サイレントスノウ

ディミトリ×エーデルガルト/銀雪の章エンディング後/両者生存if

 ガルグ=マク大修道院に、深々と雪が降る。
 今年の冬は、非常に厳しいものになるかもしれない。そんな話を、いつだったか青年は耳にした。何処で聞いたかまでは覚えていないが、故郷のそれと比べれば、大したことは無いのではないだろうか。故郷。浮かび上がった単語に重い息を吐き出す。
「……」
 ひらひらと舞い散る冷たい白を、その金髪の青年は複雑な気持ちを抱えたまま、ぼんやりと眺める。遠い昔を思い起こさせる色の雪片は、今の青年の心の中のように冷たくて、同時に虚ろだった。触れば跡形も無く消えてしまう程に、儚いものだから。

 戦争は終わった―――何度思い返しても、鋭い痛みと喪失に満ちていた、あの戦いの日々には、終止符が打たれている。
 長い歴史を抱くこのフォドラという大地は、紆余曲折を経て、統一されたのだ。その頂点に立ち、そのすべてを導き守ることを誓ったのが、ベレスという名の若い女性だった。
 彼女はアドラステア帝国軍の影で暗躍していた「闇に蠢く者」を打ち倒し、更には力を暴走させて正気を失った、当時のセイロス聖教会、大司教レア――「白きもの」をも鎮めた。彼女が乗り越えたものが、非常に辛い戦いばかりだったのは、言うまでもないことだ。彼女は、どれだけのものを喪ったことだろう。
 誰もが認める力を持っているベレスこそが、この統一王国の初代女王で、青年――ディミトリを保護下に置いた人物でもある。
 ディミトリは死にきれなかった。あの日、アドラステア帝国軍が、ファーガス神聖王国、及びレスター諸侯同盟軍と激突した、グロンダーズの野で。
 自分のことを献身的に支えてくれていた従者も、長い時を共に過ごした幼馴染も、もっと平穏な未来を紡いでいくべきだった者たちも――皆、散っていってしまった。手の届かないところへと旅立ってしまった。
 自分も、彼らのように死ねたら良かったのに、とディミトリは毎日のように思っている。何もかもを失った彼が、唯一失わなかったのが、自分自身の「命」だった。なんて残酷な結果なのだろう、とディミトリは強く思う。このフォドラの大地を、そしてフォドラの人間たちを、いにしえの時代から見守ってきたという女神様とやらは、本当は一切の慈悲など持たないのではないか、とすら思う。口にすることは出来ないけれども。
 ベレスは言う。君はこれからを生きるべきだと。死んでいった者たちの為にも、その命を大切に使って欲しい、と、懇願するように何度も言われた。その度に、ディミトリは苦々しい顔をする。一言で言い表すのは、難しい複雑な表情を、そこに滲ませるのだ。
 翠色の瞳の彼女は、今でこそフォドラの女王という立場にあるが、もともとを辿れば傭兵上がりの教師だった。ひょんなことから大修道院に来て、そのまま士官学校の教師になった。彼女が担当したのは「黒鷲の学級」で、そこはアドラステア帝国を祖国とする者たちの学級だった。
 けれどベレスは、ディミトリやクロードといった、担当外の生徒たちとの交流も、とても大切にしていた。
 深い優しさと、心身の強さを兼ね備えた彼女だからこそ、多くの生徒たちから慕われたのだろう。自分とは大違いだ、とディミトリは思う。仲間を悉く死なせて、守るべき国も守れなかった。ファーガスの為に生きるのだと誓っていた過去の自分も、もういない。何も、残っていない。真っ黒な罪と、紅い血で汚れた命ひとつを残して。
「……ディミトリ。入ってもいいかな?」
 思考を巡らせる彼を呼ぶ声がした。ノックは三回。規則的に鳴るそれは、ベレスその人の登場を意味する。と、言っても、ここに来るのは基本的に彼女くらいなのだが。
 ディミトリは窓硝子の先に向けていた視線を、数秒だけ扉の方へと向けた。返事を待たずにそれが開かれた頃には、ディミトリの目はそちらから逸れている。
 一国の女王が、こんなところへ直々に顔を見に来るのも不思議な話だが、ディミトリは黙したままでいた。まるで、暗く冷たい海底で、朽ちる日を待つ貝殻の破片のよう。
「……」
「……」
 しばらく続いた重苦しい沈黙のあと、ベレスが想定外の台詞を口にした。
「実は、君に会って欲しい人がいるんだ」
 ディミトリはぴくりと反応を見せたものの、口は開かない。今更、誰に会えというのか。もう自分は、王では無い。何を見ても、感情や欲求は浮かび上がってこない。抜け殻よりも虚しい存在の自分に、「誰」が?
「――入ってきて」
 ベレスが指示すると、扉が再び開く。キイ、という普段となにも変わらない音が、どうしてだろうか、妙に遠く聞こえる。
「……」
 姿を見せたのは、華奢な女性だった。
 さらさらとした銀色の髪。ふたつの澄んだ瞳。淡い紅を纏った唇。どれも――見覚えがある。
「……!?」
 動揺と共に、ディミトリは目を見開いた。その目に映し出されたものを疑いたくなった。何故、という二文字が彼の中で姿を見せ、静止していた感情がぐらぐらと揺らぎだす。
 ――エーデルガルト。
 ありとあらゆる意味で、彼が絶対に忘れられない人物。そのエーデルガルトが、自分の前に立っている。
 記憶の中の彼女と違うのは、髪の長さくらいだろうか。目の前の彼女のそれは、肩より少し上のあたりで切り揃えられている。それ以外は彼の記憶と合致した。
「ッ、先生……これは、一体……どういうことだ……!?」
 どうして、彼女がこの場に居るのか。
 そもそも、どうして、彼女が生きているのか。
 エーデルガルトは、アンヴァルの宮城で、ベレスと彼女の仲間に討たれたのではなかったのか?
 もう二度と、会うことは叶わないと思っていた――それなのに。
 そこまで考えて、ディミトリは思う。自分も死にきれなかった。まさか、彼女もそれと同じとでも言うのだろうか。思考回路が麻痺してしまいそうだ。
「……」
 ただ、エーデルガルトはその口を開かない。じっとディミトリの顔を見ているだけで。懐かしい色の瞳。それでも、あの頃の激しい焔を灯す目ではないように見えた。
「すべてを話すと長くなるから、君が聞きたいと思っているところだけを言うけれど」
 ベレスは硬い声で言う。
「彼女は――エーデルガルトは生きている。……君が今も、ここで生きているように」
 手足を引き千切られても、偽りの女神とその眷属、そしてそれに従う者たちと戦うのだと言ったエーデルガルトは、もともと、ベレスの教え子だった。数多くの昼と夜を、共に過ごした者のひとりなのだ。彼女がアドラステア帝国の皇帝となって、世界の殆どを敵に回したあの日まで。
 彼女も在籍していた士官学校での日々を、ディミトリだって、忘れてなどいない。ディミトリが「青獅子の学級」の級長で、エーデルガルトが「黒鷲の学級」で級長をしていた、懐かしくも、思い出せば痛みを伴う記憶である。
 平穏なだけの日々ではなかった。抱えていたものを打ち明け、掲げた野望を叶える為に、エーデルガルトはヒューベルトと共にベレスのもとを去った。フェルディナントや、ドロテアといった学友たちとも道を違えて。
 覇道を貫いた結果、彼女は敗れて――ベレスの手で斃れた。そのはずだったのだ。炎の女帝とも呼ばれた、あのエーデルガルトが「今も生きている」とでも言えば、この世界で生きる大半の者が自分の耳を疑うか、そんなふざけたことを言うのはやめろと窘めてくるだろう。怒りを露わにする者だって、少なくないだろう。あの戦争を引き起こしたのは、彼女なのだから。
「……」
 ディミトリの眼差しも複雑だ。明確な殺意と、煮え滾る憎悪を向ける対象は、他でもないエーデルガルトだったのだから、無理もない。まだ、自分に槍を振るう力が残されていたら、それを彼女の心臓に突き立てたい――そんな風に思うくらいには。
「……エーデルガルト、貴様は」
 声が震える。エーデルガルトの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。ディミトリが彼女に難解な感情を抱いているのと同じで、エーデルガルトの方も似たような何かを、胸の奥に繋ぎ止めているのかもしれなかった。
「ディミトリ。君には、言っておかないといけないことがある」
 ベレスは目を眇めた。言い難いことを言おうとしているのは明らかだった。ディミトリはそれを待つ。彼女の唇がゆっくりと動いた。
 エーデルガルトは「声」を失っている。
 そして、幾らかの「記憶」の混濁が認められる――。
 ベレスはその事実を静かに告げた。そこでディミトリは理解する。ここに居るエーデルガルトが口を噤み、「何も言わない」のではなく、「何も言えない」状態であることを。
 激戦の結果、なんとか命を失わずに済んだとはいえ、代償として、声と記憶の一部を失くしたのだ。それで彼女のすべてが許されるのか、というと――きっと、そうではないだろう。少なくとも、死者は許しの言葉を語らない。ディミトリの胸に燻り続けたものも、消えやしない。
「彼女は、私が保護しているんだ。つまりは、君と同じ状況ということになる」
 同じ、という単語が胸にぐさりと突き刺さるのをディミトリは感じた。
 多分、ベレス自身もこの現実を受け止めるのに、それなりの時間を要したことだろう。「黒鷲の学級」を担任していた彼女にとって、エーデルガルトも大切な生徒のひとりであったから。士官学校で、皆が和気藹々と過ごしていた日々だって――偽りの記録ではないのだから。
「今日はこれくらいにしよう。君にも気持ちを整理する時間も、必要だろうからね」
 そう告げると、エーデルガルトにベレスは目配せをした。
「……だが、先生……俺は」
 ディミトリの喉が震える。何を言いたいのか、自分でも分からない。なにも分からないが――引き止めずにはいられなかった。脳裏に、過ぎ去った遠い過去の自分と彼女がよぎる。髪色も表情もまるで異なる、幼い頃の「彼女」の姿だ。
「ディミトリ。君と彼女には、たっぷり時間がある。そう急ぐ必要はないよ」
 あの頃の君たちとは違う、とでも言っているような口ぶりだった。事実として、そうだ。今のディミトリは「青獅子の学級」の級長でもなく、ファーガス神聖王国の王でもない。ただ、息をして、心臓が動いているだけで――その他は何もない。彼の生存を知るのはベレスと、彼女が信頼を置くごく一部の人間だけ。歴史の表舞台からは、疾うの昔に姿を消した亡霊のような存在なのだから。
 ベレスは扉に手をかける。エーデルガルトもディミトリに背を向けた。銀の髪を揺らす彼女の背中は、驚くほど狭く思えて、ディミトリは何も言えない。
 やがて、ひとり残された彼は唇を噛み締めた。血の臭いと痛みが、現実をディミトリへと突きつける。鋭利なナイフのように深々と。
 エーデルガルトが生きている――。
 それは、ディミトリに数多くのものを芽生えさせた。憎しみの対象だったのがエーデルガルト。しかし、ずっと淡い想いを寄せていた相手もまた彼女――エーデルガルトなのだ。
 エル、と彼は胸中で呟く。遠い昔の自分たちの影がちらつく。永久に戻ることはない、懐かしい光景。
 外では相変わらず、真っ白な雪が舞っていた。
 音も無く、世界の色を変えていく冷たい雪が。



 ディミトリとエーデルガルトの予期せぬ再会から、数日が経ったある夜のこと。
 ディミトリはこの日もなかなか寝付けず、寝台の上で遠い日々を思い起こす夜を過ごしていた。
 たとえ眠れたとしても、見るのは悪夢ばかりだ。失いたくなかったものが奪われる夢しか見られない。いつだって、漆黒の絶望がディミトリの眼を抉じ開け、荒い息と共に目を覚ますのだ。錆び付いた精神が癒やされる夜は、一向に訪れない。
 数多くの同胞が死に、ファーガスという国は滅びの道を辿り、それなのに、何も無い自分が生きている――愚かを通り越して、寧ろ、哀れに感じられる。だが、それが現実なのだと思うと、心というものもひび割れていく気がした。とっくに受け止めた筈の事実は、今でもディミトリのことを蝕んでいる。きっと、永遠に苛まれるのだろう。本当の死が自分に訪れたその先でも。
「……」
 エーデルガルトは、どうしているのだろう。ベレスが言う話によれば、彼女はちょうど隣の部屋を与えられたらしい。そちらから物音が聞こえないか、と意識を集中してみたが、壁の反対側から何かしらの音がすることはなかった。
「……」
 草木も眠る丑三つ時である。流石に彼女も、眠っているのだろう。何色の夢を見ているのか、そもそも穏やかに眠れているのか、まったくもって想像がつかないが。
 ディミトリは寝台から身体を起こした。余計なことばかり考える頭を冷やす為に、彼は一度外に出ることにした。季節はまだ冬の最中で、この時間帯は殊更冷える。だが、極寒の地――雪国ファーガス育ちのディミトリからすれば、さほどのものではない。その国はもう、この大地から消えてしまったけれど。
 ベレスに保護されて暫くは、この部屋から出ることを許されていなかった、だが、今では若干の自由が与えられている。
 といっても、ディミトリに許された行動エリアは、決して広いものとは言えず、それより別の場所に出ることは厳しく禁じられていた。自分は、死んだはずの人間だからだ。彼自身、理解しているので若干の窮屈感は覚えるものの、仕方のないことだと割り切れている。
 歴史あるアドラステア最後の皇帝、エーデルガルトという女がそうであるのと同様に、ディミトリという名の男もまた、この世界から切り離された存在なのだ。

 冷風が吹き付けている。夜闇に沈んだ木々のざわめきが聞こえた。
 ディミトリが足を運んだのは、バルコニー。いまは雪も降っておらず、銀の光を鋭く放つ月が、闇を穿つかのようにその姿を見せていた。その輝きのせいで、星の灯りは大して見つけることが出来ない。
 そして、驚くことに、そこには先客がいた。月明かりの下で、その人物はディミトリに背中を向けている。月光を編み込んだ髪が夜の風に揺れた。ディミトリの足音に、「彼女」がゆっくりと振り返る。
 彼女こそが、そう――エーデルガルトだ。
「――ッ」
 ディミトリは言葉を発せない。声を失くしたのは彼ではなく、エーデルガルトの方だったが、ふたりの間に流れたのは、重い沈黙。それは、吹き付ける風と比較にならないほどに冷たい。
「……!」
 エーデルガルトも目を見開く。ベレスが言っていた記憶障害は、どれほどのものなのか。ディミトリの存在すべてを忘れてしまった、という訳では無さそうだが、細かい部分までは把握出来ていない。
 彼女が歩んだ茨の道。その棘で、どれだけの傷を負って、幾ら血を滴らせたのだろうか?
「……」
 もしかしたら、彼女もまた悪夢に襲われ、満足な眠りが取れていないのではないか。ディミトリはそんな風に考えつつ、一歩前に出た。エーデルガルトの淡い色をした瞳が、やけにくっきりと見える。目前に在るディミトリを見据えたそこには、一言で表すのが厳しい感情が滲んでいた。
 きっと、このエーデルガルトは「覚えている」。ディミトリとの間にあった感情が――互いに向けていたその想いが、ただの憎悪と呼べるものではなくて、もっと違ったものであったと。
 自分たちは、ベレスに保護された身だ。すべてから解き放たれて、思うがまま生きることは出来ない。だが、胸で燻る感情を否定する必要はない。エーデルガルトが一歩前に出た。僅かに詰められた距離。手を伸ばせば、触れられる距離に彼女が――あの、エーデルガルトが居る。
「……エル――」
 彼は思わず、彼女をそう呼んでしまった。
 それは、懐かしい呼び名であり、戻らない日々を思い起こさせる、なによりも悲しい呼び名でもある。
 ディミトリとエーデルガルトがすれ違うことなく、屈託なく笑えていた、そんな遠い日々。戦争が終わり、自分たちの未来は途切れた。命こそ繋ぎ止められたものの、その糸の先に、嘗ての自分たちは居ない。何処を探しても。
「――ディ、ミ……トリ……?」
 声を失くしている。その筈のエーデルガルトが、恐る恐るといった様子で口を開く。掠れた音だった。こんな静寂の中でなければ、聞き取ることが出来ないほどには。
「……ッ!」
 ディミトリが狼狽える。エーデルガルトは何か伝えたそうな目をしたが、それ以上、言葉が発せられることはなかった。いま、その名を声に出来たことが、奇跡と言えるものに近かったのかもしれない。彼女にはもう、音を紡ぐ力が残されていないようだった。だが、それでも。
「――」
 これが――これこそが、何度も執拗に胸を抉った悪夢の終わりだ。明けない夜はないように、目覚めない夢もない、そんな誰かの言葉が静かによみがえる。
 命を繋ぎ止められたことに、何度失望しただろう。呆気なく戦場で死んでいた方がずっとマシだったのでは、と思い込んでいたが、どうやら、そうではなかったらしい。ディミトリはようやく気付く。
 灰色に塗り潰された日々に、柔らかな光が差し込んでくる。先にこの世から旅立った同胞に、ディミトリは謝罪の言葉を唱えた。そして、それに想いを足す。もう少しだけ、待っていてくれないか、と。それをどうか許して欲しい、と。
「エル……」
 ディミトリは、エーデルガルトとの距離を詰める。小刻みに震える手を伸ばす。彼女がそれをそっと掴むと、痛々しく、けれど穏やかな笑みを浮かべる。薄紅の唇が動いた。そこから声が発せられることは無かったが、ディミトリには彼女が何を伝えたいのかが何となく察することが出来た。
 彼女が生きていた。そして、自分の側に居る。こんなにも――近くに。道を違え、異なる理想を掲げ、激戦の地と化したフォドラを生きた数年間。あの頃は、遠く離れ離れになっていた自分たち。
「……俺は、ずっと……ずっと」
 この世の何よりも残酷で、それでいて優しき女神に、ディミトリはあの日以来、初めて感謝の気持ちを抱く。そう、心からの。
「……君に、会いたかった」
 ディミトリの目尻がきらりと光り、熱いものがこみ上げてくる。あの日から一度も流さなかった涙は、幼い頃から、淡い恋心を抱いていた彼女との「再会」でその姿を現した。
「……」
 彼女がこくりと頷く姿が見える。私も同じ気持ちなのだ、と無言の形ではあるが、言っているのだ、エーデルガルトも。短く切り揃えられた銀髪がさらさらと踊る。エーデルガルトの瞳にも、涙が浮かんでいるのが見えた。
 エーデルガルトの失った声や、曖昧に霞んでいるという一部の記憶。それは、そう簡単に取り戻せるものではないかもしれない。
 前者はともかく、後者は失くしたままの方が良いのかもしれない。それくらいには、凄惨な過去を彼女は抱えている。人体実験により、血を分けた兄弟姉妹を亡くしたこと。女帝としてフォドラに戦禍をもたらしたこと。複雑に絡み合う事実は、薄汚れたものばかりだ。
 このような過去から逃げることは、本来許されないし、巻き込まれて死んだ者からすれば――更にそうであろう。だが、彼女は彼女で苦痛を味わっているのだ。耐え難い過去は、じゅうぶんにエーデルガルトの精神を蝕んだ。
「……エル」
 その上で、エーデルガルトは、そしてディミトリは、これから自由ある日々を過ごすことは出来ない。ベレスの与えた小さな籠の中で、安らかに旅立てる日までの時を紡ぐ。
 痛みのない日々ではない。けれど、ささやかな幸せはある。ディミトリは思う、傍らにエーデルガルトの存在があれば――その痛みだって乗り越えられる、と。
 雪がまた、ちらつき始めた。そろそろ戻るべきだろう、互いの部屋に。時間も時間だ。それに、この寒さなのだ、ここに留まっていたら体調を崩してしまうかもしれない。ディミトリはエーデルガルトへ手を差し伸べる。
 以前の彼女であれば、取らなかったかもしれない彼の手。エーデルガルトは、戸惑うことなくその手を取った。ふたりの指と指が絡まり合う。彼のものよりずっと小さな手のひらは、思っていたよりも冷たい。ぎゅっと力を入れる。もう、離れ離れになるのはごめんだ。
 ひとつの陰りもなく、無邪気に微笑えていた自分たちは何処を探してもいない。
 ガルグ=マクで学友たちと過ごしていた日々も、過ぎ去っていった。
 そして、自分たちは国王でも、皇帝でもない。
 今の自分たちは何者にもなれない。
 生きていることすら、公に語ることが出来ないのだ。
 だがこうして、同じ時間を、同じ場所で紡ぐことは出来る――。
 繋いだ手に、ディミトリが僅かに力を入れた。それに応えるようにエーデルガルトもまた力を込める。
 銀雪の中、これからを生きるふたりの未来が少しずつ姿を見せようとしていた。

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