私の世界は青いらしい

ディミトリ×エーデルガルト

蒼月の章エンディング後/エーデルガルト生存if

2023/05/03 - こくほこにて無配


 僅かに開けられた窓から入り込んでくる風が、水色のカーテンを揺らしている。その先から人々の悲鳴や、ごうごうという炎の唸り声、それから戦闘の音などは一切聞こえてこない。青空には燦々と輝く太陽があって、眩い光の下で、人々は前を見据えて生きているのだろう。
 そう、ここは、現実の世界なのだ。曖昧な夢でも、幻想でも無く。
 私は生きている。彼らとの壮絶な戦いの先で――私は、命を繋いでしまった。暫くの間、深い眠りに落ちていたらしいのだが、遡ること今から十日ほど前に、意識を取り戻したのだ。
 あの日、私は死んだものだと思っていた。死したあとは、地獄の奥底にまで落ちて、朽ちていく定めにあるのだと考えていた。
 だが、どういうことか、現在も私は息をしていて、心臓も動いている。目を醒ました時、私の直ぐ側に「彼」の姿があった。彼は私の目覚めに気付くと、私のことを酷く弱々しい声で「エル」と呼び、手を取り、そのまま項垂れて、固まってしまった。困惑しか無い私の手を彼が解くまで、どれだけの時間を要したことだろう。ディミトリ、と私が彼の名前を口にすると、彼はようやく顔を上げたのだ。どうしてこんな状況に、と問いかける私へ、ディミトリは何も答えてくれなかった。いや、きっとそれが、彼なりの答えだったのだろう。
 あまりにも多くの犠牲を生んだ戦いで、私の同胞は尽く散ってしまった。今の私に、生への執着は無い。フォドラ全土を巻き込んだ戦争を起こしたのは、この私なのだ。あの場所で、私は滅びゆく帝国と、運命を共にするべきだった。歴史ある、アドラステア最後の皇帝として。
「――」
 私は目覚めた時からずっと、王宮の奥深く――この部屋に閉じ込められている。窓の向こうに見えるのは、王都フェルディアの景色。私の世界は、ここから見えるものだけで全部だ。
 女帝「エーデルガルト」は死んだ。この場所で、無様にも呼吸をする私は、かつての私とは違う。けれども、彼がここから私を開放する気が無いことも、理解出来た。民衆が私の生存を知れば、また戦が起こりかねない。とはいえ、このようにして、虚ろに命を紡ぐ日々には、一体、どんな意味があるというのだろう。彼は何を考えて、何を思って、私を生かしているのだろう。寝台に座って、そんなことばかりを考えてしまう。
 そんな時だった、がちゃりと扉の鍵が開けられる音がしたのは。私は、その方向へと目線を向けなかった。誰が来たのかなんて、考えなくてもすぐに分かる。
「……エル、起きているか?」
 彼は――ディミトリは私を呼びつつ、しっかりと扉を閉めた。私と彼だけの小さな世界が、このように構築される。彼の台詞に私は何も返さない。ディミトリもそれは、重々承知の上だろう。
「……」
「……」
 ただただ、静寂が広がる。居心地が良いとは、到底言えない。窓硝子の先では小鳥が高らかに囀っている。そこから感じ取れるように、季節は着実に前へと進んでいて、この街に、冬の痕跡は無かった。と、いっても、私は、この一室からは出られない。故に、時間の流れはあまり関係がない。まるで、植物のように生きる。いや、生かされている。このような日々に、どんな意味があるのか。目覚めた瞬間から、何度も自問してきた。そんな私に、彼はゆっくりと口を開く。
「君には……生きていて欲しい。それが――今の俺の願いだ」
「……それに、どんな意味があると言うのかしら」
 私は硬い声で言った。帝国は、フォドラの大地からその姿を消し、私の為に、多くが死んでいった。そんな血に塗れた私が、のうのうと生きていくことは、許される訳がないはず。今でも、途切れることなく聞こえてくるのだ。耳の奥まで届く、夥しい数の死者の嘆きが。未来を絶たれた者たちの悲痛な叫びが。私のことをずっと、苛み続けている。
「エル。君は、命を取り留めた。生きる意味が無いと、君は言うけれど、俺は……そうではないと思っている。……どうか、俺の為だけに、これからを生きてくれないだろうか。俺は……もう、君のことを――失いたくはないんだ」
 ディミトリの声は震えていた。弱さを一切隠すことなく、彼はただ、私のことを見つめている。アイスブルーの瞳は、何処までも真っ直ぐで、私も彼から目を逸らせなかった。胸の奥が、ぎしぎしと軋みだす。それは、痺れるような痛みを伴っており、この感情が現実であると、突きつけられているかのようだった。
「あ、あなたは――それを……本気で、言っているの……?」
「ああ、俺は本気だ」
 君は、ずっと俺の特別だった、と彼は言う。そして、この気持ちは何があろうと捻じ曲げられることは無い、と。私は目を見開いた。
「……アドラステア帝国最後の皇帝は――エーデルガルト=フォン=フレスベルグは、あの日死んだ。だから……」
 ディミトリはそこまで言うと、一度、言葉を切る。目を瞑って、瞼の裏側にあの日のことを思い描いているのかもしれない。私も容易に思い出すことの出来る、あの時の場面を。
「俺は、君に自由を与えることは出来ない。それに、俺はこの国の王である以上、四六時中、君の隣に居るということも難しい。だが、俺がここに――こうして君の前に居る時は、エル。君のことだけを想い、君のことだけを見ると……そう、誓おう」
 ――お願いだ、君は、君の命を受け入れて欲しい。
 ディミトリの台詞を聞いて、私は胸が詰まりそうになった。
 表向きの死を受け入れて、彼が手に持つ小さな鳥籠の中で、緩やかに時間を重ねていって欲しいのだと、そう、ディミトリは言っているのだ。こんなことが、本当に許されてもいいのだろうか。赤黒い人血で汚れきってしまった私が、多くを救ったいまの彼の側に居て、いいのだろうか。
 彼は――このフォドラの導き手となった彼は、私などではなくて、もっとずっと清い存在と、幸福な未来というものを、誓うべきではないのだろうか。民だって、きっとそういったことを望んでいるはず。ぐるぐると思考を巡らせながら、ディミトリの瞳を見る。彼もまた、じっと私を見ている。窓の向こうで一際強い風が吹いたようで、カーテンがひらひらと揺れた。それはまるで、漣のようで。
「俺は――誰よりも愛しているんだ。君のことを。ずっと前から」
「……ディミ、トリ」
 世界が急激に温められていく。どくんと心臓が揺れた。この鼓動を、私は絶対に受け入れてはならないと思っていたのに。
 本当のことを言えば、私だって、彼に対して淡い恋心をずっと抱いていた。でも、なにひとつ伝えることは出来ないまま、私たちは道を違えたのだ。彼はファーガス神聖王国の為。私はアドラステア帝国の為。共存という選択肢を見つけることは、どうしても出来なかった。残酷な現実を受け入れて、私たちは闘ったのだ。その争いが終わり、軍配は王国へと上がり――その先の現実世界で、彼は私の心を求めているのだと、そう言っているのだ。
「……あなたは、本当に……私で――いいの?」
「ああ」
 弱々しい上に、辿々しい、私からの問いかけ。それに対し、ディミトリは一切の迷いも無く、即答する。じわじわと涙が溢れてきた。熱いそれは、やがて頬を伝って落ちていく。まるで乾ききった大地を潤す、慈雨か何かのようでもあった。
「ディミトリ……」
 気付けば、私は彼の腕の中にいた。彼の体温が直に伝わってくる。彼の全ては逞しくて、それでいて、非常に優しい。ぽろぽろと涙が溢れて、止まりそうにない。背中に手を回し、ディミトリが私のそこを、何度も何度も、丁寧に撫でてくれる。
 彼が言ったように、エーデルガルトという名の女帝は、もうこの世界には居ない。あの頃とは違う私が、彼の近くに居る。何もかも違う。こんな私のことを、彼は愛してくれるのだという。
「……っ!」
 死んでいった同胞は、こんな私を見たら、どのように思うのだろう。もう少しだけで構わないから、彼と在れる日々をこの地で過ごすことを――この青い世界で時を刻むことを、彼らは許してくれるのだろうか。私が、ディミトリという名を持つ青年を、深く愛することを、許してくれるのだろうか。許しを乞うこと自体も――許してくれるだろうか。何度もそんな問いかけを繰り返しながら、私は自分が抱える想いの強さを自覚する。
「……エル」
 改めて、彼が私を呼ぶ。遠い昔を思い起こさせる声に、胸が熱くなった。これから紡ぐのは、生きる希望を絶たれて、無意味に呼吸だけを繰り返す、哀れで愚かしい日々ではない。
 この小さな部屋で、私は彼の為だけに、愛を歌う小鳥になるのだ。私はもう二度と、青空を羽ばたくことは出来ない。けれど――それでもいい。私は断言出来た。凍てつくような孤独に縛られることも、もう、無いのだから。
 このようにして、私の生きる世界は、美しくて、それでいて、優しい青一色で染め上げられていく。
「……ディミトリ。私も――あなたのことを、誰よりも……愛しているわ」
 ここに来て、ようやく微笑うことが出来た私を見て、ディミトリもまた、穏やかに笑ってくれる。もう二度と得られないと思っていた気持ちを抱き締めながら、私は彼の間近に居ることを、自らの意思で選び取ったのだった。
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