから、そろそろ眠るべきだろう。けれど、僕の心にはいろいろなものが渦巻いて、それが僕を眠らせてはくれない。カムイもそのようで、眠たそうな目はしていない。正反対、と言ってもいいかもしれない。赤い、赤い瞳が僕をじっと見ている。
「……君と、一緒になれたことは嬉しい。本当に、嬉しいことなんだ。愛し愛されることは。……でも、あの頃感じていた幸せは……きょうだいたちで過ごした日々の幸福は、もう二度と得られないんだね」
こんなことを言えば、カムイは気を悪くするかもしれない。それでも僕は続ける。
「僕は、この国を導かなければならない。兄さんたちが……心から愛した国だからね。ブリュンヒルデも、それにジークフリートも、望んでいるから」
暗夜王国に伝わる神器――ブリュンヒルデ。そして、ジークフリート。前者は僕が継承し、その力で戦場を駆け抜けた。後者はマークス兄さんが継承していたものだ。彼が亡くなった後、ジークフリートは眠っていた。暗夜王城クラーケンシュタインの奥で。だがそれは僕を認めた。ふたつの神器を手に取ることは、前代未聞だ。だが、ジークフリートがそれを願った以上、僕はそれを引き受けなければならなかった。兄が生きた証であるそれは、あまりにも重いものだったけれど。
「……ごめん、もうこんな時間だよ。眠ろう、カムイ」
身勝手だとは思ったが、これ以上こういった言葉を綴ることは出来ない気がして、僕はカムイに言った。カムイも察したようで「ええ」と頷き、ベッドに体を横たえる。その隣で僕は眠る――夜明けの星が昇るまで。夢という虚ろで、曖昧で、儚い世界へと落ちていく。目覚めれば、そこは戦の果てにふたりぼっちになってしまった昏い世界。目を瞑ったカムイを見つめて、僕は暫しの眠りへ沈んでいくのだった。
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