Sleeping Beauty

※フェリアネ要素があります。


 眩い太陽が昇り、それは広大なるフォドラの大地を遍く照らす。そんないつもと変わらない朝が訪れるはずだった。

「おはよう、メーチェ! ……メーチェ? あれっ、まだ起きていないのかな……」
 フォドラのほぼ中心部に位置する、ガルグ=マク大修道院。それに併設された士官学校の生徒たちが暮らす寮。生徒のひとりで、「青獅子の学級」に所属するアネットは、親友の部屋の前で不思議そうに首を傾げた。何度かノックをしたものの、反応が何一つ無い。しかし勝手にドアを開けるのは、相手がメルセデスといえど憚られる。そもそも、施錠されているかもしれないのだが。
「え、えーと……あたし、先、行ってるよ?」
 アネットのそんな台詞にも、返事は一切無かった。しかし、時間は待ってはくれない。仕方なくアネットは学生寮を離れ、ひとり「青獅子の学級」の教室へ向かう。朝食は早めに済ませているので、食べそびれるようなことは無いが、メルセデスのことがとても心配だ。ただ、夜更しでもして寝坊しただけ――ならば彼女らしくないとはいえ、然程大きな問題ではない。けれど、例えば体調を崩しているとか、そういった理由があるとすれば不安になってくる。
「おはようございます、アネット。……今日は、メルセデスが一緒じゃないのですか?」
 教室に入ると、アネットを出迎えたのはイングリットだった。彼女の隣の席にはアッシュの姿があり、どうやらふたりは雑談をしながら、講義開始の時間を待っているようだった。アッシュもアネットへ挨拶をする。
「おはよう。えーっとね、メーチェのお部屋まで行ったんだけど……全然、反応がなくて……」
 アネットの返答に、イングリットもアッシュも「えっ」と驚きの声を漏らす。こんなことは初めてだ。メルセデスはのんびり屋で、おっとりとしているけれど、決して怠惰という訳ではない。講義をサボるようなことはしないし、一日を正しく過ごせるようにと女神に祈りを捧げるのが日課のような女性である。それは心配ですね、とアッシュが呟くように言ったところで、担任のベレスが「おはよう」と言いながら教室へ入ってくる。道中どこかで合流したのだろう、級長のディミトリと、彼の従者であるドゥドゥーも一緒だ。
「おはよう、みんな――あれ、メルセデスはどうしたの? 彼女が遅刻なんて、珍しいけれど……」
 この場にはまだフェリクスとシルヴァンの姿も無いが、ベレスが口にしたのはメルセデスの名前だった。その視線は当然の如くアネットに向けられている。アネットは、イングリットたちに発したのとほぼ同じことを彼女にも説明した。
「どうしたんだろう。心配だな。でも、もうすぐ時間だし……アネット、この講義が終わったら、私と一緒にメルセデスのところへ行ってくれる?」
「は、はい。勿論です、先生」
「ありがとう、アネット」
 ベレスにアネットが答え、ベレスもまたそれの返事をした直後、フェリクスとシルヴァンも姿を見せた。ふたり揃って少々疲れたような顔をしているのは、おそらく朝早くから訓練場に行っていたからだろう。訓練場に頻繁に通っているのは彼らやディミトリ、それからイングリットなど。彼らが着席すると、タイミング良く鐘が高らかに鳴り響いた。講義開始を告げる音だ。
「……メルセデスはどうしたんだ?」
 鐘が鳴っても右隣の席に誰も居ないことを不思議に思ったのだろう、シルヴァンが言う。その問いに答えたのはベレスで、彼はさっと表情を曇らせる。あのメルセデスが、講義を無断で欠席するほど具合が悪いのだろうか。講義が終わったら部屋に様子を見に行く、と彼女が言って、シルヴァンは「そうですか」と俯く。
 結局、シルヴァンもアネットも、あまり講義に集中することが出来なかった。いや、ふたりだけでは無い。イングリットやディミトリたちも同じような様子なので、ベレスは「今日は少し早いけれど」と前置いて、講義を切り上げた。
「あのですね、先生。ひとつ、お願いがあるんですけど……」
「お願い?」
 ベレスが首を傾げた。濃い色の髪が揺れる。
「俺も、メルセデスのところへ一緒に行ってもいいですか」
「うん? それは構わないけれど」
「……ありがとうございます、先生」
 シルヴァンが深々と礼をした。彼は無類の女好きで、幼馴染のイングリットが「問題児」と呼ぶような生徒のひとりではあるが、ファーガス神聖王国でも屈指の名家――ゴーティエ家の出身だ。幼い頃から貴族として多くを叩き込まれてきたのだろう、こういった所作は大変に丁寧である。それに、彼が仲間を大切にする人物であるということも、ベレスはよく分かっていた。
 ベレス、アネット、シルヴァンが足早に教室を出ていく。残されたディミトリたちは揃って不安そうな顔だ。この「青獅子の学級」の一員として、友であるメルセデスが心配でならないのだろう。
「……何事も無ければいいが」
 ディミトリがぽつんと落とした呟きに、この場にいる全員が同じ思いを抱くのだった。

「――メルセデス? 大丈夫?」
 三人がメルセデスの部屋の前に到着した。代表して担任のベレスがドアを何度かノックする。数回の乾いた音に、やはり反応は無い。ベレスがドアノブに手をかけた。どうやら鍵は閉まっていないようで、木製のそれはキイという音をたてながら開かれた。
「メルセデス?」
 部屋はとても綺麗に整理整頓されている。窓は少しだけ開けられているのだろう、淡い色のカーテンが若干はためいていた。ふわ、と漂うのはテーブル中央部に置かれた花瓶に何輪か生けられた、紫色の花の香りだ。そんな穏やかな光景の中で、メルセデスはベッドに横たわり――眠っている。規則的な寝息が聞こえてきて、それは非常に穏やかなものだったので、ベレスたちは逆に心配になった。改めて時間を確認する。当然、朝寝坊――なんていう時間では無い。
「め、メーチェ……?」
 アネットが恐る恐る親友へ歩み寄る。シルヴァンも一歩前に出た。
「……こ、これは、一体……どういうことなんだ?」
「深く……眠っている、だけ、みたいだけど……」
 シルヴァンの疑問に、ベレスが呟く。
「ど、どうして、目を覚まさないんだろう……ね、ねえ、どうして? メーチェ!」
 震え声を発したのはアネットだ。何度名前を呼んでも、メルセデスが起きる気配は微塵も無い。アネットが彼女の肩に触れて、少しだけ身体を揺さぶった。それでもメルセデスの菫色をした瞳がアネットを見つめることは無かった。明らかに何かがおかしい。
「ど、どうしよう、このまま、メーチェが……メーチェが目を覚まさなかったら……!」
 アネットは叫んだ。その声は普段よりずっと大きく張り上げられたものだったけれど、依然メルセデスに反応は無い。ベレスが「落ち着いて」と声をかけ、「ひとまず、マヌエラ先生を呼んでくるから」と付け足す。
「じゃあ、俺たちはここでメルセデスを見ています」
「うん、お願い」
 ベレスは扉の向こうへ消える。残されたふたりの胸に満ちるのは不安ばかり。アネットの身体が小刻みに震えている。シルヴァンもじっとメルセデスを見つめた。長い睫毛に、滑らかな白い肌。榛色のゆったりとした髪。目を瞑っていること以外は、すべてがいつもと同じだ。
「……」
 アネットが道端の石のように黙り込んでしまう。シルヴァンも、そんな彼女にかける言葉が見つからない。きっと大丈夫だから、という無責任な台詞を発することは出来ない。当然、シルヴァンもそうであることを強く願っているのだけれど。
 
 時間だけが流れた。ベレスは医師であるマヌエラを伴って、シルヴァンたちが思っていたより早く戻ってきた。
「話はここに来る道中、ある程度センセイから聞いたけれど……彼女はいつからこの状態なの?」
 マヌエラは眠るメルセデスをじっと見た。
「昨日の彼女は至って普通でしたよ、いつも通りの時間に食堂で夕食を食べて……俺はそこで彼女と別れました。多分ですけど、その後大聖堂に行ってから、この部屋に戻ってきたんじゃないかな、と」
 シルヴァンがぽつりぽつりと語った。確かに昨日のメルセデスは、特に変わった様子も無かった。アネットとベレスも思い出し、もう一度眠る彼女に視線を落とす。
「……そうなのね。あたくし、このガルグ=マクで、いろいろな人を診てきたけれど、こんなことは初めてだわ」
 何処かに理由があるはずなのだ。理由も無く、こんな状態になるわけがない。マヌエラが腕を組む。アネットは今にも泣き出しそうだ。
「ん、ここに本が落ちているね?」
 ベレスが言った。えっ、と三人の声が揃う。ベレスの視線は床に向けられていて、彼女が言う通り、そこには一冊の本が落ちていた。
「ほ、本当だ……これ、何の本だろう?」
「駄目だ、アネット! 迂闊に触らない方がいい!」
 右手を伸ばしかけたアネットをシルヴァンが制止する。ごめんなさい、とアネットは謝り、手を引っ込めた。もしかしたら、この本に何かしらの理由があるのかもしれない。シルヴァンは直感的に思ったのだ。このフォドラには、至るところに不可思議なものが存在する。その中には、危険なものも数多くあるのだ。
「封魔布を持ってくる。多分、セテスのところへ行けばあると思うから」
「ええ、その方が良いわね、センセイ。あたくしは、シルヴァンたちと彼女を見ているわ」
「……うん、任せるよ」
 ベレスが一旦この場を離れる。残った三人の顔色は優れないまま。
「……だ、大丈夫、だよね?」
「アネット……」
「メーチェ、目を覚ますよね……?」
 アネットが大きなふたつの瞳を潤ませている。シルヴァンも、苦虫を噛み潰したような顔でメルセデスを見た。今すぐにでも、目を覚まして欲しい。穏やかで優しい声を聞かせて欲しい。そう願っているのはアネットも同じだ。

 ベレスがメルセデスの部屋へ戻ってきたのは、十五分ほどが経過してからだった。彼女の手には、封魔の術がかけられた一枚の布。セイロス聖教会の頂点に立つもの――大司教レアの補佐であるセテスのところで借りてきたのだろう。ベレスはそれを使って例の本を包んだ。
「セテスやハンネマン先生にも力を借りて調べるよ。だから、アネット、シルヴァン。そんなに暗い顔をしないで。メルセデスが目を覚ました時、ふたりがそんな顔をしていたら、きっと彼女、心配するよ?」
 ベレスはひょんなことからガルグ=マク大修道院に来て、士官学校の教師になった。全部が偶然のことだった、と彼女は言うけれど、彼女には教師としての素質があったのだろう、こういう時の彼女は本当にしっかりとしていて、頼り甲斐がある。父親と一緒に傭兵として、戦地を転々としていた頃から、様々なことを学んできたのだろうが。ベレスはまだまだ若い女性だ、自分たちとの年の差だって、それほどあるわけでは無い。それでも多くの経験と決断が「今」の彼女を形成しているのだろう。
「俺も調べますよ、彼女の為ですから」
 声を絞り出すシルヴァンは、少し前よりはしゃんとした顔に戻っていた。
「あっ、あたしも! メーチェはあたしの大切な親友ですから! きっと……いいえ、絶対に目覚めさせてみせます!」
 アネットの力強い言葉に、ベレスは大きく頷く。正直なところを言ってしまえば、ベレスも不安だった。だがシルヴァンとアネットは決意を固めたのだ、そういった感情に囚われていてはならない。
「……ひとまず、部屋を出ようか。メルセデスの為にも、早めに調べた方が良いと思うから。それと……マヌエラ先生も忙しいところ、来てくれて本当にありがとう」
 ベレスはそう言って、布に包まれた本を手にメルセデスの部屋を出る。それにアネットたちも続き、扉は最後に退室したシルヴァンの手で静かに閉められた。

◇ ◇ ◇


 アネットたちが「青獅子の学級」の教室に戻ると、そこには級友全員がまだ残っていた。それぞれが机の上に出されたばかりの課題を並べているが、捗っている者は誰一人としていないようだ。羽ペンの走る音は一切聞こえない。
 メルセデスが深い眠りに落ちており、目を覚まさない――学級の面々は、アネットとシルヴァンの説明に、揃って驚いたようだった。
「それで……お前たちはどうするつもりなんだ?」
 いつもはそっけない態度をとるフェリクスが、一番に問いかけてくる。彼は主君たるディミトリのことも「猪」と呼ぶなど、辛辣な面が目立つものの、決して冷淡という訳ではなく、本当は仲間思いの青年である。隣の席に座るイングリットも、その後ろのアッシュも、そしてドゥドゥーとディミトリも不安そうな顔をしている。
「よく見たら、メーチェの部屋には一冊の本が落ちていて……。先生はそれを調べる、って言ってたよ。あたしとシルヴァンも、これから書庫に行って、いろいろと調べることにしたの」
「……書庫?」
「落ちていた本が無関係とは考えにくいですし。もしかしたら、呪いの類かもしれないんでね……」
 首を捻ったディミトリに答えたのはシルヴァン。
「と、言うわけで、俺とアネットはこれから書庫に行く。もし、殿下も何か手がかりを見つけたら、俺かアネットに教えて下さいよ」
「あ、ああ、分かった」
 ディミトリが手短に答え、ドゥドゥーたちも頷く。今日出された課題の提出日はしばらく先だ。ベレスが気を遣ったのだろう。「青獅子の学級」の教え子たちはメルセデスの件で頭を悩ませているだろうし、大切な仲間である彼女を目覚めさせる為に、時間を使いたいと思っているだろうから。
「……おい、シルヴァン、アネット」
 ふたりが教室を出ようとすると、ふいにフェリクスが名前を呼んだ。
「うん? どうした?」
「なに、フェリクス?」
 直様振り返って口々に問うふたりに、彼は普段通りの声で言う――俺も行く、と。少々シルヴァンは驚いた。だが、それについては何も言わず、ただ首を縦に振る。アネットも「ありがとう」と僅かな笑みを浮かべた。二人より三人の方が、調べ物もきっと捗るはずだから。

◇ ◇ ◇


 三人は書庫まで急いだ。中に入ると、独特の空気が彼らのことを包み込む。そんな書庫には先客がいた。「金鹿の学級」に所属する少女リシテアと、「黒鷲の学級」の生徒であるベルナデッタだ。
「アネットにフェリクスとシルヴァン……なんだか、珍しい組み合わせですね」
 先に口を開いたのはリシテアだった。彼女は椅子に座り、分厚く、そして古そうな本のページを捲っている。おそらく理学の本だろう。
「えーっとね、あたしたち、ちょっと、調べ物があって……」
 メルセデスが目を覚まさず、ずっと眠っている。その事実は、他学級の生徒には伏せようということになっていた。事を荒立てたくない、と思っているのは皆が同じだったから。リシテアはそれ以上追求してこない。そうなんですか、と答えてすぐに視線を落とす。読書を再開したようだ。
「ベ、ベルのことは、そのっ、い、いないものだと思ってくださいぃぃ! け、決して皆さんの邪魔にはなりませんからああっ!」
 書庫には全くもって馴染まない声を上げたベルナデッタは、そのまま奥の方へと引っ込んでしまった。彼女は大変に人見知りなのだ。それは士官学校では有名な話。アネットとシルヴァンは苦笑し、フェリクスはわざとらしい溜息をひとつ。
「じゃ、俺たちも探しますか」
 シルヴァンが言い、ふたりは揃って頷く。流石はフォドラの要と言えるガルグ=マク大修道院、これだけの書物が収められているのだ、何かしらの手がかりもきっと見つかるはずと信じて。

「……う、うーん」
 アネットは背伸びをして、手を伸ばす。本棚のだいぶ上の方にある書物がなんとなく気になるが、やや低身長である彼女には到底手が届きそうにない。確か、何処かに踏み台があったような、と考えたところで、聞き慣れた声が彼女の耳に届く。アネット、と名を呼んだのはフェリクス。
「……この本か?」
 彼は長い手を伸ばし、アネットが引き出そうとしていた本を難なく本棚から抜き取る。
「う、うん。……えっと、ありがとね、フェリクス」
 アネットは少しだけ頬を赤らめた。そんな彼女に彼は本を手渡す。随分と古そうな本だ、と表紙を見てフェリクスが思う。指で埃を払い、アネットは本を開いた。びっしりと綴られた文字は、非常に小さくて読みにくい。読書を好まない者が開けば、すぐに頭痛がしてくるのではないかと思うほど。
「あたし、これをちょっと読んでみるね」
「ああ」
 ふたりがそんなやり取りをしている間、シルヴァンも書庫内で本を探していた。
「……」
 シルヴァンは、段々と気分が萎んでいくのを否定出来ない。もしも彼女が、と最悪のケースを想像してしまう。心優しく、まるで春の陽だまりのように穏やかなメルセデスには、幾度と無く救われてきたように思う。いつだって彼女は微笑っていて、シルヴァンはそんな彼女との時間を幸福に思っていた。そんな時間が永遠に奪われるようなことになったら――。
「……」
 手がかりになりそうな本も、一向に見つからない。シルヴァンの心がギシギシと音をたてて激しく軋む。もし、いまもメルセデスが極彩色の悪夢の中で、それから逃れられない状態にいたとしたら――そう思うと苦しくてたまらない。醒めない悪夢ほど恐ろしいものは無い。シルヴァンには、それが痛いほどに分かっていた。

 どれだけ経っただろう。それは、数分間かもしれないし、数十分くらい軽く経過していたかもしれない。その間ずっと、シルヴァンは本棚と本棚の間の通路に立ち尽くしていた。
「――シルヴァン?」
 名前を呼ばれたことで、彼ははっとして我に返る。声をかけてきたのは担任のベレスだった。シルヴァンがあまり良くない考えを巡らせている間に、ここへ来たのだろう。
「あ、先生……」
 アネットとフェリクスは側に居ない。書庫の奥の方にいるのかもしれない。
「さっきの本について、私もいろいろと調べてみたよ」
 ベレスはそう言って、ぐるっと辺りを見回す。深緑の瞳は、アネットとフェリクスのことを探しているようだ。多分、ふたりなら奥の方にいると思いますよ、とシルヴァンが言い、彼女は「そう」と短く答え、彼を手招いてから奥の方へと向かう。シルヴァンはそんな彼女に着いていった。
「……アネット、フェリクス。ふたりもちょっとこっちにおいで」
 ふたりの姿を見つけると、ベレスは静かに呼びかけた。アネットは何冊かの本を抱えている。どれもこれも大変古そうな本ばかりだった。
「――あっ、先生。は、はい、分かりました」
 フェリクスは無言のまま、アネットの背を追う形でベレスの側へと歩いてくる。
「結論から言うけれど――あの本は確かに呪術が施されたものだった」
「呪術……」
 やっぱり呪いのかけられた本だったのか、とシルヴァンは納得した。
「セテスとハンネマン先生にも力を借りて調べたんだけど、幸い、それほど強い術ではなさそうだった。これといって特別な解呪方法は無いけれど――時間経過でメルセデスも目を覚ますはず。そうだね……あと数日もすれば、かな?」
「じゃあ、先生。メーチェは大丈夫、なんですね……?」
「うん」
 アネットは、ベレスの答えを聞き、ようやくホッと胸を撫で下ろしたようだった。当然ながら、こんなことは初めてだったし、メルセデスが何日も、いや何ヶ月、何年と、眠りから目が覚めなかったら、という不安がアネットの心を酷く縛り付けていたからだ。
「でも、どうしてメルセデスはそんな本を……」
 シルヴァンの疑問はもっともだ。何故、メルセデスがそんな呪いの書物を手に取ってしまったのか。そもそも、何処でそんなものを見つけてきたのか。
「それは分からない。目が覚めてから本人に訊いてみるしかないだろうね」
「……だが、ひとまずは安心だな」
 フェリクスが素直な言葉を発する。その表情はいつもよりも穏やかなものに見え、シルヴァンもアネットも僅かに笑んだ。ものすごく複雑な魔術によるものだったり、長い時間が経っても術が解けないようなものであったりしなくて良かった、とアネットは言う。そんなアネットが抱えている本は、如何にも難解そうな魔術書ばかり。早い段階でベレスが答えに到達して良かった、と彼女は思っていることだろう。幾ら読書家とはいえ、これだけの本を読み解くのはアネットであっても骨が折れただろうから。
「じゃあ、私は仕事に戻るよ」
「は、はい。先生、ありがとうございました」
「またあとで、メルセデスの様子を見に行ってくれると助かる」
「ええ、分かりましたよ、先生」
 ベレスは教え子たちにひらりと手を振って、足早にこの場から離れていった。彼女はいつだって忙しそうにしている。一体いつ休んでいるのだろう、と心配になることもあるくらいだ。講義の無い日だって、ガルグ=マク大修道院内を駆け回っている様子を頻繁に見かける。
「俺たちも戻るか」
「……ああ、そうだな」
「あ、その前に、あたしは本を片付けないと……」
 アネットは抱えた本に視線を落とす。書庫のあちこちでいろいろと見つけてきた本だが、ベレスが答えを見つけてくれたので、これらを読む必要は無くなった。
「……手伝おう」
 フェリクスが言う。え、いいの、とアネットが言えば「お前の背では届かないかもしれないだろう」と続けた。確かに彼の言う通りではある。
「えっと、じゃあ……お願いしてもいい?」
「ああ、構わん」
 シルヴァンには、ふたりの頬が少し赤らんでいるように見えた。思わず「へえ」と声を漏らす。何だ、とフェリクスの鋭利な視線が即座に訴えてきたが、シルヴァンは何も答えることはなく、「俺はお先に失礼するよ」と言ってこの場を離れていく。邪魔者になりたくないからな、という台詞は喉元に押し込んだ。シルヴァンの心を支配していた不安という名の雲は流れ、代わりに広がったのは、早く彼女に目覚めて欲しいという強い願いだった。

 その日の晩。シルヴァンとフェリクス、そしてアネットは、食堂に集まった「青獅子の学級」の仲間たちにメルセデスの件を話した。命に関わるようなことでは無かったこと、そして時間経過で彼女は目を覚ますだろう、ということにディミトリたちもようやく安心したようだった。少しでも早く目覚めるといいですね、と言ったアッシュに皆が頷いた。

◇ ◇ ◇


 それからの日々は緩やかに過ぎ去っていった。アネットは毎日、メルセデスの部屋に行き、彼女の様子を確認する。特に魘されているようなことは無く、メルセデスはすやすやと眠っていて、安堵するのと同時に、少しでも早く目覚めて欲しいという思いが溢れた。
 シルヴァンはというと、自分からメルセデスの部屋に赴くことは無かったが、アネットへ頻繁に彼女の件を聞いた。彼は酷く彼女を心配しているようだった。そういえばここ最近、ふたりは一緒にいることが多かったような、とアネットは思ったものの、それを指摘することも無かった。尋ねても、彼はきっと「同じ学級の仲間を心配するのは当たり前のことだろう?」というもっともな返答をするだろうから。

 そしてまた、数日が経過した。理学の講義が終了した後、そろそろメルセデスが目を覚ましてもいい頃かもしれないね、とベレスは言う。この教室に集う学級の皆が、彼女の目覚めを待っている。
「ねえ、シルヴァン。ひとつお願いがあるんだ」
 アネットが近付いてきて、シルヴァンは「何だい?」と首を傾げる。「青獅子の学級」の教室からはひとり、またひとりと生徒の姿が減っていく。皆、食堂に向かっているのだろう。そんな中、正午を告げる鐘が鳴った。
「悪いんだけど、メーチェの様子、見てきてくれないかな?」
 彼女は言う。何でも、昼食後、買い出しの当番でガルグ=マクの街まで出ることになっているという。今回は買うものが多いから、大修道院へ戻るのが遅くなるかもしれない。そう続けるアネットへ対し「勿論構わないよ」とシルヴァンが返答した。
 教室にはまだフェリクスの姿もあり、どうやら彼は、アネットとシルヴァンの会話が終わるのを待っているようだ。アネットと同じ当番なのかもしれない――そんなシルヴァンの勘は的中する。アネットはシルヴァンに礼を言ってから、フェリクスに「行こう」と微笑む。
「じゃあ、また後でね。シルヴァン」
 アネットがフェリクスと共に教室から姿を消す。シルヴァンもこの場から離れ、そのままの足でメルセデスの部屋に行くことにした。昼食はその後でもいいだろう、極端に遅くならなければ、食事にはありつける。

 今日もガルグ=マクは快晴だ。青空の下を彼は歩いていく。風が心地良い。木々もざわざわと揺れている。なんとなく空を仰げば、純白の翼で翔けるペガサスの姿が数頭見えた。訓練中なのだろう、きっと背中にはペガサスナイトが乗っているはずだ。

 そうやって辿り着いたメルセデスの部屋の扉の前で、シルヴァンは一度大きく深呼吸をした。それから数回ノックをする。コンコン、という乾いた音に返事は無いが、それは想定の範囲内。シルヴァンは「入るよ」と断ってからドアノブに手をかける。
 キイ、と音を立てて扉は開かれる。シルヴァンは眠るメルセデスに近付いた。寝息が聞こえてくる。どうやら、彼女はまだ眠りの世界にいるようだ。ベッドサイドテーブルには中身がなみなみと入った水差しとひとつのグラス、紅い花の生けられた花瓶がある。アネットが置いておいたのかもしれない。シルヴァンがじっとメルセデスのことを見た――その時だった。
「んっ……」
 メルセデスが短い声を漏らしながら、ゆっくりと瞼を開く。菫色の瞳は少々虚ろで、シルヴァンの方に向けられているものの、彼の存在をしっかりととらえられているのかは定かではない。
「やっと目が覚めたんだな。メルセデス、大丈夫かい?」
 シルヴァンは優しく問いかけた。彼女は時間をかけて上半身を起こす。窓硝子の向こうに、鳩が何羽かで飛んでいくのが見えた。
「ん……シ、ル、ヴァ……」
 目の前にいる彼の名を発そうとする彼女の声は掠れている。無理もない。シルヴァンは水差しに入っているそれをグラスに注ぐと、メルセデスに差し出す。長いこと眠っていたのだ、喉はきっと灼熱の砂漠を彷徨っている者と同じくらい、乾ききっているだろうから。メルセデスは受け取ったグラスの水を飲み干すと、ぐるりと辺りを見回した。変わらない自室の光景に安心したのか、彼女はほっとしたような顔になる。
「メルセデス。君は、何日も何日も眠っていたんだ。……覚えているかい?」
 シルヴァンが手短に説明をする。呪術が施された書物のせいで深い眠りに落ちてしまったこと。それを、ベレスが突き止めたこと。アネットをはじめとした級友たちがとても心配していたこと。そして――自分もまたメルセデスの目覚めを待ち侘びていたということ。
「……そう、だったのね〜」
 今度の声ははっきりと聞き取れる。みんなに心配をかけてしまったから、あとでちゃんと謝らないといけないわね。メルセデスはそのように呟く。彼女の目には、普段と変わらない光が灯されていた。そんなメルセデスを見てシルヴァンは安堵し「良かった」と小声で言う。張り詰めていた心がほぐれていく。
「それで、メルセデス。あの書物について、分かっていることがあったら教えてくれないか?」
「……ええ。あの本はね、大修道院の書庫で見つけたのよ〜。私、課題の参考にしよう、と思って、戦術の本を探していたのだけれど……偶然、本棚からあの本を引き抜いてしまったの。なんだか、すごくあの本に惹きつけられてしまって、気付いたら本を手に取っていたわ……」
 上手く説明が出来ないのだけれど、とメルセデスは申し訳無さそうに言う。だが、シルヴァンはなんとなく分かった。呪いは彼女があの本を手に取った時点で発動していたのだ。どういった呪術かまでは分からないし、何故そんな呪術が施されていたかも不明だが、メルセデスは呪いによって惹き寄せられ、本を開き――そして深い眠りに落ちてしまったのだと。
「でも、君が、目を覚ましてくれて、本当に……本当に、良かった……」
 シルヴァンはこみ上げてくるものを抑えきれない。瞳から熱い雫が溢れて、やがて頬を伝い、落ちていく。メルセデスはそんな彼の手を取った。自分のものより一回り以上大きな手だ、それは確かなぬくもりを孕んでいる。
「……シルヴァン」
 メルセデスがぎゅっとシルヴァンの手を握る。彼の涙がきらりと光っているのが見えた。
「あのね、シルヴァン。私、眠っている間、幾つもの夢を見たのよ〜。その中にはね、あなたが出てくる夢もあったわ〜。あなたは、ちょっと離れたところから、私の名前を何度も繰り返し呼んでくれていて……私は、そんなあなたのことを追いかけていたのよ〜」
 そして、追いついたところで、眠りから覚めたのだと彼女が言う。つまり、今回最後に見た夢がシルヴァンとの夢だったらしい。シルヴァンが潤んだままの目で彼女を見れば、彼女は「ありがとう」と変わらない微笑みを見せてくれた。シルヴァンも涙をごしごしと拭って、メルセデスに笑ってみせるのだった。
 一方その頃。アネットとフェリクスの姿はガルグ=マクの街にあった。思っていたより手際良く買い物を済ませられたような気がする。荷物を抱えているのはフェリクスで、アネットはメモに視線を落とした。
「うん、これで買い忘れは無い、はずだよ!」
「……はず、では困るのだが」
 フェリクスのどこまでも正直な台詞に、アネットは苦笑しつつも「そうだね」と答えて、もう一度確認する。確かに大丈夫だ。頼まれたものはすべて購入出来た。それをアネットが改めて言葉にすると、フェリクスは小さく頷く。アネットは自分も少しぐらい荷物を持つ、と言ったのだがフェリクスは「それは俺の役目だ」と言って聞かなかった。
 街は多くの人々が行き交っており、とても賑やかだ。これが買い出しでなければ、街角のカフェにでも入って、美味しい紅茶とケーキを楽しんだり出来たのかもしれない――アネットはそんなことを思ってしまう。それに、フェリクスと一緒に街に出るのは本当に久しぶりのことで、まだ彼女の心臓はいつもより早く鼓動をしているようだった。
 ふたりは並んで歩いている。自分たちの学び舎であり、居場所でもあるガルグ=マク大修道院は、もうそう遠くない。その時だ、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐったのは。いったいなんだろう、と思ってアネットの視線が動く。耳に入ってくるのは若い女性たちがはしゃぐような、そんな高い声。
「……あれはお菓子屋さん、かな?」
 アネットが小首を傾げながら、店の方に近付く。そこは確かに菓子屋のようで、その店から甘い香りが漂ってくる。甘いものがアネットは大好きだ。対照的に、フェリクスはそういったものを苦手としている。その為、彼は眉を顰めた。
「ねえ、フェリクス……」
 彼女が何を言いたいのかは、即座に分かった。ちょっと寄り道してもいいかな、と想像通りの台詞を続けられて、フェリクスは息をひとつ吐く。好きにしろ、と答えるとアネットは目をきらきらと輝かせた。菓子程度でそこまで喜ぶのか、とフェリクスが呟いたのなど、彼女には聞こえていないだろう。
「メーチェにもお菓子、買っていってあげたいなぁ」
 アネットもそうだが、親友もまた甘いものが好きだ。その好みは、完全に把握している。そんな彼女が目を覚まし、普段通りの日々を取り戻したら、甘くて美味しい菓子をたくさん用意して、久々に茶会がしたい。イングリットも誘ってみようかな。先生にも声をかけようかな。それを想像しただけで、アネットはとてもわくわくした。
 アネットが菓子に夢中になっている間、フェリクスは店の外で彼女を待っている。甘いものに興味は一切無い。だが、それに少々浮かれるアネットは可愛らしく見えた。頬が少し熱い気がする。
「おまたせ、フェリクス!」
 アネットが戻ってきて、フェリクスは「ああ」と答えた。アネットは、フェリクスが想像していたよりもかなり大きな包みを抱えている。お前はどれだけの量の菓子を買ったんだ、と少々呆れ顔のフェリクスだったが、今回はその台詞を喉の奥まで押し込んで「帰るぞ」とだけ言った。アネットは「うん」と歩みだした彼を追いかけ、すぐに追いつき、隣を歩く。今回は当番での買い出しだったとはいえ、充実した時間を過ごせたように思えた。それに、とフェリクスは隣のアネットを見た。彼女は微笑っている。そんな彼女の姿が見られたのだ、改めて良い時間だったなと彼は密かに思う。
 太陽が西に傾き始めていた。あまり遅くなってはいらぬ心配をかけてしまう、ふたりは早足で大修道院を目指す。

「――アン」
 そうこうしているうちに辿り着いた、ガルグ=マク大修道院の門の前。そこで、榛色の髪をした女性がひらひら手を振っている。隣には赤い髪の青年がひとり。メルセデスとシルヴァンだ、勢い良くアネットは駆け出した。衣服が翻ってみっともない、なんてことは忘れて。
「メーチェ! 目が覚めたんだね、良かった……!」
 アネットのつぶらな瞳に涙が浮かぶ。
「たくさん心配をかけて、ごめんなさいね、アン」
「ほんとだよ! あたし、メーチェがこのままずっと、ずっと、目を覚まさなかったら、どうしようって……すごく、不安で……」
 メルセデスは少しだけ目を伏せ、涙声の友に対し、もう一度「ごめんなさい」と言った。フェリクスに対しても、彼女は同じ言葉を告げる。もう大丈夫なのか、と彼は問い、メルセデスは力強く頷いた。彼女の答えに、フェリクスもアネットも、そしてシルヴァンもほっとしたようだった。
「これから私は、先生のところへ行ってこようと思うのよ〜」
 先生にもたくさん心配をかけてしまったし、とメルセデスが続ける。そして、改めて級友たちに頭を下げた。揺れた淡い色の髪。浮かべられた柔らかな笑み。穏やかな光を灯す瞳。薄紅色の唇。何も変わらない。いつものメルセデスだった。
「じゃあ、また後でね、メーチェ」
「ええ」
 三人に暫しの別れを告げて、メルセデスは歩き出す。この時間であれば、ベレスは私室に居るだろう。ずっと眠っていたせいか、歩むスピードが普段よりも少々落ちているような気がする。

 ベレスの部屋の前まで来ると、メルセデスはノックをする前に一度深呼吸をした。
「メルセデスよ。先生、入ってもいいかしら〜?」
 彼女のノックと声に、どうぞ、と反応はすぐ返ってくる。メルセデスは失礼します、と丁寧に言ってから扉を開けた。ベレスは椅子に座っており、書類に目を通しているようだった。お仕事中だったかしら、邪魔になってしまったらごめんなさい――そのようなことをメルセデスが言う前にベレスは羽ペンを置き、教え子の方に向き直る。
「目が覚めたんだね、メルセデス。何事も無くて本当に良かったよ」
 以前のベレスは感情に乏しいような、そんなところがあった。特に、このガルグ=マク大修道院に来た直後はそれが顕著だった。だが「青獅子の学級」の担任教師として日々を積み重ねていくうちに、彼女は変わっていった。こんな風に、優しげな微笑みを浮かべる姿を見せるようになったのだ。それはとても自然で、見た者に好印象を与える。
「先生にも、心配と迷惑を、たくさんかけてしまったわね〜……ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。もう身体は大丈夫かな」
「ええ、少し身体が重いような気はするけれど……そんなに辛くはないわ〜」
「……そう。なら良かった」
 でも、暫くはあまり無理をしないようにね、とベレスが足せばメルセデスも大きく頷く。
 窓の向こうの空が赤い。夜が少しずつ近くへと来ている。空気も時間をかけて温もりを手放す。
「……私よりも、シルヴァンが酷く心配していたよ」
 ベレスの口から出た名前に、思わずメルセデスは「まあ」と声を溢れさせた。眠りから覚めた直後に会ったのも、彼だった。長い眠りの中で、最後に見た夢も、彼が出てくるものだった。それだけ、彼の存在はメルセデスにとって大きなものだったのだろう。今の今まで、ちゃんと自覚していなかったけれど――もしかすると、随分と前からそうだったのかもしれない。幾度と無く、シルヴァンには支えられてきたから。
「改めて、これから彼にお礼を言いに行くわ〜」
「うん、そうしてあげて」
 大きく首を縦に振ったベレスに、メルセデスはふわりと微笑んだ。夕食前にシルヴァンに会えるだろうか。寧ろ、今すぐにでも彼に会いたい。食堂でみんな揃った場面では、きっとこの想いを発することは出来ないだろうから。

◇ ◇ ◇


「――シルヴァン、居るかしら〜?」
 メルセデスは彼の部屋の前まで来て、扉を数回軽く叩く。すぐに「どうぞ」と答えが返ってきて、メルセデスが扉を開けた。シルヴァンは椅子に腰掛けていた。鳶色の瞳をメルセデスに向け、穏やかに微笑ってみせる。彼の部屋に来るのは久々のことかもしれない。机の上には幾つもの本が積み重ねられており、インク瓶も置かれている。そして、彼の手には羽ペン。おそらくは課題を解いているところだったのだろう。彼は、軽い男のように振る舞うことも多々あるが、本質的には真面目で、課題や講義にも熱心に取り組む。シルヴァンは羽ペンを置き、メルセデスへ椅子に座るよう促してくる。
「身体は大丈夫なのかい?」
「ええ。あなたにも、心配をかけてしまったわね〜」
「いいんだ、気にしないでくれ。メルセデス、君が無事なら、俺はそれだけで……」
 再び込み上げてくるものを、シルヴァンは必死で堪えた。メルセデスを相手に、涙ばかりを見せることは出来ない。
「……ねえ、シルヴァン。今回のことで私、気付いたことがあるのよ」
 メルセデスが真っ直ぐにシルヴァンのことを見ている。改まってどうしたのだろう、と彼は彼女を見た。少しだけ彼女の頬は赤らんでいる。
「私にとって、あなたは――シルヴァンはとても……大きな存在なんだ、って」
 彼女の声は少しだけ震えていた。けれど、向けられた目には強い光が宿っていて、シルヴァンは心が揺れるのを感じた。無意識に、彼の唇は彼女の名前を形作る。
「だから、私は、これからも……あなたの側に居たいわ……」
 深い眠りから覚めた彼女は、確かに今、彼の傍らに居る。少し手を伸ばせば、触れられる距離に。
「……ああ、俺も、君に……側に居て欲しいよ」
 シルヴァンの返答へ、メルセデスが嬉しそうに笑う。まるで、伝染したかのように彼の顔も赤い。
「ふふっ、あなたと同じ気持ちだなんて、なんだか、とっても嬉しいわね〜」
 そんなふたりの間には、故郷に降り積もる白雪のように、時間というものが落ちていく。シルヴァンとメルセデスの関係が変化したわけではない。今も、彼らは同じ学級で学ぶ「友」という関係にある。だが、確かに距離は狭められており、以前よりもずっと互いの存在は大きなものとなっていた。

◇ ◇ ◇


 メルセデスが目を覚まして数日が経った。目覚めた直後は剣術の稽古等の激しい運動は控えていたけれど、今ではすっかり元通り。今日は比較的早い時間に講義が終わる為、アネットはそんなメルセデスと、友人のイングリットを茶会に誘った。その後、担任であるベレスにも声をかけ、教え子たちからの誘いに、せっかくだからと彼女も大きく頷いた。今回はアネットの部屋に集合、ということになっている。
 今日の講義は戦術についてのものだった。なかなかに難しい内容だったが、これもまた自分たちに必要な知識。アネットたちは教室の片付けをするベレスを手伝い、それが終わると四人は揃ってアネットの部屋へと向かう。教室を出る際、まだ残っていたシルヴァンは「楽しんできてくださいよ」と笑って言い、フェリクスは特に何も言わずに彼女たちを見送った。
 アネットは部屋の鍵を開け、三人にも入るよう促す。とても片付けられている部屋である。机の上には花瓶が一つ。そこでしゃんと胸を張っているのは、温室での水やり当番だった時に管理人から分けてもらったという青い花。メルセデスとイングリットが椅子に座り、ベレスも続く。アネットは手際良く紅茶と菓子を用意する。菓子は数日前、フェリクスと一緒に街に出た時に購入したものだ。それをバスケットに入れてテーブルに置けば、メルセデスが「まあ」と声を発する。
 熱い紅茶をティーカップに注いでいく。芳しい香りがふわりと漂って、皆の顔が緩んだ。何の茶葉にしたのとベレスが問えば「今日はベリーティーにしたんですよ」とアネットが答える。これは、親友が特に好きな茶葉のひとつだ。優しい甘みと程よい酸味が特徴的なものである。全員にそれが行き渡ると、いただきます、と彼女たちが声を揃えた。茶会の始まりだ。
「美味しい……」
「ええ、とっても美味しいわ〜」
 イングリットとメルセデスが口々に言う。ベレスも「うん」と大きく頷いている。お菓子もたくさん用意したから食べてくださいね、とアネットは言って、自分もバスケットの中身に手を伸ばす。砂糖菓子を口に運べば甘みがふわりと広がって、なんとも幸せな気分になれた。
 メルセデスやイングリットも、それぞれ菓子を手に取って食べており、揃って笑う。ベレスはというと、教え子たちと穏やかに過ごせる時間に喜びを覚えて、彼女たちの様子を見る目を細めていた。
 四人での茶会。ベレスは基本的に聞き手に周り、アネットたちがにこにこと笑ってお喋りに興じる姿に改めてほっとする。メルセデスが深い眠りに落ち、目覚めずにいた頃。アネットだけではなくイングリット、それからシルヴァンといった面々は大きな不安の渦に飲み込まれていた。呪術は時間経過で自然と解けるものだったとはいえ、あの数日間は重苦しく、氷のように冷たく「青獅子の学級」の生徒たちに伸し掛かっていた。あの頃の教え子たちの表情を思い出せば、ちくりと心が痛みだすほどに。それはつまり、彼女と学友たちの間には固い絆が結ばれている、ということでもあるのだけれど。

 時を刻む鐘が鳴り響いた。楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。ベレスが腰を上げる。そろそろ私は失礼するよ、と言う彼女に三人が残念そうな表情を浮かべる。教師であるベレスは何かと忙しい。これからやらねばならないことが、幾つか残っているのだ。
「私も、もっと君たちと話していたいけどね。アネット、ごちそうさま。……それじゃあ、また」
「は、はい、先生。またよろしくお願いしますね!」
 代表してアネットが返答し、メルセデスとイングリットは頭を下げる。ベレスの去った一室で、今度は三人での茶会が始まる。今日の講義のこと。提出期限が少しずつ迫っている課題のこと。そういった如何にも学生らしい話題だ。士官学校での日々は大変に充実している。難しい課題や長い講義、勿論そういった大変なこともあるが、それでもこのガルグ=マクに来て得たものは多いと全員が思っていた。

 ベレスが立ち去って、半刻ほどが経過した頃。
「もう一杯どうかな」
「そうね、私はいただこうかしら〜?」
 じゃあ淹れるね、とアネットがメルセデスのカップに紅茶を注ぐ。再び漂う香りに、メルセデスは嬉しそうな顔をしている。イングリットはというと「私はそろそろ訓練場に行こうと思うので」と言ってから「今日はありがとうございました」と律儀に頭を下げつつ、礼の言葉を続けた。高潔な騎士になることを志す彼女は、頻繁に訓練場に足を運んでいる。
「じゃあ、また……夕食の時、かな?」
「はい。では、失礼しますね、アネット、メルセデス」
「ええ〜、またね、イングリット」
 イングリットが扉の向こうへ姿を消し、室内に残ったのはアネットとメルセデスのふたりだけ。彼女たちは互いに相手を「親友」として認識している仲だ、話題に困ることも無いし、気心の知れた関係でもある。メルセデスはカップに唇を寄せ、温かい紅茶を飲んだ。アネットも自分のカップに紅茶を注いで、それをゆっくりと飲む。なんて穏やかで、和やかな時間だろう。
 そんな彼女たちの茶会は、しばらくの間続いたのだった。

◇ ◇ ◇


 訓練場には、熱心に武器を振るうフェリクスとディミトリの姿があった。彼らの目は真剣そのものだ。そんなふたりの前に、金色の髪を揺らしながらイングリットが姿を見せる。彼女はまず恭しく頭を下げ、ディミトリが彼女の名前を呼び、そしてフェリクスの瞳も幼馴染の存在を捉えた。彼女は彼らの訓練を中断させてしまったことに詫びたが、「気にしないでくれ」とディミトリは言う。
「……お前は、アネットたちと一緒では無かったのか?」
 そう問いかけてきたのはフェリクスだった。先程は大して興味の無い様子だったが、ちゃんと彼女たちの話を聞いていたらしい。イングリットは「ええ」と答えてから「途中で抜けてきたのよ」と続けた。「そうか」とだけ答えたフェリクスが遠くを見つめる。何か、思いを巡らせているようだ。それはなんだか、彼らしくない表情に見える。幼馴染として長い時を共に過ごしてきたが、これまでにあまり見たことのない顔のように感じられた。イングリットが小首を傾げて、ディミトリの方に目を向ければ、彼もまた不思議そうにフェリクスのことを見ている。
「……何だ」
 流石にフェリクスも視線に気付いたようで、睨むような顔付きに変わった。ディミトリとイングリットが顔を見合わせる。この場にもうひとりの幼馴染、シルヴァンがいたら余計面倒なことになった――かもしれない。ディミトリとイングリットは同時に思った。
「いや、何でもない」
 ディミトリの口からは、そんな返答がこぼれ落ちる。フェリクスが誰のことを考えていたのか。それはディミトリにもイングリットにも分かる。アネットだ。同じ学級で同じ教師に学ぶ少女、アネットのことを、フェリクスが何かと気にかけていることは、少し前からなんとなく察していた。だが、ここ数日はそれが特に見て取れたように思う。親友のメルセデスが突如として深い眠りに落ち、気を落とすアネットのことをフェリクスは案じていた。いつも、太陽のように眩しい笑顔を見せていたアネットの顔に暗雲が広がっていく様子を見たフェリクスの心にも、鈍色の雲が姿を見せたのだろう。書庫で調べ物をすると言った彼女に付いていったのにも、その辺りに理由があったのかもしれない。数日間という時間を要してメルセデスが目を覚まし、アネットがそこでようやく笑顔を取り戻して、「青獅子の学級」にいつもの日常が返ってきた。その日常風景の中に描かれるアネットの姿が、フェリクスにはこれまで以上に鮮やかに見えているのではないか。そのようにディミトリやイングリットは考えた。いや、きっと彼らの級友全員が同様に考えているだろう、それくらい彼は良い意味で変化した。
「……俺は行く」
 そのフェリクスが短い言葉を残して、訓練場を離れていく。ディミトリが背中に声をかけても、彼は特に何も応じず、姿を消してしまった。本来であれば、もう暫くここで剣を振るっていただろうに。
「殿下……」
 イングリットが申し訳無さそうな顔をする。フェリクスは不器用なのだ。特にこういったことに対して。それを、随分と長い付き合いになるイングリットやディミトリは分かっている。
「ああ、あまり気にするな、イングリット」
 ディミトリはそう言って苦笑する。それより、もう少し付き合ってくれるか、と続ければイングリットは頷いてみせる。ええ、私で良ければ。即座にそう答えた彼女に、ディミトリは感謝の気持ちを声にするのだった。

◇ ◇ ◇


 訓練場を離れたフェリクスは、特に行くあても無く大修道院を歩いた。中庭まで来ると、ベンチにシルヴァンとメルセデスが並んで座っているのが見えた。彼らは何やら会話を楽しんでいるようで、メルセデスの上品な笑い声が風に乗ってフェリクスの耳まで届く。どうやらふたりはフェリクスの存在には気付いていない。何を話しているのかまでは分からないが、なんとも仲睦まじく話をしている。以前より彼と彼女の距離が狭まっているのは明らかで、フェリクスは彼らに気付かれる前にここから去ろうとしたのだが、うっかりシルヴァンと目が合ってしまい、彼が「フェリクス」と名を呼んできた。幾ら何でもここで無視をする訳にいかない。
「まあ、フェリクス。訓練の帰りかしら〜? 少し顔が赤いわね?」
 そんなに長いこと剣を振っていたのね、ご苦労様、とメルセデスは言う。顔が紅潮しているのはアネットが原因なので、それは的外れな発言ではあるのだが、そういうことにしようとフェリクスは「ああ」と素っ気無く答える。それからすぐにフェリクスは、ふたりの前から立ち去るつもりでいた。いい雰囲気を醸し出す彼らの邪魔にはなりたくないし、そもそもこの場にいる必要性も見つけられなかったから。だが、腐れ縁の幼馴染はこんな言葉を発した――アネットならここにはいないぞ、と。何もかもお見通しということだろうか、シルヴァンの発言にフェリクスはたじろぐ。間の抜けた声が無意識に発せられ、更に頬が熱くなる。
「あらあら、フェリクス。あなた、アンに用事?」
 メルセデスがのんびりと言う。そこだけ漂う空気の色が違うようにも思えた。フェリクスが返事に困っていると、メルセデスはこう続けた。
「ふふっ、アンも、フェリクスのことを探していたわよ〜?」
「そ、そうなのか……?」
「ええ」
 アンもフェリクスに何か用事があるのかしらね。メルセデスの言葉は何処と無くふわふわとしている。その直後、ざあっと強い風が吹き抜けて三人の髪を揺らした。緑の木々もざわめく。フェリクスは「邪魔をした」と言うと、すぐにこの場を離れていった。
「それにしても、あのフェリクスの奴が、ねえ……」
 シルヴァンがぽつりと言う。その隣でメルセデスは微笑み、でもきっと良いことよ、と続ける。シルヴァンはフェリクスがそういった感情を抱くようになるとは、今まで思っていなかった。「ダスカーの悲劇」で、血の繋がった兄グレンを亡くしたフェリクス。彼ら兄弟の関係は、然程悪いものではなかった。自分たちとは大違いだ、彼らも片方だけが「紋章」を宿していて、似通った境遇だったというのに。あれから一種の影を抱えるようになった彼が、このガルグ=マクでアネットという女性に巡り会って、おそらく初めての恋を知ったのだ。昔はそういった話題になる度に眉を顰め、真逆を行くシルヴァンに対して冷たい視線を寄越してきたフェリクスが。
「でも、これからに期待、かしらね〜?」
 彼らの関係が急激に変化するとは考え難い、ということだろう。シルヴァンもそれには同意見なので頷く。それより、とメルセデスはシルヴァンに真っ直ぐな目を向けた。春の野に咲く菫と同じ色の瞳には、彼の姿だけが映し出されている。
「私、眠っている間に、あなたの夢を見たと言ったでしょう?」
「あ、ああ。確かに聞いたよ」
「実はね、もっともっと、たくさん夢を見たの〜」
「へえ、どんな夢だい?」
 シルヴァンは問う。数日間にも及ぶ長い眠りだったのだから、たくさん夢を見た、という点に疑問は無い。
「それを、ひとつひとつ、お話してもいいかしら? あなたは、何度も私の前に姿を見せてくれたから……」
 時間がかかってしまうかもしれないけれど。そう続けた彼女に、彼は自分の左胸が大きく鼓動するのを感じた。メルセデスも、先程のフェリクスのように頬の色が紅色に染まっている。フェリクスはアネットと絆を結んで、自分はメルセデスと絆を結べているように思う。しかし、まだ、その絆に明確な名前を付けるまでは至っていない。大修道院のどこかで顔を合わせていると思われる彼らも、今こうして並んで座る自分たちも。
 だが、きっと、その時が来ることを信じようと思える自分も確かに居る。御伽噺に登場した眠り姫も多くの夢を見て、目覚めた時に愛を得た。メルセデスは、目覚めと同時に何かへ気付いたのかもしれない。
「……ああ、俺は君の話なら――幾らでも聞きたい」
 シルヴァンはそう言って微笑んだ。


2021/10/07

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