泣きだしたようにふるえる臓があなたを求めている

※ディミトリ×エーデルガルト/蒼月の章エンディング後/エーデルガルト生存if※


 途轍もなく、長い長い夢を見ていた気がする。それも悪夢と表現出来るような――アドラステア帝国の頂に立っていたエーデルガルトは、ゆっくりと瞼を開き、入り込んで来る陽光の眩しさに眉を顰めた。
 此処はいったい何処なのだろう。窓の隙間から僅かに見える景色に、あまり覚えは無かった。けれども、どうしてだろう、ほんの少しだけ、懐かしさを感じた。青で染まった空に、幾つかの白雲。それと、雪だろうか、大地にはその雲と同じ色が残されているのも見える。
「……」
 目を覚まして、十五分程が経過した頃。突如として扉の鍵が開けられる音がした。ガチャリ、という音は無機質で、同時に妙な不快感を抱かせるものだった。
「目が覚めたのですね」
 姿を見せた金髪の女性を、エーデルガルトは知っていた。嘗て、ガルグ=マク大修道院に併設された士官学校で「青獅子の学級」に属し、開戦後はファーガス神聖王国軍の将として戦っていた女性――イングリットである。
 つまり、エーデルガルトにとっては「敵」というカテゴリに無条件で加えられる人物のひとりだ。エーデルガルトは手に力を入れようとしたが、そんな僅かな力もこの体には残されていないらしく、寝台に敷かれた白い布に、若干の皺を寄せることしか出来なかった。
「そう警戒しないでください。私は、あなたに危害を加えるつもりはありません。……と言っても、無理な話でしょうか」
「此処は何処なの? これから、私をどうするつもり?」
 発した声に覇気はない。随分と衰弱したものだわ、とエーデルガルトは心の中で吐き捨てるように呟く。
「此処は王都……フェルディアです」
 イングリットの返答に、エーデルガルトが目を見開く。つまり、自分は捕虜として囚えられたということだろうか。アンヴァルの宮城で、自分は――覇骸という最後の力を使って、彼女や「彼」、そしてその仲間と激戦を繰り広げたはずだ。そして自分は敗れて、彼によって「死」というものを与えられたはずなのだ。身体に深々と突き刺さった鋭い刃。あの痛みは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「二つ目の質問ですが……あなたをどうするか。私には、それをあなたに答えることが出来ません」
「……そう」
 それが「答え」なのね、とエーデルガルトが視線を落とす。そっと左胸に手をあてがえば、確かな鼓動を感じることが出来た。ここは死後の世界では無くて、現実の世界らしい。思考を巡らせるエーデルガルトの前で、イングリットは複雑な表情をしていた。
「――ですから、これから陛下を呼びます」
 淡々と告げるイングリットに対し、エーデルガルトは何も答えない。ここがフェルディアであるのなら、彼女が主君である「彼」をこの場に呼ぶのは、ごく自然な流れであった。エーデルガルトは脳裏に彼の横顔を描く。煌めく金色の髪と、アイスブルーの瞳。彼女が思い出す彼は、隻眼ではない。戻らぬ遠い過去を、どうしても辿ってしまうからだろうか。
「少しお待ち下さい」
 イングリットはそれだけ告げると、再び扉の向こう側へと消えた。入念に鍵が閉められる音もする。施錠されていなかったとしても、今の自分には、この場所から脱走するだけの力すら無いというのに。エーデルガルトは自嘲した。

 それからまた、約十分が経過した。外では青々とした葉を付けた木々が小刻みに揺れている。そよ風が吹いているらしい。
「ようやく目が覚めたようだな」
 彼は――ディミトリは、酷く複雑な面持ちで姿を見せた。戦争が終わったということは、このフォドラの大地を統一し、すべてを導く存在は、彼、ディミトリということになる。イングリットは何も言わずにこの場を離れていく。今の彼女は、王家を護る騎士。恐らくは、扉の反対側で待機するのだろう。
「……私を、どうするつもりなの」
 イングリットにも問い、彼女からは返答が得られなかったそれを、エーデルガルトは繰り返す。
「君はもう、この世に居ないことになっている」
 それは、想定内の言葉だった。女神と、その女神が一部の人間に与えた紋章に縛られた世界を変えることを望んで、エーデルガルトはすべてを敵に回した。その激戦の果てに、負けたのだ、いま目の前にいるディミトリと、その仲間たちに。数え切れない犠牲の上で、自分はまだ息をしている。本当に、どういうつもりなのだろうか、慈悲深きはずの女神――ソティスは何があってもエーデルガルトに何も齎さないようだ。そう、「死」という名の終焉ですら。
「それで、フォドラの王であるあなたは、私のことを監禁でもするのかしら?」
「……」
 返事は特に返ってこなかった。ディミトリは、肯定をしているようでは無いが、否定をしている訳でも無い様子だった。エーデルガルトの薄紫の瞳が揺れる。アドラステア皇帝の為にと、そして、帝国の為にと、一緒に戦ってきた仲間は、尽く散っていったのだろう。ひとりひとりの姿を脳裏に描けば、らしくもなく涙が出そうになった。女神は残酷だ。彼らが死んで、どうして私が生きているのか。もし、贖罪の為に、とエーデルガルトの命を間一髪で繋ぎ止めたというのなら、本当に女神は残忍としか言いようがない。
「……エル」
 ディミトリはいつかのように、エーデルガルトのことを愛称で呼んだ。思い返せば、あの時も――覇骸という異形の力を振るい、彼と最後の激戦を繰り広げて敗れたあとも、ディミトリはそのように呼んでいた。彼女のことを。その直後に、アラドヴァルが彼女の腹部を確かに貫いたのだ。紅く染まる視界、遠ざかる全ての音、押し寄せてくる静寂――あの時、アドラステアの皇帝、エーデルガルト=フォン=フレスベルグの生涯は終わったはずだった。帝国の滅亡と同時に。
「君が生き延びたのには、何かしらの理由があると思わないか?」
「思わないわ」
「少しぐらいは考えたらどうだ」
「幾ら考えても、私の答えは変わらないわよ」
「……強情なところも、昔から……何も変わらないな、君は」
 ディミトリが乾いた笑みを浮かべる。
「……不本意だろうが、君にはしばらく此処に居てもらう」
「どうせ、私には他に行くところも無いでしょう。でも……そうね、あるとしたら……地獄の底、かしらね」
「エル……」
 彼が悲しげな顔に変わる。その顔がどうしてだか、懐かしい。
「君は、生きているんだ……此処で、こうして」
「ただ、生かされているの間違いよ」
 死ぬはずだったのよ、あの時、宮城で――あなたに殺される形で。
 エーデルガルトがぽつりと落としたそんな台詞に、ディミトリは酷く傷付いたような表情に変わる。ディミトリは、帝国とその皇帝エーデルガルトにどろどろとした憎悪を抱いていたことがあるが、悲痛な日々を乗り越えた上で、その呪縛から解かれたのである。寧ろ、今度はエーデルガルトの方がそれに酷似したものに縛られているようだった。
「生きて欲しいと、俺は思っている。エル。君が生き延びた理由を、俺は君と見つけたいんだ」
「……それは無理な話ね。私のことは、さっさと殺せばいいのよ、ディミトリ。あなたが、その手でね。以前のあなたは、何よりも強くそれを願っていたはずでしょう?」
「そんなことを言わないでくれ!」
 彼が声を張り上げた。突然の大声に、エーデルガルトが目を見開く。
「お願いだ、エル……、俺は……もう」
 打って変わって弱々しい声。その上で、今にも泣き出しそうな顔。これには、流石のエーデルガルトも戸惑いを隠せない。その後、室内を満たしたのは沈黙だった。だが、それを破ったのはディミトリでもエーデルガルトでも無く、控えめなノックの音だ。当然のように応じたのはディミトリで、彼はそのまま、部屋を出ていく。去り際に、意味深な眼差しをエーデルガルトへと向けて。「また後で来る」と短い言葉が発せられてから、扉がぎい、という低い音をたてながら閉まる。直後に鍵が回る音がして、エーデルガルトは視線を窓硝子の先に向ける。
「……私に、どうしろっていうのよ」
 生への執着も、疾うの昔に失せてしまった。
 帝国はもうこの世界から消滅している。
「でも……彼は、何を言いかけたのかしら……」
 俺は、もう――その先に綴られるはずだった言葉を知るのは、此処から去っていったディミトリ本人だけだ。
 エーデルガルトは身体を寝台に横たえる。長く眠っていた反動で、体力が落ちているのだ。ただ、座っているだけでも全身が怠くて仕方がない。視界には、王都の青空が入ってくる。澄み渡る美しいその青色は、どうしてもディミトリのことを連想させ、気持ちがほんの少しも、落ち着いてはくれなかった。

 ◇ ◇ ◇


「――それで、ディミトリ。彼女はやっと、目を覚ましたのね〜?」
 榛色の髪をした、穏やかな眼差しの女性が、ディミトリの前に置かれたソファに座って言う。彼女の名前はメルセデス。「青獅子の学級」でディミトリと一緒に多くを学び、それから先に続いていた戦いの日々を懸命に乗り越えた、彼の戦友とも言える存在である。彼女は、フェルディアの魔道学院で教鞭を執る親友のアネットに会いに王都まで来ており、そのついで、という形で王宮に姿を見せたのだ。
「ああ、だが……」
 目を伏せるディミトリ。彼の様子を見て、敏い彼女はすべてを察した。
 エーデルガルトは「生きる」ということを、全く望んでいないのだ。ディミトリに敗北した自分は、潔く死ぬべきだと考えている。戦いで犠牲となった者たちがゆく世界ではなく、真っ赤な血に塗れた者が落とされる奈落へゆくべきだと、本気で思っているのだ。
 そして、ディミトリの方は、それを望んでいない。彼は今も変わらずに、彼女のことを強く想っている――メルセデスはそこまで理解していた。かれこれ長い付き合いになるから、だろうか。ガルグ=マク大修道院。そこが自分たちにとって学舎であった頃、ディミトリの瞳は、しばしばエーデルガルトへと向けられていた。淡い恋心があった、と今になって彼は気付いている。
「あのね、ディミトリ。無責任な言葉に聞こえてしまったら、申し訳無いのだけれど〜……あなたたちはきっと、やり直せると思うわよ」
 メルセデスはゆっくりと続ける。
「だって、あなたもエーデルガルトも、こうして、今も、生きているでしょう……?」
「メルセデス……」
 彼女の言う通りだ、とディミトリは素直に感じた。そう、生きているのだ。自分も、彼女も。たとえ望んでいない生だとしても、それが覆されることは無いのだ。多くを失ったメルセデスらしい言葉だった。同時に、非常に重たく心に伸し掛かってくるけれども。
「あなたの本当の気持ちを伝え続けたら、彼女にだって、いつかは届くはずよ。私は、そう思うわ……」
「……ありがとう、メルセデス。……なんだか、すまないな」
「まあ。どうして、謝るのかしら〜?」
「いつもいつも、お前には……その、弱い部分を見せてばかりだから」
 俯きがちにディミトリが言う。
「あらあら。あなたはもう、立派な王様だけれど〜……ふふっ、昔とあんまり、変わらないところがあるわね」
「……お前が言うのなら……きっと、そうなのだろうな」
 現に、エーデルガルトへの想いにも、何ひとつ変化がない。ディミトリはそれを言わなかったが、メルセデスのことだ、とっくに察しているかもしれない。
「メルセデス。悪いが、少しこの場を離れる」
 ディミトリは立ち上がる。彼の太陽光を編み込んだかのような金色の髪が、小さく揺れるのが見えた。
「ええ、勿論構わないわよ〜。……エーデルガルトのところへ行くのね?」
 ゆっくりと発せられたメルセデスのそれは、問いかけというよりは確認に近いものだ。私は幾らでも待っているからちゃんと話してきてちょうだい、彼女の言葉を背に、ディミトリはエーデルガルトのいる部屋に足を向けるのだった。

 ◇ ◇ ◇


「……また来たのね、ディミトリ。そう頻繁に来なくても、私は逃げないわよ。まあ……逃げられない、と言った方が正しいでしょうけれど……」
 彼女のもとに辿り着いたディミトリに投げつけられたのは、そんな冷淡な台詞だった。ファーガス厳冬期の風にも負けない冷たさだ。けれど、ディミトリはその氷のようなものを飲み込んだ上で、じっとエーデルガルトのことを見据える。彼女は寝台に座って、ディミトリの方に瞳を向けていた。その色合いは昔となにも変わらない。
「俺には、君に伝えたいことがあるんだ」
「また、私に生きて欲しいとか、そういった類の話かしら?」
 エーデルガルトが言い放ち、ディミトリは何度か首を横に振る。その眼差しは一切逸らされることが無い。
「それとは……また、違った話だ」
「そう……。あなたの話を聞くくらいなら、今の私にも出来るけれど」
 カチコチと滞りなく進んでいく時間の中で、ディミトリは覚悟を決めた。
「――エル」
 水色の瞳が揺らぐ。
「俺に、君のことを……これからも、想わせてくれないか」
「なっ!?」
 想定外だったのだろう、エーデルガルトは驚愕した。その顔を見て、ディミトリは遠い思い出を手繰り寄せる。
「俺はずっと、エルのことが欲しかったんだ……」
 運命は、残酷に自分たちを引き裂いていったけれど。
 その輪からようやく外れた今、彼女への想いは勢いを増して燃え盛っている。ごうごうと唸るような音をたてながら。
「だから……俺は――君の生きる理由になりたい」
 これでも、彼女が俺のことを頑なに拒んだら――諦めよう、彼女が遠い空の向こうへ目を向け続けることを。いつか自分がこのフォドラから飛び立ったあとに、全部を託そう。
 ディミトリは深々と頭を下げた。そんな彼にエーデルガルトも酷く動揺している。顔を上げてちょうだい、と何度か叫ばれても、彼はそのまま動かなかった。
「……わ、私は、あなたから……多くを奪ったのよ……? それなのに……そんな私を、あなたは、想っているとでも言うの……?」
「ああ、その通りだ」
 即答するディミトリを見て、エーデルガルトの双眸からきらりとした光が落ちた。その雫を、ディミトリの指先がそっと拭う。
「……ディミトリ」
 遠い過去が脳裏によみがえる。もう戻らないと思っていた、遙かなる記憶だ。
「私で、いいの?」
「君でなければ嫌だ、エル」
 その声は真っ直ぐで、目線もまた同様に揺れることが無い。またしても光がぽたりぽたりと流れていく。視界が、水彩画のように滲んでいる。
 多くの痛みの上に、今があることは充分に承知している。エーデルガルトがしてきたこと。そして、ディミトリがしてきたこと。それらは「正義」だとか、そういった単語で言い表すことは出来ないものだろう。冷たい罪を抱え込んで、これからを生きたい。誰もが待ち侘びた暖かな季節になれば、雪と氷は溶けていく。水という別の存在になって、遅い春を紡ぐ。そのように、自分たちだって変われる。変わっていけるのだ、生きていれば。
 左胸も、急に泣き出したように震えた。エーデルガルトはじっと彼を見つめたまま、自身が彼を求め続けていたことを知った。

公開:2022/06/18
title:失青
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