ユダの涙

 シルヴァンは泣いていた。きらりと光る大粒の雫が、音も無く頬を伝って流れていく。彼が手にする槍には人血が付着しており、大地には物言わなくなった「幼馴染」が倒れている。フェリクスと、イングリット。彼らは愛するファーガス神聖王国の為に戦う騎士として、その命を散らした。
「……シルヴァン」
 そんな彼に歩み寄る女性がひとり。淡い榛色のショートヘアに、薄っすらと涙で潤む菫色の瞳。シルヴァンは彼女から名前を呼ばれても、特に反応を見せなかった。いや、見せられないのだ。彼はファーガス神聖王国でも屈指の名家――ゴーティエの跡取り息子で、フェリクスたちが命を捧げたディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドとも親しい関係にあった。いずれファーガスの王となるディミトリの為に、シルヴァンはフェリクスらと鍛錬に励んだ。
 しかし、運命は残酷である。シルヴァンはガルグ=マク大修道院の士官学校で、ベレス=アイスナーに学ぶことを望んで、「青獅子の学級」から「黒鷲の学級」に移った。ディミトリが残念そうな顔をしていたのを、彼自身もよく覚えている――だがそれがお前の考えで、望みならば、俺に引き止める権利は無いだろう。ディミトリは笑って彼を見送った。そんなシルヴァンが所属を変えて一節が経過した頃、メルセデスもまた「黒鷲の学級」に所属を変えたのだ。シルヴァンを追いかけたようにも見えた。実際、それも理由のひとつなのだろう。だが、メルセデスはもとを辿ればアドラステアの貴族で、学級を移ること自体はシルヴァンよりも自然だった。
 彼らはエーデルガルトやヒューベルト、そしてフェルディナントなどと切磋琢磨しながら多くを学び、経験し、様々なものを得た。しかし、そのエーデルガルトが突如としてアドラステア帝国の皇帝に即位すると、彼女は自分たち以外の全てに戦線を布告する。天上の女神「ソティス」が一部の人間に齎した「紋章」と貴族制度に縛られた世界を変える――シルヴァンも、メルセデスも、そして学友たちも、彼女の理想を信じた。シルヴァンとメルセデスは、紋章に人生を狂わされた者だった。紋章があったから心を蝕まれ、心が砂のようになった。この力さえなければ違った生き方があったのかもしれない。エーデルガルトとベレスの導くままに、ふたりは戦場を駆け巡ることになったのだった。
「――」
 だから、分かっているつもりではいた。自分たちが帝国の将である以上、フェリクスやイングリットたちとの道はもう二度と交わることが無いと。もう自分はファーガスの人間ではない。彼らが望む未来に自分は存在しない。「嵐の王」はシルヴァンやメルセデスが生きることを、絶対に許しはしないだろう。
「シルヴァン……」
 もう一度、メルセデスが名を呼んだ。今度はシルヴァンの体がぴくりと反応する。鳶色の瞳からは涙が今もなお溢れている。彼もまた無傷では無い。シルヴァンの腕や足には裂傷がある。そこから紅いものがにじみ出ているのが分かった。治癒の魔法はメルセデスの十八番だ。だからすぐに癒やしてやりたいところだが、彼はきっと受け入れない。長い付き合いだ、メルセデスには分かってしまう。
「……悪い。メルセデス。……俺たちも行こうか」
 シルヴァンが声を絞り出した。エーデルガルトやベレスたちとは既に距離が開いてしまっている。エーデルガルトは言っていた――アリアンロッドを陥落させた後は、一度、拠点であるガルグ=マクへ戻り、最終決戦に――王都攻略の準備に入るのだと。王都を落とせば、フォドラ全土統一という彼女の宿願が果たされる。それですべての人間が幸福になるのかといえば、即座には頷けないものの、今のような酷く不安定な世界では無くなる。
「……ええ」
 本当は、フェリクスやイングリットといった面々を弔ってやりたい。自分が手にかけておいて、と唇を噛み締めたくなるが、彼らと過ごした日々は嘘でも偽りでも、況してや幻でも無いのだ。いつか来る未来――多くを学び、困難を乗り越え、王となったディミトリを人生の終わりまで支えていく。そんなことを願っていたのもまた、事実なのだから。

 ◇

 ガルグ=マク大修道院にメルセデスたちが戻り、普段通りの静かな夜が訪れる。だが、ふたりとも食欲は無かった。小さなパンとスープだけを口にし、彼らは大聖堂へと足を運ぶ。セイロス聖教会とも敵対している自分たちに、女神の加護など得られるはずもない。分かっている。分かっているが、彼らは祈らずにはいられなかった。最早何に祈りを捧げているのかも分からなくなる。不明瞭な信仰は、心の奥でギシギシと軋んでいるかのよう。
 彼らが大聖堂へ来て、十分ほどが経過した頃だった。
「――メルちゃん、シルヴァンくん! 大変よ!」
 らしくもなく、ドロテアが大聖堂へ駆け込んでくる。彼女もまた「黒鷲の学級」でベレスに学び、黒鷲遊撃軍のメンバーとして茨の道を進む者のひとりだ。どうしたの、とメルセデスが問う声を、ドロテアは遮る。大変なの、と慌てた様子の彼女の口から発せられたのは――堅牢なる「白銀の乙女」アリアンロッド崩壊の知らせだった。なんでも、天から光の柱が降り注ぎ、アリアンロッド政庁、及び北部城壁が全壊したのだという。あまりにも唐突なことに、シルヴァンとメルセデスが顔を見合わせる。
「ヒューくんの話では、何かの魔法……或いは禁術ではないか、って」
「そ、それで、アリアンロッドは……」
「……ローベ家の人物は全員亡くなった、と。それに帝国軍の将兵も、かなりの数が犠牲になったって、ヒューくんとエーデルちゃんが……」
 シルヴァンも、メルセデスも、顔が真っ青だ。
「……ねえ、シルヴァン、その……」
「……ああ、メルセデス。……俺は――大丈夫だ」
 彼は無理に笑った。大丈夫、と気丈にも言う姿が痛々しい。これからも戦いは続くのだ。ディミトリ。ドゥドゥー。アッシュ。そしてアネット。心から信頼しあっていた「青獅子の学級」の友人たち。現実は何故ここまで残酷なのか。皆が手を取り合い、同じ未来を望める道が、どうして用意されていないのか。アドラステア帝国の人間も、ファーガス神聖王国の人間も、同じフォドラで生きる人間であることにかわりはないはずなのに。
「……そろそろ、戻りましょうか……シルヴァン。ドロテアも」
「ああ、そうだな……」
「え、ええ。そうね……遅くなっちゃいますものね」
 三人は肩を並べて歩き出した。皆が、重い足を引きずっているかのよう。心が泣いている。静かに別れを告げることすら許されず、彼らはこの世界から消えてしまった。死後の世界なんて分からない。もし「天国」というものが存在していたとしても、自分はそこへ足を踏み入れることが許されないだろう。かつての友たちの心をズタズタに傷付け、その尊い命を奪った自分が落ちるのは、「地獄」しかない。涙を落とすことだって、本来なら許されないことだろう。シルヴァンは空を仰いだ。漆黒のなかに孤月が浮かんでいる。たったひとりで夜暗を生きなければならない月。それすらも涙を流しているかのように見える。
 ドロテアは用事があるから、と大聖堂から出て少し歩いたところで別れた。残ったシルヴァンとメルセデスは沈黙を貫く。
「――」
 また、泣きたくなった。ちらりとメルセデスをシルヴァンは見る。彼女も思い詰めた顔をしている。アネットともそう遠くない将来、戦わねばならない。メルセデスにとって、アネットは親友だ。ガルグ=マクに入学する前からのとても長い付き合いだと聞いている。もともと王都の学校で魔法を学んでいたのだと、自分たちがまだ「青獅子の学級」の生徒だった頃に話してくれた。シルヴァンは気付く。フェリクスとイングリットを殺めたのと同様の苦しみを、痛みを、メルセデスは味わうことになってしまうのだ、と。
「……メルセデス」
 シルヴァンは彼女の名前を呼んだ。すぐにメルセデスは顔を向けてくれる。
「……ひとつだけ、約束をしてくれないかい?」
「約束?」
「ああ」
 小首を傾げたメルセデスの目は、充血している。ぼんやりと光る外灯に照らされて、それが見て取れた。
「……俺は、君を失いたくない。だから、メルセデス――君には」
 生きて欲しい。その言葉が喉元につっかかってしまう。大切なひとに生き延びてほしいと願うのは、自然なことだ。けれど、あれだけ多くを奪い、彼らの未来を奪った自分が――自分たちがそのような約束を交わすなんて、愚かなことかもしれない。シルヴァンなのだ、フェリクスとイングリットの身体に槍を突き立てたのは。そして、その罪はこれからも積み重ねられていく。戦争が終わる、その時が来るまで。
「……シルヴァン」
 彼女の瞳から、光が流れ落ちた。私も、あなたに生きて欲しいと思っているわ。そう続く言葉は、彼女の身体は、がたがたと震えていて、まるで冷たい雨に打たれる雛鳥のよう。
「ご、ごめんなさい。……涙が、……っ、止まらないの……わたし、わたし――」
 もしも、ひとつの願いが叶うなら。すべてが微笑んでいたあの頃に戻りたい。しかしそれは虚ろに漂うだけで、叶うことはないのだ、永遠に。
「も、もし、あなたが居なくなってしまったら、私――」
「俺も、同じ……同じだよ、メルセデス」
 彼らは凍えている。抱きしめあって熱を分かち合おうとしても、震えが止まらない。これが祖国に切っ先を向けた罰だというのなら。シルヴァンはメルセデスの背中を何度も撫でるのだった。

2021/06/07

久々に書いたシルメルがこれでいいのでしょうか……。

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