音のない世界

 半刻前程から雷雨が続いている。空を切り裂くかのように走る雷光と、何かを責め立てているかのような雨。私は執務室にて、雷の音が聞こえる少し前から、膨大な量の書類と睨み合っていた。これだけの数だ、今日中に終わらせることは出来ないだろう。
 私たちは今、教団やそれに味方する勢力との戦いの真っ只中にいる。女神。紋章。血統。そういったものに私はうんざりとしていた。このフォドラを見守るという女神とやらは、一部の人間にだけ紋章という力を与えた。なんと不平等なことだろう。そんなもののせいで、酷い目に遭ってきた者は少なくない。そして、それは私も例外ではなかった。続く怪しげな人体実験。そのせいで、人工的にふたつ目の紋章を宿すこととなったが、最早それは、力の証でも何でもない。たとえるのならば――堕天使の烙印のような、そんなものだ。今の私は、そのせいで楽園を追い出されたようなもの。進む道には血が溜まっている。そしてこの道の先にあるものだって、きっと地獄のようなものなのだ、安らかな永久の眠りなんて、それこそ夢物語。
 はあ、と溜息を吐く。無意識に出てしまったそれは、ひとりの空間でやけに長時間漂う。もしも私が、アドラステアの皇女として生まれていなければ、もっと幸せで穏やかな人生だったのかもしれないなんて、無駄なことを考える。それとも、兄や姉といった存在と一緒に実験の途中で死んでいたら、なんてことも考えてしまう。どちらにしても、無意味なことだ。私は――エーデルガルト=フォン=フレスベルグとして、生きているのだから。
 汚れ一つ無い鏡に映る自分を見た。どう見ても不自然な、雪のように白い髪。これも人体実験の影響だ。昔の私はもっと普通の外見で、少なくとも今よりは未来への希望を抱けていたように思う。
「……」
 私は無言のまま、視線を動かす。次に視界に入るのは、大地が雨に打たれ、雷に怯える姿。つくづくしつこい雷雨だと思いながら、書類に向き合う。カチコチと時計は正確な時間を刻み続けていて、孤独な私を嘲笑っているようにも聞こえた。それは流石に自意識過剰だとは思うが――どうせなら、音のない世界に行きたい。何の言葉も投げかけられず、何かを綴ることも求められず。その世界では暴言も称賛も無い。非現実的なことを考えていることは分かっている。それに無責任なことだが、この現状から逃げたいと思う弱い自分は確かにいた――フォドラの統一を望んで、長き歴史を持つアドラステア帝国の繁栄を民に誓ったような、そんな私の中に。
 それから、また少し時間が経過した頃。私の耳に扉がノックされる音が入った。応じる私は、誰が来たかを瞬時に察知する――扉の反対側に漂う気配で。彼はベストラ侯爵家の嫡子にして、私の従者。名を、ヒューベルト=フォン=ベストラという。重い扉はゆっくりと開かれて、眼光の鋭い男が恭しく頭を下げた。エーデルガルト様、と私のことを変わらない低い声で呼んで、彼は室内に身を滑らせた。彼の手には何枚かの書類。厄介なことに、仕事が増えたのだと私は気付く。やるべきことから逃げる気は無い。そもそも、逃げるなんて最低の行為だ。ヒューベルトはその書類を静かにテーブルへと置いた。目線を落とすと、頭の痛くなりそうな文が羅列されていて、私は思わず眉を顰めてしまう。ヒューベルトは、そういったものを見逃してはくれない。
「エーデルガルト様」
「……分かっているわよ、あなたに言われなくてもね」
「これは失礼を」
 素っ気なく、突き放すようなことを言う私に、彼はこれまたいつものような言葉を返す。彼の存在は私にとってとても大きなものだ。今よりずっと幼い頃から、ヒューベルトは私の従者だった。それ以上でもそれ以下でもない。彼がそう在り続けることを望んでいるのを、私はよく知っている。
「ですが、エーデルガルト様。お疲れではありませんか」
 ヒューベルトは続ける。私が顔に疲れが出がち、というわけではない。長い付き合いになる彼には見抜かれてしまうだけ。
「貴方様に何かがあったら困りますからな」
「そう」
「ですから、少しお休みになられては」
 これもまた定型文のようなやり取り。私は、アドラステアを統べる者。そして、腐敗しきった教団の枷から世界が解き放たれる時を望む者。足を止めてはいけない。そう、世界のすべてを敵に回しても、成し遂げなければならないものがあるのだ。人はそれを野望と呼ぶのかもしれない。
「ねえ、ヒューベルト」
 すべて。私はたった今心を過ぎったことばを反芻する。その「すべて」というものに、ヒューベルトは入っていたのか。自分で答えを探すより、彼に聞いてしまうのが手っ取り早い。私はじっとヒューベルトのことを見た。
「あなたは、私が命じれば何でもするのよね?」
「愚問ですな。私の主はエーデルガルト様、お一人です」
 私の問いに、彼は答えた。淀む部分は全く無い。記憶が定かではないがここまでの問答であれば、以前にもやったことがあったかもしれない。
「だったら、私がひとりで戦うと決めたら、あなたも私の前から消えてしまうのかしら?」
 私はヒューベルトから目を背けない。黒い髪に、油断のならない眼差し。まるで闇そのもののような、そんな彼もまた私をずっと見ている。
「――それを、主がお望みなら」
 ヒューベルトは言う。その返答だって意外なものでは無い。本当の意味で、ヒューベルトは私の従者なのだろう。自分の意志ではなく、主たる私の考えで動く。チェスボードの上の駒のよう。消えろといえば消える。側に居てと願えば留まる。私のことを殺したいほど嫌っていたとしても、この男は今ここにいる「ヒューベルト」として生きるのだろう。
「……分かっているでしょうけど、本当に消えて欲しいと言っている訳では無いわよ?」
「ええ、分かっておりますとも」
 私が――私たちが音のない世界にいけたら。それでもヒューベルトは私という人間を理解して、望むように接してくれるのだろう。分かり合う為に並べるような言葉は要らない。それは、今までに積み重ねてきた日々があるから。互いにもう殆ど全てを理解っているから。
 けれど、もっと距離を埋めても良い。私がそんなことを言っても――ヒューベルトは変わらない態度を見せるのだろうか。



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2020/07/23

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