君のところはもう夜明けだろうね

 カムイからの手紙は、いつだって僕を案じる言葉から始まる。その筆跡はとても丁寧で、まるで亡き兄を思わせるもので、毎度心の奥に痛みが走る。カムイが僕の姉であったのは、そして僕がカムイの弟であったのは、もう遠い昔のことなのに。
 僕はカムイからのそれを綺麗に折りたたんで、封筒に戻した。なんとなく立ち上がり、窓に寄る。カーテンを少しだけ開けて外に視線を向ければ、当たり前だがそこにあるのは漆黒。この国は闇に閉ざされているのだ、今も、昔も。そしてこれからも。 
「――」
 独りの夜は、過去を辿ってしまう。カムイが、きょうだいたちが、側にいた日々を。今、この城に――クラーケンシュタイン城で生活を送っているのは僕だけになってしまった。血を分けたきょうだいは、たくさんいたはずなのに。
 
 本来であれば暗夜王となっていたであろうマークス兄さんと、末っ子のエリーゼは先の戦争で命を落とした。唯一生き延びた実の姉、カミラ姉さんは喪失感と深い悲しみに耐えきれず王城を去った。彼ら以外のきょうだいは、白夜との戦争が勃発する前に妾同士の争いで死んでしまった。そういった理由により、僕が王になったのだ、望んでなどいなかったのに。
 こういうことを考えれば、また別の存在のことをも思い出す。母上のことだ。母上は僕を愛してはくれなかった。当然、僕も母上を愛したことはない。暗夜の王家に代々伝わってきたという神器「ブリュンヒルデ」を継承した時も、祝福の言葉をくれたのは母上ではなくて、兄や姉だった。そう、母上が蹴落とせと何度も呪詛のように言っていた存在が。母上はマークス兄さんを毛嫌いしていた。王となるのはお前なのよ、と繰り返し言う彼女はもう既にどこかおかしかった。その母上も、流行病で呆気なく死んだ。物言わなくなった彼女を、冷たくなった彼女を見ても、僕の瞳に涙が浮かぶことはなかった。
 
 それなのに、数年後、僕は久々に涙を流した。カムイの――カムイ姉さんのいる北の城塞で、母上の話をした時に。どうしてそんな話になったのだろう、そこまでは思い出せない。けれど僕は泣いたのだ。カムイ姉さんは黙って僕を抱きしめて、あなたは頑張りましたね、と言ってくれた。ああ、僕が欲しかったのはこのぬくもりだったのかもしれない。母上は何も与えてはくれなかったと思い込んできた。けれど、違ったのだ。母上は僕に命を与えてくれた。たったひとつの贈り物が、それだったのだ。カムイ姉さんは穏やかに微笑んで、僕の身体を引き離すと涙をそっと拭う。あなたがいてくれてよかった、そんな優しい言葉をくれた。あなたのお母様にも感謝しなくてはなりませんね、私たちを出会わせてくれたことに、と。カムイ姉さんは自分の母を知らない。存命なのか、それとももう会えないのかも知らない。そんな彼女だからこそ、そんな言葉が出たのかもしれない。
 
 それから幾つもの月日が流れた。もう僕とカムイはきょうだいではなくなってしまった。一度違えてしまった道。ひとつのそれにすることは叶わない。カムイは白夜王国の、本当の故郷だというあの豊穣の国の王女としての生活を送っている。カムイは実母との再会を果たすも、その母と一緒にいられた時間はほんの僅かなものだったという。カムイが暗夜ではなく、白夜を選んだのは、その母親が暗夜の策によって命を落とした出来事に拠るところが大きかったという。僕だったら、どうしただろう。母親を愛せなかった僕と、慈愛に満ちた女性が母であった彼女との比較に意味など無いのかもしれないけれど、僕はそんなことを少し考えた。
 
 手紙の返事はいつでもいい。そうカムイは書き記していた。レオンさんはお忙しいでしょうし、そう続いていた。彼女の言う通り、僕は暇ではない。やることは山のようにある。けれどテーブルには返信用の便箋が置かれ、インクや羽ペンもしっかりと用意済みだ。だが僕はすぐにペンを取らなかった。書きたいことをちゃんと考えてから書こうと思ったのだ、遥か遠くで眩い光に深く愛されているカムイに。
 
 ◆
 
「――カムイ姉さん!」
 ぼんやりしていた私に、聞き慣れた声。遠くから駆け寄ってくるその姿もまた見慣れたもの。ああ、タクミさん。そう名前を呼べば、彼はどこか呆れたようなそんな表情を浮かべた。
「またなの? カムイ姉さん。最近シラサギ城に居ないなって思うといつもここに来ているよね?」
「えっ? ああ、そうです……か?」
「そうだよ」
 青い青い空。どこまでも続いているようなそれに、吹き抜ける風は春のもの。草木は葉を揺らし、ものによっては花を開かせている。遠くからは小鳥の囀りも聞こえてくるような、優しい季節。私がいるのは王城から少し離れたところにある泉だった。何かと思い出深い場所でもある。
「それに、サクラが随分探してたよ」
 タクミさんは大袈裟にため息を吐いて見せた。サクラ、というのは私の妹。引っ込み思案なところはあるけれど、とても優しく愛らしい白夜の末妹。
「だから、タクミさんが探しに来てくれたのですか?」
「まあ、ここに居ると思ったから、大して探してはいないけど」
「……そうですか、ありがとうございます」
 そこで私は黙った。するとタクミさんはもう一度口を開く。
「また、考え事?」
 彼は鋭い。まっすぐな目は真剣そのものだ。まるで射抜かれてしまいそうな、そんな目。
「何を考えているか当てようか?」
 タクミさんはそう言うとすぐにこう付け足した。暗夜のことなんだろう、と。本当に鋭い人だ、敵わない。私は何も言葉にせず、ただ視線を遠くへと戻した。それが答えであり、彼もそうだとすぐに理解する。
「……姉さんは白夜の王女だよ」
「……ええ」
 分かっています。そう付け加えて、私は目を伏せた。
「後悔、しているの?」
「……いいえ。それは、ありません。ただ……最近こう考えるのです。もしかしたら全部を救える道があったのではないかと」
 マークス兄さんに、エリーゼさん。アクアさん。守りきれない命が、救いきれない命がたくさんあった。私は、暗夜を滅するべく白夜についたわけではなかった。暗夜が私の運命を、運命を人生を、歪ませたのは事実だったけれど。
「でも、それは――」
「ええ……過去は変えられません。分かっていますよ、タクミさんの仰っしゃりたいことは」
「……カムイ姉さんは立派だったよ。僕たちを救ってくれた。白夜を守ってくれた。暗夜だって、復興へ向かっているじゃないか。マークス王子たちだって……今の姉さんを責めたりしないよ」
 ざあ、と風が吹く。まるでタクミさんの言葉に頷くように。私は何も答えられず、水底の貝のように黙した。
「……そろそろ戻ろう。サクラが探してる、って言っただろ」
 間をおいてタクミさんが言い、私も応じた。サクラさんの用事が何なのかはわからないが、早く行ったほうが良いだろう。タクミさんの背を追うような形で泉をあとにする。まだもう少し、ここにいたかったけれど。
 
 タクミさんとは城に到着する少し前で別れた。これからオボロさんと用事があるのだと言う。忙しいのにわざわざ探してくれた彼に感謝の気持ちを口にしてから、私は城に入る。サクラさんがいるのはきっと彼女の自室。余計なことを考えて気持ちが沈まないように、と注意しながら廊下を進む。サクラさんの部屋はもう少し先だ。と、いうところでサクラさん本人の姿が視界に飛び込んでくる。なかなか来ない私を探していたのだろうか。
「ああ、カムイ姉様」
「サクラさん、お待たせしてしまってごめんなさい」
「い、いえ! あ、あの……こちらこそ、忙しいところを」
「いいえ、大丈夫です。ええと、私に御用ですか?」
「は、はい。あ、でも私の部屋まで来てもらえますか……?」
 妹に問われて、私は勿論です、と頷く。サクラさんはぱあっと表情を明るくさせ、私と並んで部屋へと向かう。肩を並べるサクラさんは、以前より少し背が伸びたように見える。それが過ぎ去った年月を思い起こさせた。
 部屋の扉をすす、っと横に動かし、サクラさんの部屋に入る。とても綺麗に整理された部屋だ。私も彼女も普段通りの位置に座る。机には見覚えのある封筒。あ、と声が漏れた。そこにはやはり見覚えのある紋章があったからだ。あの、もしかして、と私が言うとサクラさんはええ、と頷いた。暗夜王国からお手紙が来ているのです、と。どうしてサクラさんが、という疑問もあるが、それより別の感情が波の如く押し寄せてくる。これは、レオンさんからの手紙。少し前に送ったものの返事だろう。サクラさんが封筒を静かに取って、私に手渡してくれる。震える。手が。そして、心が。
「あ、その、私がお手紙を受け取ったのは偶然なんです。ツバキさんが最初に受け取って、それを私が預かっただけです」
 サクラさんが言い、そして微笑みを浮かべた。どこかもうひとりの妹を思い出させる、優しくて柔らかな笑みだった。彼女は続ける。お部屋でゆっくり読んでください、と。私は「はい」と答えた――レオンさんの筆跡を見れば、きっと涙が溢れてしまうから。

 ◆

 カムイから返事が届いた。それは、ついさっきのことだった。ゼロから封筒を受け取って、そのまま自室へ雪崩れ込む。白夜王国で生きる彼女への想いは、手紙を交わすごとに募る。だから、ひとりで読みたい。部屋の明かりを灯して、いつものソファに座る。テーブルの中央に置かれた白い花は、暗夜固有のもの。引き出しからレターナイフを取り出し、丁寧に便箋を抜き取る。綺麗な字体を目で追って、最後の一文に目が止まった。ああ、と声が漏れる。ひとりきりで良かった。全身が震える。カムイ、とふいに呼び声が発せられた。
 
 ――あなたに会いたい。
 
 そのたった八文字で、世界は色を取り戻していくかのよう。僕と、カムイは、同じ願いを抱いていた。あの頃とは違うのだ、守るべきものが違ったあの頃とは。一度はまるで氷のように冷たい言葉を浴びせた僕に、彼女は優しく微笑みかけてくれている。手を取って、一緒に歩みたい。それを見下ろすのは月だけではなく、きっと太陽も。そんな確信を胸に、僕はまた羽ペンに手を伸ばすのだった。
thanks
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