シビュラの庭

 僕にとって彼女は、一言では言い表すことの出来ない特別な存在だった。彼女との出会いから今に至るすべての過程が運命だったように思える。どうしようもなく愛おしい。彼女の名前はカムイ。闇に閉ざされた暗夜王国と、光に恵まれた白夜王国、そして狭間に揺れる透魔王国。それら三つの国を揺るがした長く悲しい戦を終わらせた英雄――それこそがカムイだった。
 そして今のカムイは、透魔王国の女王様だ。長きに渡る諍いによって荒廃しきっていた透魔を、立て直すのが自らの使命なのだと彼女は言った。親友とも呼べるアクアとともにこの国を導くのだ、とも。女王となったカムイの評判は上々で、彼女は大変努力家で、忙しい日々を送っているのだという。血の繋がらない僕の姉だったカムイは何処へ行ってしまったのか、と首を傾げたくなるほどに彼女は多忙で、ここ数ヶ月一度も会えていない。カミラ姉さんはそんな日々に嘆き、エリーゼも寂しそうな顔を隠せずにいる。暗夜王となったマークス兄さんだって顔には出さないが気持ちは同じだろう、僕たちと。
 あの戦いが終わり、人々はようやくもたらされた平穏な日々を謳歌している。皆が待ち望んでいたのだ。白夜王国にはリョウマ王が、そして暗夜にはマークス兄さんが。新しい時代が訪れたことを喜ばなければならない。それなのに僕はどうしても恋しいのだ、カムイという存在がすぐそばにいてくれた日々が。
 
 雨が大地を叩きつける。昨日まではよく晴れていたのに。そんな話を小声でする兵士たちを追い抜くように自室へ戻る。長い冬が終わり、春が訪れた暗夜王国。僕の部屋にあるテーブルの中央部には、花が生けられた花瓶がひとつ。これはエリーゼが分けてくれたもので、彼女が言うところによると暗夜でしか咲かないらしい。儚げな白い花弁は、どことなくカムイを連想させる。雪の降り頻る北の城塞で咲いていた一輪の花。懐かしさがこみ上げてきて、僕はいつの間にか花へ向いていた視線を逸らした。
 平和で、穏やかで。とても幸せなはずなのに、寂しい。近くにカムイがいないという、ただそれだけで。カムイが自分の足で歩き、その手で救世の刀――夜刀神を振るっていた頃は側にいるのが当たり前だった。その少し前まではカムイは籠の鳥で、僕たちは足繁くそこに通った。どちらも今となっては過去なのだ。今のカムイは女王陛下として生きている。その血のように赤い瞳が見据えるのは僕たちではなく、透魔の民と未来だ。
「……カムイ」
 遂に言葉になって、虚空に漂った。僕は遠くに目を向ける。目に見えるのは殺風景な僕の部屋だけで、カムイの姿をとらえることは出来ない。会いたい。声を聞きたい。そんな我儘な願いばかりが浮かび上がってくる。僕は暗夜の王子だ。兄であり、王であるマークスを支えて、この暗い国で生きていかなければならない。それはずっと前からそういうものだと思ってきた。カミラ姉さんやエリーゼがここを離れる時が来ても、僕だけはこのクラーケンシュタイン城でマークス兄さんを支えていくのだと。
「――レオンおにいちゃん?」
 どれだけ考え事に耽っていただろう。僕を引き戻したのは、控えめなノックの音と、聞き慣れた少女の声。僕のことをそう呼ぶのは彼女だけだ。僕は顔を上げ、彼女に応じる。すると扉が開かれ、見慣れたツインテールが視界に飛び込む。それを纏める黒いリボンもいつもと同じものだ。
「エリーゼ。何か用か?」
「えっとね、マークスおにいちゃんが呼んでいるよ」
「兄さんが?」
 確認するように問えば、エリーゼがこくんと頷く。金色の髪が跳ねた。僕はじゃあ行くよ、といって重い腰を上げる。まだ雨の音は止まない。今日はずっとこんな天気なのだろうか。
「……雨、ぜんぜん止まないね」
 部屋を出た僕に、エリーゼが小さな声で言う。まるで思考を読まれたかのよう。すぐ隣を歩くエリーゼは、以前よりずっと背も伸びた。もう「幼い」という表現は合わないのかもしれない。成長したのだ、エリーゼは。それと同様に時間が流れたことによって、僕も、そしてカムイも。あの頃とは違うのだ。ただ穏やかな関係でいられた日々は、もう、過去なのだ。愛おしい、なんて感情は一方通行の想いで。カムイからすれば迷惑でしかないのかもしれない。そう思うと心が沈んでいく。雨に打たれ、俯く蕾のよう。
「レオンおにいちゃん?」
 何も答えなかった僕の顔を、妹が覗き込む。心配そうな顔をしている。どうしたの、と問いながらも彼女の目の奥には答えが見え隠れしている。エリーゼは妙に鋭い。カムイおねえちゃんのことでしょ、そう続けたエリーゼに僕は目を見開くことしか出来ない。
「もう、ずっとカムイおねえちゃんには会えてないもんね」
「……まあ、それは仕方ないことだけどさ」
「カミラおねえちゃんも同じことを言ってたよ。多分、マークスおにいちゃんもそうだと思う」
 エリーゼが遠くを見た。透魔王国。光と闇のあいだで、佇む世界。
「今でもカムイおねえちゃんは、あたしのおねえちゃんだよ――でも」
「でも?」
「……レオンおにいちゃんには、違うんでしょう?」
「えっ」
 この小さな妹は、全てを見抜いている。僕はなお目を大きくした。
「だって、顔にそう書いてあるもん」
 何を、と問いかけようとした僕をエリーゼの台詞が阻む。
「カムイおねえちゃんに会いたいって、言った方がいいと思うなぁ」
「そう簡単にいかないから困っているんじゃないか」
「それはそうだけど、後悔してからじゃ遅いんだからね」
 エリーゼが僕の道を阻むようにして立ち、そう言った。僕は確かにそうだな、と思いつつ拳を握る。爪が食い込んで痛みを訴えるが、そんなことはどうでも良かった。エリーゼの言う通りなのだ、カムイは女王様で、透魔王国という国を繁栄に導き、統べる立場にある。つまりいつかは誰かを王配とし、新たなる指導者を育てることが義務なのだ。後悔をするところまで行ったら、もう僕の存在は遠いものとなってしまう。
「――もしかしたら、マークスおにいちゃんの用って」
 いつの間にか歩き始めていたエリーゼはふと足を止めた。もう少しでマークス兄さんの待つ部屋、といったところで。ツインテールがぴょこんと揺れた。
「カムイおねえちゃんのこと、かもね」
 そこまで言うと、エリーゼが振り返る。小さな手を振り、別の方向へと駆けていく。残された僕はしばらく立ち尽くした。カムイという存在を心の中に思い描きながら。
 
 ◆
 
 そよ風が小さく開けられた窓から顔を覗かせる。透魔王国にも春が訪れていた。野には緑が生い茂り、花々が我こそはと胸を張るように咲いている。私は羽ペンを走らせる手を止め、窓の向こうへと視線を動かした。穏やかな季節。この仕事を終えたら、一休みしようか。そんなことを思って私はまた書類に目を落とした。
 
 戦争が終わり、私が生きることとなった地は、暗夜でも、白夜でもない、第三の国――透魔だった。すべてがこれからのこの国を導くことが、光と闇の狭間に生きた私に与えられた使命。長い時を過ごした暗夜と、本当の祖国であるという白夜。私はふたつの国に支えられながら生きていくのだ。透魔の女王として。
 アクアさんも一緒だし、フェリシアさんやジョーカーさんたちも力を貸してくれている。白夜王であるリョウマ兄さんと、暗夜王であるマークス兄さんだって私の味方だ。不安が一切無いというわけではないし、本当に私でいいのかという疑問も全部消せたわけではないけれど、それでも私は私なりに頑張っているつもりだ。
「――カムイ」
 数回のノック。はい、と応じた私の前に現れたのはアクアさん。美しい歌声を持つ彼女は私の最大の理解者であり、親友とも呼べる存在。アクアさんの手には見覚えのある封筒。ええと、と言葉を探している私に彼女がそれを手渡してくる。視線をそれに落とせば、やはり見たことのある国章。これは、と漏れた声にアクアさんが答えをくれる――暗夜王国からの手紙よ、と。
「もっと細かく言えば、レオンからよ」
 レオン。彼女の口からこぼれたのは、私にとって特別な人の名前。少し前までは血の繋がっていない弟という存在だった。だが今は他国の王子。その事実を目の前にした時、心には寂しさと同時に、そう簡単には言い表せない感情が浮かび上がった。レオンさんが私の「弟」であったなら許されなかった想いだ。
「じゃあ、私は戻るわ。あなたひとりで読みたいでしょうから」
 アクアさんは意味深な笑みを浮かべて、そしてそんな言葉を残して去ってしまった。私の返事など待たずに。だが彼女の言うことは確かにその通りだったので、アクアさんを呼び止めることはしなかった。
「――レオンさん……」
 私は封筒をそっと撫でる。丁寧な文字にも見覚えがある。引き出しからレターナイフを取り出して、慎重に開封した。中には上品な便箋。手が震えた。レオンさんの言葉に触れるということに。
 親愛なるカムイ女王陛下。そんな書き出しこそ余所余所しいものの、その先に綴られた言葉は懐かしいレオンさんのもの。会いたいという気持ちが滲み出たそれに、思いがけない涙が溢れた。君が国を離れる訳にはいかないだろうから僕が調整をして透魔王国へ行くよ、そんな文字列にこみ上げる想い。居ても立ってもいられない。私はもう一度引き出しを開け、便箋を探す。薄い水色のそれを見つけて、テーブルに置くと、自分でも驚くようなスピードで羽ペンを取る。
 ――レオンさんに会いたい。会って、名前を呼んで欲しい。レオンさん、と名前を呼びたい。声を聞きたい。その目に見つめられたい。
 沸々と沸き起こる感情は、燃え盛る炎のよう。女王だとか、王子だとか、そういったものを遠くに投げ捨ててしまったかのように私の手は想いを綴る。目を瞑ればいつでもそこにレオンさんを描くことは出来るけれど、触れることが出来ないのだ。本当の彼に会えなければ。すっかり冷えてしまったこの手をあたためることが可能なのは、レオンさん。あなただけなのだ、と私はひたすらに想いを羅列した。
 
 ◆
 
 透魔王国でカムイが寂しそうにしているらしい、そうマークス兄さんに言われて、無意識に手紙を書いて数日。カムイから返事が届いた。マークス兄さんの話によればアクアに背を押されたようだ、とのことだったが、カムイが僕に会いたいと思っていたことは事実のようで、心が沸き立つ。
 僕だって寂しかった。カムイに会えない日々は。僕がエリーゼに本音を見抜かれたように、カムイの気持ちはアクアに筒抜けだったようだ。うまく事が運んで、僕は明日、暗夜を発つ。臣下であるゼロと、数人の暗夜兵を引き連れて。
 もうすぐ彼女に会えると思うと、そわそわしてしまう。マークス兄さんには「もう少し落ち着け」と言われてしまったし、カミラ姉さんからも同じようなことを言われた。末っ子のエリーゼは何も言ってはこないが、おそらく兄姉と同意見だろう。僕はもう一度カムイの手紙を読み返し、それからベッドに身体を横たえる。
 明日は早い。それに、そこそこの長旅だ。身体をゆっくり休めるべきなのに、目が冴えてちっとも眠れる気がしない。そう遠くない未来カムイに会えるのだ。僕がずっと恋い焦がれてきた彼女に。カムイが同じ感情を返してくれるかどうかは、断言出来ない。けれど、彼女からの手紙からはそれが見え隠れしていた。あなたに会いたい、というストレートな一文は、恐らくは涙であろう雫で滲んでいた。
 僕は目を瞑った。カムイ。何度、彼女の名前をひとり呟いたことか。僕にとって彼女は姉さんで、だけれども本当はそうではなくて、今は他国の女王陛下で。鮮血にも似た色彩の瞳に映るのは、僕でないと思っていた。しかし、彼女は僕を見ることを望んだ。そのことを考えると僕の心はいっぱいになってしまう。やはり、眠れそうもない。無意識に目が開かれてしまう。そして同時に声にしてしまうのだ、カムイの名を。
 
 もうすぐ夜明けの星が昇る。僕とカムイの未来を繋いでくれるだろうか、その淡い光は。
 そして時が紡がれるのだ、僕とカムイの過去を辿りながら、いずれは新しい未来へと。

 ――運命が重なる時が来る。
title:エバーラスティングブルー
template:朝の病

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