約束はいつかの月夜に

 契約の国に、夜の帳が下りる。凪いだ海に太陽はその身を沈めて、代わりに大地を照らすのは、鋭く光る銀色の月。鳥は群れとなって塒へ戻り、暫し翼を休める。
 そんな璃月の街を、ひとりの女性がゆっくりとした足取りで歩いていた。水色の長い髪を揺らし、つぶらな紫の瞳で前を見据えて。彼女の名前は甘雨という。ここ、璃月という国を統治する「璃月七星」と呼ばれる者たちの秘書である。
 毎日、膨大な量の仕事を抜け目なくこなし、凝光や刻晴といった、七星たちからも全幅の信頼を寄せられる彼女は、実を言うと、普通の人間では無い。半分だけだが仙獣「麒麟」の血を流している「半仙」の女性なのだ。故に、甘雨は非常に長い時間を――三千年を超える時を生きている。可憐な見た目からは、想像することが出来ないだろうが。
 璃月の民が「岩王帝君」と呼び崇める「岩神モラクス」と契約を結び、甘雨は璃月という国の為に尽くしてきた。そしてそれは、これからも変わらない。
 温厚な見た目とは裏腹に、盤石な意思を秘めている。岩王帝君は、甘雨の本質を見抜いており、そんな彼女にだからこそ、今の役目を与えたのだろう。初代「七星」が璃月に現れた、はじまりの時から、彼女は働き続けている。帝君と、帝君との契約は、甘雨にとって絶対のものだ。仙人としての血と、人間としての血の狭間で思い悩む日は多いが、それでも――揺らぐことはない。
 そんな甘雨がふと、足を止めた。前方に知った顔を見つけたからだ。その人物――旅人の方も甘雨の存在に気付き、少々驚き顔で「あっ」と小さな声を漏らしている。旅人のすぐ隣で、ふわりと浮遊するパイモンが、甘雨の名前を呼んだ。久しぶりだなあ、と無邪気に笑いながら。
「ええ、お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」
 旅人は、このテイワット大陸中を巡っている。突如として「謎の神」に奪われた、双子のきょうだいを探し求めて。もうひとりの自分とも、片割れとも言える、肉親と強引に引き裂かれる痛みは、甘雨には計り知れない。
 そんな旅人は、モンドの龍災を解決し、魔神の悪意と水没の危機からここ璃月を救い、人々の願いが奪われていた稲妻でも大活躍をした。次に向かうというスメールや、その先で渡ることになるフォンテーヌ、ナタ、そしてスネージナヤといった国々でもきっと、多くを経験し、活躍するに違いない。
「でも、甘雨がこんな風に街を出歩いているのって珍しいよな? おまえは一体、何をしていたんだ?」
 パイモンが小首を傾げる。旅人も不思議そうに甘雨を見た。淡い金色の髪が夜風に靡く。
「私は……仕事が一段落したので、少し、散歩をしていただけです」
「へえ、そうなのか!」
「お二人は、璃月に来ていたのですね」
 あなた方の最近の拠点は稲妻なのだと聞いていましたが、と甘雨は続けた。鎖国下にあった永遠の国も、いまはその扉を開いている。それもまた、旅人のおかげだという。物語で頻繁に描かれる「英雄」という存在は、旅人のような人物なのではないだろうか。甘雨はそんなことを思う。
「オイラたち、しばらくの間は璃月に滞在する予定なんだ。実はこれから、久しぶりに万民堂でご飯を食べるんだ! へへっ、美味しいご飯……楽しみだな〜」
 パイモンが、きらきらと目を輝かせながら言った。万民堂というのは、料理人である卯師匠が切り盛りする、この街で人気の食事処。彼の愛娘である香菱もまた、父同様に料理の道を突き進んでいる。旅人は、いつも通り食いしん坊な相棒に苦笑しつつ、「甘雨ももし良かったら一緒にどうかな」と誘う。甘雨は、気持ちだけ受け取ると言って、首を何度か横に振った。彼女は菜食主義者であるし、それだけではなく、食事というものにとても気を遣っている。万民堂ならば、野菜料理も充実していることだろうが、それでも、だ。少々残念そうなふたりに、甘雨が「ごめんなさい」と言葉を足した。また次の機会があればその時は、と旅人は言い、そこで甘雨がようやく微笑みを浮かべる。これは、無理をして作ったものではない、純粋で、自然な笑みだ。
「じゃあ、またな〜、甘雨!」
「ええ……」
 ひらひらと甘雨は右手を振った。次第に小さくなっていく旅人とパイモンの背中に。
「――」
 ふたりと会話をしている間も、当然ながら、時間というものは一瞬たりとも休むことなく刻まれていた。更に濃い黒で塗りつぶされた空。街の柔らかい灯りは、夜を進む人々の足元を照らし、朝が訪れる時まで、その視線を逸らさない。甘雨も、その光を辿るように歩いていく。
 先程パイモンに言った通り、甘雨は散歩をしているだけで、これから何かしらの用事がある訳では無い。こうして、あてもなくぶらぶらと歩くなんてことも、今までにあまり経験してこなかった。けれど、たまには悪くないと思えた。
 甘雨のことを駆け足で追い抜いていくのは、見知らぬ青年二人組。仲睦まじく手を繋いでいる若い男女。我が子を抱きかかえて歩いている女性。重たそうな荷を運ぶ船乗り――夜であっても、多くの人々の姿がある璃月港。テイワットの商業の中心であり、多くの富を有するその姿が垣間見えた。この国で生きる数多の生命。そういった人々に、最大の幸福を与える――それが、「七星」の秘書である甘雨に与えられた大切な仕事でもある。

 気付くと、街外れまで来ていた。夜の海は闇色に満ちている。明日の太陽が産声を上げるまでは、その黒に支配されるのだ。
 聞こえてくる波の音に耳を傾けつつ、甘雨は大きく息を吸い込んだ。今日もこうして、過ちを犯さずに一日を過ごせたこと――帝君への感謝の気持ちを束ねて、甘雨は瞼を閉じた。次に連ねるのは、帝君の導きのもと、明日もまた正しく生きられますように――という、遠い昔からずっと変わらぬ願い。甘雨は、岩王帝君への、日々の祈りをかかしたことが無い。
 やがて甘雨は目を開く。視界に広がっていく夜の光景。静寂の中で、彼女は海原に背を向けた。そろそろ戻ろう。予定が無かろうと、あまり遅くなってはいけない。そう思った彼女は璃月港の中心部に戻るべく、歩み出した。だが、彼女の足は比較的早い段階で止まってしまった。背後から声をかけられたのだ、ぴくりと体が跳ねる。えっ、と声を漏らした甘雨は、無意識のまま振り返り、その大きな瞳を更に大きくする。
「し、鍾離……さん……」
 こぼれた声に、彼が頷くのが見えた。鍾離。璃月でも広く知られる葬儀屋「往生堂」の客卿。彼は非常に博学で、様々な分野に精通しており、旅人などからは「先生」と呼び慕われている人物でもある。歩むことを忘れてしまった甘雨の方へ、鍾離が静かに歩み寄ってくる。束ねられた髪や、衣服の裾が、夜の風に揺れているのが分かった。
「ひとりか?」
「え、ええ……」
 答える甘雨に、彼は「そうか」と頷いている。そんな彼にも、同伴者はいないようだ。ふたりの間を潮風が走る。
 このようにして直接会うのは、いつ以来のことになるのだろうか。甘雨は、自身の胸が普段よりずっと早く鼓動することに気付きながら、鍾離のことを見る。背の高い彼の目線は、確かに彼女の方へ降り落ちていた。璃月地域で採取される鉱石のひとつ、石珀にとてもよく似た瞳だ。なんだか、吸い込まれそうな瞳だ、と心の奥で思う。
「何かあって、此処に来た訳ではないのだろう?」
 鍾離はすべてを見抜いているようだ。甘雨は、それに身動ぐ。数秒置いて「そうです」と細い声で応じると、鍾離が自分もそれと同じなのだと発言した。どちらがそうしたのだろう、ふたりの距離が僅かに詰まる。
「ならば少し、話でもどうだ」
 鍾離は言う。瞬く星の下で、甘雨は自分でも驚くほど早く、首を縦に振っていた。彼のそんな提案を、本当は待っていたのかもしれない。彼と遭遇する為に、自分は此処まで足を運んだのかもしれない。「偶然」ではなく、「必然」だったのでは、と考えるのは、少々夢見がちだろうか。
 周囲には、もともとそれほどの目も無かったが、鍾離と甘雨は場所を変えた。旅人とパイモンに、別れを告げたあとに、甘雨がひとり、足を運んだ街外れまで。彼女の視点で言えば、「移動した」、というよりは「戻った」という言葉を使う方が正しいだろう。変わらない波の音。引いては返すそれは、果てしない海原が紡ぐ歌のようだ。
 すぐ隣に立つ、鍾離を見上げる。甘雨は胸の高鳴りをなんとか抑えようとするが、それは、酷く難しい。ずっと会いたかったです、なんて言うのは流石に突飛だろう。甘雨からすれば、偽りのない純粋な感情だが、彼と自分は、そういった関係ではない。甘雨は鍾離のことを好いているが、その逆は全く分からない。
 そもそも、その好意の名前も、今のところは良く分かっていないのだ。月海亭で働く仲間が、別の仲間に対して、恋の悩みを話しているのを聞いたことがある。どのように想いを伝えればいいのか、と悩む彼女に、また別の者が背中を押すアドバイスをしていたのをふと思い出す。結果として、彼女の恋は見事実ったようだが、甘雨はそれに至るまでの過程を知らない。紆余曲折があったかもしれないし、スムーズに新しい関係を得た可能性だってある。
「……甘雨?」
 じっと目線を向けつつも、黙ってしまった彼女の名を、鍾離は呼びかける。不思議そうな目をした彼に、甘雨は何度か首を横に振りながら「なんでもありません」と早口で言った。それを見る鍾離が、僅かに苦笑する。「なんでもない」というのは、咄嗟に出た嘘だろう。彼は、見抜いている。そして彼女自身も、本当はその場を取り繕う、この嘘を発することを望んでいなかったことも、理解している。鍾離はそっと彼女の手を取った。
「えっ……?」
 重ね合わされる体温。甘雨が、戸惑う様子を見せる。だが、手を振り落とすような、拒絶の反応は無かった。
「少し、こうしていてもいいだろうか」
 彼が絞り出した台詞に、甘雨がすぐに頷く。数秒の迷いもなく、返ってきた反応に、鍾離が目を細めた。甘雨も頬を赤く染めながら、重なった手にふたつの瞳を向けている。触れ合っている部分から、その直向きな眼差しから、確かな熱が伝わってきて、このまま――胸に秘めたすべても、届いてしまうのではないか、甘雨は思う。
「お前と居ると、……落ち着くな」
 鍾離が数秒間だけ、目を閉じた。すぐに向けられる瞳に、自分が居る。当然のことなのに、とても嬉しい。
「……私も」
 あなたと同じ気持ちです――そのような言葉を絞り出す。
 もう少し、勇気が持てたら。
 もう少し、強い自分になれたら。
 もっと、心の奥にある、何よりも純粋で、日々膨らんでいくこの想いを彼に届けたい。
 まだ、その時は少し先になるかもしれないけれど。甘雨は固く結ばれた手を見て、そして再び、鍾離の顔を見上げて微笑む。
 そんなふたりのことを、璃月の大地を、変わらない月が見ていた。

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