ロイヤル・ブルーにさよならを

 タルティーン平原。そこは今から千年以上前の遠い時代――聖者セイロスが解放王ネメシスを討ち、逆転勝利した場所として広く知られる。そして、ファーガスという国を建国した英雄ルーグが、時の皇帝を討った地でもある。つまり、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド率いる王国軍にとっては最重要地点でもあった。
「……」
 もうすぐ、タルティーンの野に出発する。ファーガス神聖王国王都――フェルディアの小さな教会でメルセデス=フォン=マルトリッツは祈りを捧げていた。彼女は敬虔なセイロス教の信徒であり、ディミトリやエーデルガルト、そしてクロードといった面々と同時期に、ガルグ=マク大修道院の士官学校に在籍していた。アドラステアの女帝、エーデルガルトが突如として反旗を翻し、日常が奪われ――フォドラの大地に戦の炎が燃え広がるその時まで。
 そんなガルグ=マクで同じ「青獅子の学級ルーヴェンクラッセ」に属し、共に多くを学んだ友人――フェリクス=ユーゴ=フラルダリウスと、イングリット=ブランドル=ガラテアの死を、メルセデスは受け止めきれずにいる。白銀の乙女との異名を持つ、城塞都市アリアンロッド。帝国はそこに攻め入り、フェリクスとイングリット、それからロドリグやコルネリアといった将は皆討たれた。
 フェリクスは無愛想で、ぶっきらぼうな青年だった。だが、本当は仲間を大切に思う優しい心の持ち主で、ディミトリの為にと剣を振るっていたのだ。そして、イングリットもまた仕えるべき王の未来を望んで最期まで戦い抜いた。メルセデスからすれば、同性の友人であったイングリット。彼女とはたくさんの思い出がある。学生時代、一緒に茶会を催して楽しんだり、街に出て買い物をしたり、食堂で美味しいものを食べたり――今思えば、あの頃は本当に幸福だった。戻れるものならば、戻りたい。その願いを女神は叶えてくれない。それは痛いほどに分かっている、分かっているのだ、メルセデスの頬に涙が伝う。
「――メルセデス?」
 突然、名前を呼ばれた。その声は聞き慣れたものだった。えっ、と少々間の抜けた声がこぼれてしまう。組んでいた手をもとに戻し、振り返るとそこには赤毛の青年がいた。
「シルヴァン……」
 彼は、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ。メルセデスにとって、とても大切な仲間のひとり。ファーガスでも指折りの名家出身の彼は、先の戦いで命を落としたフェリクスとイングリットと同じく、ディミトリの幼馴染でもある。
「君はやっぱり、ここにいたんだな……」
 シルヴァンはゆっくりとメルセデスに歩み寄る。教会の静謐な空気を揺らすのは、彼ひとり分の足音。
「……泣いて、いたのかい?」
 彼の問いに、メルセデスは答えなかった。いや、答えられなかった。彼女の目は赤く充血しており、少々腫れているようにも見える。戦争というものはあまりに残酷だ。多くの命が奪われ、フォドラは悲鳴で包まれている。涙が大地に染み渡り、真っ赤な血はあちらこちらにこびりついたまま。シルヴァンは黙り込んでしまったメルセデスを、そっと抱きしめる。そのまま、彼女の震える背中を優しく撫でた。
「シル、ヴァン……わっ、私、とても……怖いのよ……」
 メルセデスが涙で濡れた声を発する。
「これ以上、大切な人を……失いたくないのよ……!」
 彼女には前々から、自分の死よりも、仲間の死を恐れているふしがあった。フェリクスが、そしてイングリットが帝国の者の手にかかり、ふたりは遥か遠くへ逝ってしまった。シルヴァンも酷く苦しい。彼らはもういない。フォドラの何処を探しても、彼らには会えない。二度と、だ。フェリクスとは死ぬ時は一緒に、とすら約束をしていたのに。騎士として国の為に、王の為に死のうと。
「……俺も、同じさ。君と同じ気持ちだよ、メルセデス」
「……ごめんなさい、シルヴァン。こんな風に弱音を吐いてしまって。でも、どうしても……考えてしまうのよ。フェリクスもイングリットも……あなたも、アンも、ディミトリたちも――昔みたいに、みんな一緒に笑い合える日が……来てほしかった、って」
 いまは戦時下。アドラステアの軍勢はファーガスをじわじわと侵食しつつある。数刻後には、メルセデスもシルヴァンも、タルティーン平原に向けてフェルディアを発つことになっている。
「俺は、あいつらの仇討ちをしたいと思っている」
「……」
「あいつらの死を無駄にしたくない。フェリクスの奴も、イングリットも……無念だったに違いないんだ」
 シルヴァンの声は震えていた。怒りと哀しみが、色濃く見える。幼少期から、彼らは一緒だった。フェリクスの兄であるグレンが「ダスカーの悲劇」で命を落とした時に彼らは誓ったのだ、彼の分もあわせて、ディミトリのことを守り抜いてみせると。
「それに、メルセデス。君にも、生きて欲しい。俺が守りたいのは、陛下だけじゃない。ファーガスという俺たちの大切な祖国と……そこで生きる君を含めた仲間を、守りたいんだ」
「シルヴァン……」
 泣き腫らした彼女の顔を映すシルヴァンの瞳も濡れていた。残酷な現実に、彼らは苦しみ藻掻いている。戦いなんて本当は避けたい。だが、帝国に屈することは許されない。帝国軍には見知った者も多い。傭兵上がりの教師だったベレスに、ドロテアやフェルディナントたち。それなりの交流があった者があの軍にはいるのだ。そして、違う未来を望み、違う理想を掲げている。頂に立つ者も、違う。
「いつだったか、君は言っていたよな。俺のことを守ってくれる、って。代わりに自分のことを守ってくれ、って」
 シルヴァンは僅かに笑みを浮かべた。
「約束を果たすよ、メルセデス。だから、君も――」
 そんな彼に、メルセデスもやっと淡く微笑んだ。それは、春の野に咲く花のようにシルヴァンの目には映った。いつか、彼女に見せてあげたい。故郷――北方の地ゴーティエ。ファーガスでも特に寒冷なあの場所だけに咲く白い花を。
「……そろそろみんなの所へ戻ろう。確認とか、準備もしないと」
「そうね。行きましょう、シルヴァン」
 差し伸べられた手を、メルセデスは取った。自分のものよりずっと大きく、ごつごつとしているけれど、それが放つぬくもりは何処までも優しかった。



 ディミトリやドゥドゥーといった仲間たちの待つ一室。そこにシルヴァンとメルセデスが戻ると、ディミトリは「全員揃ったな」と辺りをぐるりと見渡した。少し前までは、ここにフェリクスとイングリットもいた。彼らの空白を埋められる者は、何処にもいない。フェリクスがいたところ。そして、イングリットのいたところ。そこに大きな穴が穿たれているかのようだ。
「先に、次の闘いについて話しておく。アッシュ、アネット。お前たちは、フェルディアで、もしもの時の為に控えていてくれ」
 彼は静かに言った。
「俺たちは、タルティーンで帝国軍を迎え撃つ。……必ず、必ずそこで奴の首を斬り落としてやる」
「……でも、陛下!」
 悲鳴にも近い声を上げたのはアネットだった。
「大丈夫だ、アネット。俺は……俺たちは奴らになんか負けたりはしない。お前とアッシュ、それからギュスタヴたちが王都に残り、俺たちの街を守っていてくれれば、安心して闘うことが出来る」
 ディミトリは優しさの残る声で言った。泣き出しそうなアネットの隣で、メルセデスが俯き、そしてすぐに顔を上げた。大丈夫よ、と穏やかに続ける彼女はアネットを普段通り「アン」と呼んだ。涙目でアネットもメルセデスを見、「メーチェ」と声を絞り出した。
「必ず……絶対に、戻ってくるよね?」
「ええ。私が、嘘を吐いたことがあるかしら〜?」
 メルセデスの声は優しい。
「……ううん、無いよ。メーチェはいつだって本当のことを言ってくれるよね。……分かりました、陛下。あたし、ここで待ちます。みんなのことを」
「ああ、頼んだ。街の人たちを守ってくれ。アッシュも、な」
「は、はい。僕たちで必ず、守ります。僕たちの王都を……」
 アッシュも力強く頷いた。カチコチと時計の針が進んでいく。そろそろ時間だ。ドゥドゥーがそれを告げ、ディミトリやシルヴァンたちが外へ出る。空は分厚い雲で覆われていて、この国の象徴たる青は見えない。
「……どうか武運を」
「――ありがとう……では、行ってくる」
 そうして、ディミトリたちと共にメルセデスはフェルディアを発つ。馬に揺られながら思うのは、今となっては遠ざかっていく一方の穏やかだった時間。そんな彼女と並走するシルヴァンもまた、複雑な表情で前を見据えていた。



 雨が降り始めたのは、タルティーン平原に到着する少し前だった。ディミトリやドゥドゥー、そしてシルヴァンがそれぞれの位置につき、エーデルガルト率いる帝国軍を待ち構える。メルセデスは空を見上げた。鈍色の雲はそう簡単には去っていかないだろう。冷たい雨は、容赦無くタルティーンの野を打ち付けていく。メルセデスは援軍を任されていたので、タイミングを見計らって、剣と剣がぶつかり合うそこへ出ることとなる。
 
 アドラステアの旗が――帝国軍の姿が見え、メルセデスは杖を握る手に力を込めた。ディミトリが声を荒げるのが聞こえた。戦いの時だ。自分たちの信じる道が未来へ続いていることを望み、ファーガスとフォドラのこれからを願い――戦いの火蓋が切って落とされる。
「……アン。必ず、あなたのもとに帰るわ。みんなと……一緒に。それでまたあなたと――」
 メルセデスは祈るように呟き、戦場へ駆け出すのだった。



 雨が激しくなる。冷たく、大地を責めている。人が人を殺す醜悪な現実を嘆いているのかもしれない。
「メルセデス。出来れば君とは、戦いたくなかったよ」
 戦地に立つ彼女の前に姿を見せたのは、ベレスだった。彼女は「黒鷲の学級アドラークラッセ」の担任としてエーデルガルトたちに多くを与えた存在だ。けれど、メルセデスだって彼女と話すことはあったし、一緒に熱い紅茶と甘い焼き菓子を楽しんだことだってあった。
「先生、ごめんなさいね〜。私は……あなたの味方にはなれないわ」
 ベレスは尊敬する人物だ。けれど、それでも彼女が帝国の旗を掲げ、エーデルガルトの理想を信じるというのなら、戦わねばならなかった。
「こんな私にも、守らなきゃいけないものがあるの……」
 国を守る為に闘うディミトリのこと。
 王都フェルディアで待つ、アネットとの約束。
 無念にも散っていったイングリットの願い。
 そして――淡い想いを寄せているシルヴァンとの未来。
「だから、先生。あなたに負けるわけにはいかないわ〜」
 メルセデスは手を掲げた。そこに魔力を集中させる。ベレスもまた剣を握りしめ、大地を蹴った。
「私は、絶対に……みんなが生きるこの国を……ファーガスを守るわ……!」
 冷雨はやまない。更に激しく降っている。メルセデスはひらりとベレスの攻撃を避けた。何度も、何度も。そうしているうちに体力は削れ、身体は甲高い悲鳴を上げている。
「きゃああああっ!」
 次の攻撃は、避けきれなかった。メルセデスが絶叫する。強く剣を握る目の前のベレスは、苦しそうな顔をしていた。やや離れた場所にいたシルヴァンが、その声の方向をちらりと見、彼女の名を叫ぶ。彼は目の前に立ち塞がった帝国兵を押しのけ、泥濘んだ大地に崩れ落ちるメルセデスを、ギリギリのタイミングで抱き上げた。
「メルセデス! メルセデス……! 大丈夫か!?」
 シルヴァンは何度も彼女を呼ぶ。まだ、自分たちはこれからだ。平和を取り戻し、一緒に生きていきたい。天上の女神に永遠の愛を誓って――皆に祝福の言葉を貰って、それで。
「シ、シル、ヴァ……」
 メルセデスの腹部には裂傷があった。そこから赤いものが溢れて止まらない。やめてくれ、嘘だと言ってくれ。シルヴァンは続ける。メルセデス、死なないでくれ。彼は青褪めたメルセデスの頬に手をあてがう。
「……ごめん、なさい……わた、し……」
「くっ……メルセデス、喋らないでくれ、メルセデス! 今、今、治療を――」
「……ううん、言わせ、て。シルヴァ、ン……」
 彼女はなぜか微笑んだ。その笑みは痛々しくなど無い、穏やかで、春風のような笑顔だった。
「あり、がとう、シルヴァン……大好き、よ――ずっと……」ずっと、あな、たのことを――あなた、だけを……」
「メル……セデス……!」
 あの傷が致命傷なのはすぐに分かった。けれど、信じたくなかっただ。メルセデスが遠くへ逝ってしまう。グレンにフェリクス、イングリットの待つ、色のない世界へ。何度もシルヴァンがメルセデスの名を叫んだ。だが、彼女は――動かなくなった。菫色の瞳は閉じられ、白い腕はだらりと落ちて。シルヴァンは彼女の身体を激しく揺さぶる。信じたくなかった。この現実を。だって約束をしていたじゃないか。アネットだって、王都で待っている。
「メルセデス!!」
 シルヴァンは泣いていた。雨に涙が混じって、そのまま落ちゆく。彼は強くメルセデスを抱きしめた。彼女が逝ってしまった。何も果たせずに、このフォドラから消えてしまった。幾つもの死を経験して、ここまで来たけれど――一番深い喪失と、哀しみと、そして彼女を奪った者たちへの憎悪がシルヴァンに押し寄せる。
「うわああああああ!」
 シルヴァンは怒りのままに、携えた武器をベレスに振りかざす。雨の音も、何も聞こえない。彼女の心臓の音が消えてしまった世界は、痛いくらいに無音だった。

 彼は、彼女の旅立ちから少しの間をおいて――この世界から去っていった。泥に伏す彼の傍らにメルセデスが倒れている。血と涙、そして雨が落ちたそこで、彼と彼女は寄り添うように崩折れていた。
「……」
 ベレスが、そして彼女の同胞が、悲痛な目をしてそれを見下ろす。どうしてこんなことに。そう問いかける資格は無いのだとベレスは思いつつ、胸の中で呟いた。少し離れたところで、主君を守る力を求め魔獣と化したドゥドゥーも、命を失い、倒れている。ディミトリは荒い息でエーデルガルトを睨みつけていた。
 ――俺も……必ず、お前たちのところへ行くから。
 先に行って待っている、と残して倒れたシルヴァンにディミトリはそう答えていた。負けられない戦いだったが、軍配はエーデルガルトとその仲間たちに上げられたのだ。セイロスの教団はこの場から撤退している。ここは退いて、王都での決戦にすべてを賭けるつもりなのだろう。そこにはアネットやアッシュたちがいる。ディミトリは物言わなくなったメルセデスとシルヴァン、そして最後にドゥドゥーの方に目を向けた。
「……すまない。メルセデス。お前を巻き込み、死なせたのは……俺だ」
 ぽつりと落とす言葉。その後にドゥドゥーへの思いを綴り、最後の力を振り絞る。自分は退けない。何があっても、アドラステア帝国軍に屈してはならない。脳裏をよぎる仲間たちは、皆揃って苦しい顔をしている。けれど、それでも――多くを失い、苦しんでも、彼らはディミトリとファーガスの為に生きて、死んだのだ。彼らのもとに逝く前に、エーデルガルトを――自分から全てを奪った女を殺さなければ。父の、そして義母の無念を――理想のために踏み躙ってきた者たちに、頭を垂れて詫びながら死んでゆけ――ディミトリを見下ろすエーデルガルトは表情を歪めた。
「さようなら、妄執の王よ。乱世でなく治世に生まれていれば、名君としての幸福な生があったかしら……」
 彼女の声は、次第に遠退いていく。
「……地獄に落ちろ、エル」
 ディミトリに振り落とされる、その刃。
 こうして、ファーガスの王はこの世を去った。雨は無情に降る。吹き荒ぶ風は、まるで泣いているかのよう。

 王の去った王都では、レアとエーデルガルトたちの決戦が繰り広げられることになる。アネットは咽び泣いているかもしれない。アッシュも絶望に落ちてしまうかもしれない。この極彩色の悪夢にファーガスは飲まれ、そして滅んでいくだけなのだろう。ふたりも、ディミトリたちの列に加わってしまうのだろう。空も、泣いていた。

 なあ、メルセデス。
 ……なあに、シルヴァン?

 ――風が、細い声を運ぶ。

 君といられて幸せだったよ。でも、本当は、もっと一緒にいたかったな。
 そうね、私もあなたに……シルヴァンに愛されて幸せだったわ〜。いつか、生まれ変わったら……もっと、長い時を一緒に過ごしましょう。出来なかったことをしましょう? また、あなたに愛されて、私はあなたを……あなただけを愛するわ。
 ああ……約束、しよう。遠い何処かで、きっと俺たちは会えるはずだから。そうしたら、もっと君に伝えたい。巡り会えて良かったって。君を……メルセデスを愛せて良かったって。俺たちの人生は、無駄じゃなかった、って。……そうだよな、フェリクス。イングリット。そうですよね、陛下。

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