月と私と初恋
深夜に目が覚めて、カムイは目を擦りながら上半身を起こした。自らの体温で程よく温まった毛布から、それらが逃げていく。もう一度その温もりに包まれて、眠りに戻るべき時間だったけれど、何故だか目が冴えてしまった。カムイはひんやりとした空気を大きく吸い込んでからベッドから抜け出て、窓辺に寄りカーテンをそっと開ける。「わあ……!」
外は雪だった。今年の初雪。ひらひらと白いそれが舞っている。黒い、どこまでも黒い世界が雪明かりに照らされる季節がカムイは好きだった。酷く冷え込むし、大雪になればきょうだいたちもここへ来られない。それでも、好きな季節だ。黒だけの世界に白が降り積もっていくから。
カムイは一枚上着を羽織って、バルコニーに出る。こんな夜にバルコニーに出れば、厳格なギュンターだけでなくジョーカーも怒ることだろう。けれどカムイは好奇心を抑えきれず、部屋から飛び出して冷え切った息を吸い込んだ。手を伸ばせば、冷たい雪片に触れられる。それはすぐにカムイの熱度によって溶けてしまうけれど、その儚さもどこか愛おしい。カムイはしばらくの間、バルコニーで雪の降る様を見続けていた。
◆
カムイがベッドに戻ったのは、すっかり体が冷えてしまってからだった。案の定、目を覚ましたカムイに襲ってきたのは激しい頭痛。熱っぽい目で天井を見上げる。そういえば、今日は弟がこの城塞に来る日だった。ああ、とそこまで考えてカムイは後悔した。今年の初雪でひとりはしゃいでしまった結果がこれだ。体が重い。
カムイ様、と扉がノックされる。はい、とカムイは応じるもその声も掠れていて、入ってきたフローラとフェリシアは風邪をひいてしまった主君を見て、顔を見合わせた。双子のメイドである彼女たちは氷の部族の出。フローラとフェリシアであれば、この程度の雪ではなんともないだろうが、カムイはそうではない。暗夜王国の王族としての血――闇竜の血をひいているとはいえ。
「大丈夫ですか、カムイ様ぁ……」
フェリシアがカムイを見て言う。フローラはというとギュンターさんを呼ばなければといって一度部屋を出ていったところだ。カムイの顔は真っ赤だ。がんがんと頭が痛む。声を出せば喉が悲鳴を上げる。随分と酷い風邪をひいてしまったようだ。フェリシアが額に触れる。氷の部族である彼女の手はひんやりとしていて、気持ちがいい。けれど、それもまたすぐに熱を持ってしまう。
「カムイ様!」
おろおろとしながらフェリシアがカムイを見ていると、今度はノックもなく少年が入ってくる。ジョーカーである。彼の後ろにはギュンターと、彼らを呼んできたフローラの姿があった。ギュンターがジョーカーを睨む。どんな時であっても敬意を忘れるな、とその鋭い目が言っている。ジョーカーは我に返り「失礼しました」と頭を下げた。
すぐに薬を用意させましょう、ああその前に粥でも。ギュンターがてきぱきと指示をする。ジョーカーとフローラが出ていき、ベッドに横たわったままのカムイの額にフェリシアが氷嚢をあてがう。から、と氷が動く音にさえ痛みが走る。
「今日はレオン様がいらっしゃる日でしたな。しかし、これでは――」
延期にするべきですね、とギュンターが言う。カムイは「ごめんなさい」と小さな声を出した。自分が全部いけないのだ。寒い中、寝巻きにたった一枚の上着だけで長いこといたのだから。けれどそれを口にする勇気は無い。フェリシアは「仕方ないですね」と返してくれるだろうが、ギュンターはそれほど甘くない。臣下という立場であっても、厳しく躾ける人物だ。
「でも、レオン様、と〜ってもカムイ様にお会いできるのを楽しみになさっていましたよぉ……」
フェリシアが言う。ギュンターも腕を組んだ。カムイにとってたったひとりの弟であるレオン。彼が北の城塞に来るのは久しぶりのことで、カムイは勿論、フェリシアが言う通りレオンもそのことをずっと楽しみにしていた。それを全部駄目にしてしまったことに、カムイは唇を噛んだ。
「……すぐに連絡を入れましょう。カムイ様は食事の準備が出来るまで休んでいてください」
「すみません……」
「――フェリシア。カムイ様を頼む」
「はあい!」
ギュンターが去り、残ったフェリシアがカムイに微笑みかけた。きっとすぐ良くなりますよ、と続ける彼女にカムイは重い瞼をゆっくりと閉じるのだった。
◆
――カムイ姉さん。カムイ姉さん、起きて。カムイ姉さん。
そんな声が遠くから聞こえる。カムイは時間をかけて瞳を開く。ぼんやりとした世界に、きらきらとしたものが入り込んでくる。世界はゆっくりと輪郭を取り戻していく。赤い、ふたつの瞳が見える。まるで高価な宝石のように見えるそれが。再び、聞き覚えのある声が響いてくる。ああ、これは。カムイはなんとか声を絞り出す。
「レオ……ン、さん……?」
いや、彼がいるはず無い。ギュンターは、連絡を入れると言っていた。今日は確かにレオンが来る日だったけれど、カムイが風邪をひいたことでその予定はがらがらと崩れ落ちてしまったのだ。
それでもカムイの呼声に、その人物は答えた。カムイ姉さん。どこまでも優しい声がカムイを呼ぶ。
「……大丈夫? 随分と酷い風邪だって聞いたけれど」
レオンは姉に問う。まだしゃっきりとはしていない頭で、カムイはなんとか返事を考えた。
「まだ、頭が痛い、です……でも、あの、レオンさん」
わざわざ来てくださったのですか?とカムイが続ける。
「ギュンターは延期にしてくれ、って言ってたけどさ。やっぱり、心配になって。風邪をひくと、心細くなることだってあるだろ? だから、来たんだ。迷惑じゃないよね?」
「ええ……とても、嬉しいです」
「今日はゆっくり休んでよ。僕はここにいるから。不安じゃないでしょ? 誰かがそばにいれば。ああ、あと食事がそろそろ出来るはずだよ。呼んでこようか」
レオンがベッドの隣に置かれた椅子から立ち上がろうとする。カムイは思わず彼を呼び止めてしまった。レオンは驚いたような目をし、それを見たカムイが頬を紅色に染める。すぐにレオンはその意味を理解した。カムイは心細いのだ、レオンが言ったように。ひとりになるのが怖いのだ。彼はそっとカムイの手を取った。発熱している為に、やけに熱いそれを。
「じゃあ、ジョーカーかフローラが来るのを待とう。すぐに来るだろうし」
「……あ、あの、レオンさん」
「なに? 水でも飲む?」
確かベッドサイドのテーブルに水差しが、と手を伸ばすレオンにカムイはこう続けた。
「そうではなくて。……ありがとうございます。王都から、遠いのに」
「どうしたの、改まって。僕ら、きょうだいだろ。幾らでも頼っていいんだよ?」
カムイの手を少し強く握り、レオンは笑んだ。外では雪が深々と降り続いている。彼はそんな中を、愛馬と共に来てくれたのだ。大雪、というほどではないけれど、それでも、王都ウィンダムから遥々北の城塞まで。カムイの頬を涙が伝う。レオンがそれを優しく拭った。時がゆっくりと流れる。まだ頭は痛むが、先程よりはマシになったように思える。それは、彼がすぐ近くにいてくれるからなのかもしれない。カムイはもう一度目を閉じる。少しずつ、ゆっくりと――意識は沈む。カムイが眠りに落ちても、レオンはその視線を逸らさなかった。
◆
やけに懐かしい夢を見たな、とレオンは思い、上半身を起こす。きっとこんな夢を見たのは熱のせい。まだ幼かった自分とカムイの夢。熱を出したカムイを看病する夢。
「ああ、まだ起きちゃ駄目ですよ、レオンさん」
夢と違うのは、風邪をひいたのはカムイではなくてレオンの方だということ。そして、ふたりの関係が血の繋がらない姉弟ではなく、恋人というものに変わっているということ。
月が星界を見下ろす。ここは暗夜王国でも、白夜王国でもない、無数にある異界のひとつ。
「少しは楽になりましたか?」
「あ、うん。薬が効いているみたいだ」
「なら良かったです。あとでお薬をくれたアクアさんにお礼を言っておきますね」
カムイがレオンの額に置かれていたタオルを取り替える。冷たいそれが気持ちいい。
「懐かしい夢を見たよ」
「あら、夢ですか?」
「うん。君が熱を出して、僕が看病している夢」
「まあ、随分と現実的……というか、あの頃の夢ですか?」
くすくすと彼女が笑った。あの時は心配と迷惑をかけましたね、と付け足すカムイにレオンは「そんなことないよ」と続けた。
「確か、あの時は初雪が嬉しくて……体を冷やしちゃったんですよ」
「え、そうなの?」
「言っていませんでしたっけ」
「初耳だよ」
レオンも笑った。熱はだいぶ下がっているようだ。先程よりは、ずっと。
「どうして初雪がそんなに嬉しかったの? 北の城塞は冷えるから、ウィンダムより降るだろうし……そう珍しいものでもないでしょ」
問いかけるレオン。カムイは少しだけを間をおいて、こう言った。
「……雪遊びをしたかったんですよ。レオンさんと一緒に。降ったばかりの雪で」
「へえ、そうだったのか。でも、あの時は出来なかったね」
「そうでしたね。でもその一週間あとくらいに、エリーゼさんと三人で遊びましたよね。楽しかったです」
またあんな日が戻ってくればいいのに、とカムイの目は言っている。今は戦時中だ。暗夜王国と白夜王国の戦争は、まだ終わりそうもない。カムイは夜刀神を、レオンはブリュンヒルデを。それぞれの思いを胸に武器を手に取ったのだ。それでもいつか戦いは終わる。その後の世界で――平和な世界で、微笑み合えることを願っている。
「レオンさん。私、前に本で読みました。初雪が積もらないように、初恋は実らないと。でも」
私の初恋は、そうカムイは言葉を切った。触れ合ったのは手ではなく、唇。まだ熱いそこに、さらなる熱を灯す。
「――いつまでも、一緒にいてくださいね」
「うん、勿論だよ。雪は溶けてしまうけど、僕らの想いは永遠だからね」
「ええ……早く元気になってくださいね」
カムイの手が、頬へ。ひんやりとしたそれが気持ちいい。レオンは大きく頷いて、それからまた目を閉じるのだった。
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