「ねえ、シルヴァン君。ここ、いいかな?」
 高く澄み渡る青空が美しい、穏やかな日。時刻は正午を周り、食堂には多くの人影があった。ガルグ=マク大修道院で働く者、セイロス騎士団に属する者。そして士官学校の生徒たち。「青獅子の学級」の生徒シルヴァンは、この日珍しくひとりで昼食をとっていた。サラダを一皿食べ終えて、焼き立てのパンに手を伸ばしていたところに降り掛かった声。何だと思って顔を上げれば、そこにいたのは見知らぬ少女。服装で、士官学校の生徒であることしか分からない。だが相手はシルヴァンのことを知っていて、にっこり笑っている。長い金髪を、後ろの高い位置でひとつに纏めた姿の彼女は、少なくとも「青獅子の学級」の生徒ではない。しかし断る理由も無かった。どうぞ、と答える。空席はまだまだあるのに、彼女は何故ここを選んだのか。引っかかる点はあったが、もう既に少女は腰を下ろしている。
「それ、好きなの?」
 少女は名乗りもせず、シルヴァンに問いかけてくる。テーブルに置かれた料理を指し示しながら。
「あ、ああ……」
「そうなんだぁ。あたしはちょっと苦手なんだけど、そういうことばっかり言ってられないもんね。もう子供じゃないんだし」
「……そうか」
 会話は大して弾まない。彼女もまた自分のサラダにフォークを突き刺す。しゃきしゃきとした野菜はとても新鮮で、おそらくは採りたてなのだろう。ガルグ=マク大修道院の食事は美味しい。士官学校の生徒の大半がそう思っているだろうし、こういった食事の時間を何より楽しみにするような者だって少なからずいる。
「あっ、でも昨日のお夕飯! すっごく美味しかったよね? あたし、お肉は好きなの」
「……」
 シルヴァンは会話に乗り気ではないようだ。女性を見ればすぐに口説き、それはどんな女性に対しても変わらない――そう評されがちの彼は此処にいない。女生徒の方も彼を見て眉を顰めた。もっと構ってもらえると思って声をかえてきたのだろう、とシルヴァンにもその本音が見えてしまっている。
 その時だった。とある女性の声が、食堂のざわめきの中に聞こえたのは。
「あら〜、そうなの? アン?」
 そんな短い台詞でも、穏やかな笑みを思い描くことは容易だった。シルヴァンは無意識にその声の主に視線を動かす。メルセデス=フォン=マルトリッツ。彼女は、シルヴァンと同じ「青獅子の学級」に所属する女性。長い付き合いの親友アネットと一緒に食事に来たのだろう。メルセデスは友に目を向けて、それから給仕係の方を見、自分の食事を盆に乗せて空席を探す。ちょうどシルヴァンの向かい側に、ふたつの空席があった。それを先に見つけたのはアネットで、シルヴァンと、それから例の女生徒の存在に目を大きくさせた。そして何故か慌てふためく様子でメルセデスにこう言った。
「あっ、メーチェ! えーと、その、ほらっ! あ、あっちも空いてるよ!」
 アネットが指し示したのは、もっと後ろの席。当然メルセデスは「どうしちゃったの?」と首を傾げる。明らかに様子がおかしい親友を見る彼女の瞳は、いつもと同じ淡い菫色。
「あらあら、ここも空いているじゃない〜」
「あっ」
 時折そういうことに疎い面を見せるメルセデスは、そこでようやくシルヴァンと女生徒の存在をとらえたようだった。
「まあ、シルヴァン。こんにちは。ここ、座っても大丈夫かしら〜?」
 ふわりと微笑うメルセデス。傍らのアネットは気が気でない。親友が誰に惹かれているか、そのことをずっと前から知っているからだ。女生徒の顔にあるのは不快の二文字。シルヴァンが他の女性と一緒に食事をとったり、話をしたりするのが嫌で嫌で仕方が無いといった様子だ。
「あ、ああ、メルセデスにアネットか。勿論――」
「……駄目よ!」
 彼が「どうぞ」と言うよりも早く女生徒の大きな声が響く。それは酷く声量が大きかった為、あちらこちらから視線が向けられる。咄嗟に耳を塞ぐ者や、煩いと目をつり上げる者もいる始末。
「……えっ?」
 メルセデスが若干の間を置いたのは、今の彼女の反応が少しも理解出来なかったからだ。よく知らない人物にそこまで拒否されるとは思っていなかった。そもそも、メルセデスは彼女ではなく、シルヴァンに尋ねたのだ。
「あなた、平民なんでしょう?」
 彼女は鼻を鳴らし、見下すように言う。
「シルヴァン君は、あのゴーティエ家の人間よ。あなたなんて、彼に相応しく無いわ!」
 ここは、フォドラの各地から若者が集う士官学校。紋章や血統を何より優先するような、そういった者も少なからずいる。それは誰もが知っていることではあるが、メルセデスは深く傷付いたようだった。もともとメルセデスは帝国貴族として生まれたが、いろいろあって、王国にある教会でひっそり暮らしてきた過去を持つ。それを知るのは、彼女と親しい者の一握り。故に、この女生徒が知る筈もないこと。
「ね、シルヴァン君。あなたも、付き合う相手は選んだほうが良いわよ?」
 彼女は言う。メルセデスは悲しげに目を伏せており、その隣でアネットも言葉を探してはいるが見つけられずにいる。メルセデスの過去が酷く重いものであると、この少女は知らないのだ。シルヴァンは胸がぐしゃぐしゃにされたような――そんな感覚に陥る。
「……やめろ」
「えっ?」
 シルヴァンが絞り出した声は、いつもよりもずっと低い。それが女生徒の耳には届かなかったのだろう。
「彼女のことを……メルセデスのことを悪く言うなッ!」
 彼が声を荒げる。これは珍しいことだ、辺りにいた者たちの視線もシルヴァンたちのところへ集まった。やっと顔を上げたメルセデスはがくがくと震えている。女生徒の鋭い視線と容赦ない言葉に、かなりのダメージを受けてしまったようだ。そんな彼女の背中をアネットは何度も優しく撫でている。
「貴族だろうが平民だろうが、紋章持ちだろうがそうでなかろうが、俺が付き合う相手は、俺自身が決める。それに、君のように、何も知らずに傷付けることしか出来ないような人間と関わりたくない」
 彼の言葉は、すっかり静まり返った食堂に響いた。何事だ、と目を丸くする者が見えた。メルセデスはほんの数秒間、シルヴァンのことを濡れた瞳で見つめて、それからアネットを振り払い、食堂からばたばたと駆け去ってしまった。メーチェ、とアネットが呼んでも彼女が振り返ることはなかった。
「何よ、平民なんかの肩を持つの?」
 女生徒に反省した様子は微塵も無い。他者をぐさぐさと刺さる鋭利なナイフのような言葉で傷付けておきながら、悪びれることなくシルヴァンのことを見ている。
「……ああ、君には、紋章と血しか見えていないようだからな」
 シルヴァンの台詞を聞き終えると、彼女はぎりっとシルヴァンやアネットを睨みつけて、そこから去っていった。結局シルヴァンは彼女の名前も所属も知らないままだったが、別に構わないと思えた。あれだけのことを言ったのだ、彼女はそれなりの名家の出なのだろう。
「ね、ねえ、シルヴァン」
 おずおずとアネットが口を開いた。
「メーチェ、大丈夫かな……?」
 あんなメーチェを見たのは初めてだよ、とアネットは言う。メルセデスと最も付き合いが長い彼女でさえ、そうなのだ。シルヴァンの胸中は不躾な女生徒への怒りと、メルセデスへの複雑な思いが渦巻いている。
「あたしが追いかけてもいいんだけど、今は多分……シルヴァンの方が、良いと思う」
「……そうか。分かった、探してくるよ」
「うん、ありがとう……。それ、あたし、片付けておくから。メーチェのこと、よろしくね」
 アネットは、まだ少し料理の残ったままの皿や飲みかけの果実ジュースが入ったグラスを指し示す。もう、食事どころではない。すまない、と断ってシルヴァンは食堂を出た。その頃になると食堂は普段の姿に戻っていて、各々が食事を再開しているようだった。

 全力で走ったものの、メルセデスはなかなか見つからなかった。彼女は魔道に長けているが、体を動かすことはもともとあまり得意ではないと聞いている。だから、猛スピードで走って、遠くまで行っているとは考えにくい。シルヴァンはぐるりと辺りを見回した。やはりメルセデスの姿は見当たらない。今すぐにでも彼女のそばに行きたいのに。そして、きっと震えたままであろうメルセデスを支えてやりたいのに。もう一度四方を見回す。何人かの生徒や騎士の姿が飛び込んでくるが、肝心のメルセデスは見つからない。
「いったい、どこへ……」
 シルヴァンは何気なく温室の方を見た。それはフォドラの各地で育ち、花を咲かせる植物が多く栽培されている場所。シルヴァンたちも、当番制で水やりなどの手入れをしている。面倒くさがる者も多いが、そういえばメルセデスは喜んで水やりなどをしていたな、と彼は思い出した。もしかしたら。シルヴァンの胸にひとつの芽が姿を見せる。彼は大急ぎで温室の方へ走った。扉は閉まっていたが、いつもと変わらず鍵はかかっていない。シルヴァンは手をかけ、ゆっくりとそれを開ける。同時にむっとした独特な空気が溢れてきて、花の香りと少しの土のにおいをシルヴァンは嗅ぎ取った。中には――やはり、メルセデスの姿があった。シルヴァンの直感が的中したのだ。いつもいる温室の管理人はいない。彼女はひとり、温室の奥で上の方を見ている。シルヴァンが来たことに、そのメルセデスは気付いていないようだ。扉が開く音にも、足音にも、気付けないほど何かに囚われているらしい。
「……メルセデス」
 シルヴァンは名を呼ぶのにも間を置いた。探して見つけたのはいいけれど、彼女はきっとひとりでいることを望んでいるのだと、その悲しげな背中を見て分かってしまったから。
「……」
 メルセデスはややあって振り返る。大きな瞳にシルヴァンのことを映し出し、まだ辛い気持ちでいるだろうに微笑んでみせた。それは、ここで咲く花のようだった。
「……メルセデス。あの、さ」
 なんと言えばいいのか。もう少しちゃんと考えておくべきだった。シルヴァンは今になって少し後悔した。心無い言葉に傷付き、その痛みを抱え込んでいるメルセデスに、どんな声をかけてあげたらいいのかを、もっと。
「いいのよ、シルヴァン。ここにはああいう子も、やっぱりいるもの。そんなに気にしないで? 私は、大丈夫だから」
「でも……辛かったんだろう?」
 貴族に生まれ、しかもそれはファーガスでも指折りの名家と呼ばれているゴーティエの人間であるシルヴァンには、メルセデスのすべてが分かっているとは、どうしても言えない。
「そうね……。だから、私、ここまで、逃げてきてしまったのね」
 メルセデスが一度、言葉を切った。
「私はお家のことにも、紋章にも、あんまり良い思い出が無いの……」
 それはあなたもそうかもしれないけれど、と彼女は付け加え、そしてその視線をずっと上まで動かした。背の高い樹木は、何かを求めてすっと天へ手を伸ばしているかのよう。
「……俺は、平民だからって君を下に見たことなんて、一度も無いさ」
「ええ、そうね……みんながみんな、そうだったら……もう少し、生きやすい優しい世界だったかもしれないわね」
「――それに」
 再びシルヴァンを見たメルセデス。そんな彼女に彼は綴り続ける。
「俺は、君と一緒にいたい」
 付き合う人間は自分で決める。そこに血や紋章、家柄といったものは関係無いのだ。たとえ、メルセデス=フォン=マルトリッツというひとりの女性が、ファーガス神聖王国で屈指の名家の出だったとしても、それだけで態度や接し方を変えるようなことはしない。シルヴァンには確証があったのだ、メルセデスがレスター諸侯同盟領の出身でも、ずっとアドラステア帝国で暮らしていたとしても、今と同じような関係性で結ばれ、同じ想いを抱いただろうと。
「……シルヴァン」
 メルセデスの瞳からきらりと雫が落ちる。流れ星が伝ったかのようなそれは、どこまでも美しく、そして切ない。シルヴァンは思わず彼女を抱きしめていた。腕の中の彼女は、それを拒まなかった。シルヴァンは優しく背を撫でた。多くを背負ってきた背中だ、メルセデスは泣いている。大丈夫だ、というのは虚勢だったのだろう。苦しくて、悲しくて、何より胸が痛くて、あの場から逃げてきたのだ。シルヴァンは繰り返し背中を優しく撫でる。今のメルセデスは、冷たい雨に打たれた小鳥の雛のよう。そんな彼女にシルヴァンは口を開く。
「無理しなくていい、メルセデス。俺は、君をひとりにしないから」
 アネットも、イングリットも。そしてディミトリといった級友たちも、きっと同じような台詞を口にしただろう。だがシルヴァンが言うそれは、アネットらの言葉とは違った意味を孕んでいる。それはメルセデスも分かっていて、だから、彼の抱擁にすべてを委ねた。胸に刺さっていた鋭い棘が抜け落ちたよう。ふたりは時間の許す限り、そうしていた。涙が乾いても、ずっと。


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title:エナメル

2020/07/19
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