- 祈りと愛の言葉 -

 べとつく汗が鬱陶しい。ここ最近は寝苦しい日が続いている。季節柄仕方ないこととはいえ、とシルヴァンは深い息を吐いた。このままベッドに横たわっていても、ちゃんとした睡眠はとれないような気がする。明日は特に出撃の予定は入っていないから、そこは良かったと言える部分だろうか。
 仕方ない、とシルヴァンは起き上がる。何度か手で赤毛を梳いたあと、寝間着のままでは外に出られないから、と手早く着替え、それから部屋を出た。真夜中と呼ばれる時間帯。ガルグ=マク大修道院は多くの人が生活をする場であるが、いま起きている者はほんの僅かだろう。彼はゆっくりとした足取りであてもなく歩いていく。
 このガルグ=マク大修道院にあった士官学校。シルヴァンがそこの生徒だったのは、約五年前。エーデルガルトがアドラステアの皇帝になって教団や王国に牙を剥いてから、フォドラは戦乱の時代を迎えた。かつて「青獅子の学級」の担任だったベレスとその教え子たちは、約束を果たす為にここへ集い、共に戦う道を選んだ。
 けれども、級長だったディミトリは大切なものを尽く奪われた苦しみの果てに自分を見失い、大きく変わってしまった。幼馴染のシルヴァンやフェリクス、イングリットが驚くほどに。もともと影のある人物だとは思っていた。だが今の彼には一筋の光すら届かない。失う痛みを、もともと彼は知っていた。ダスカーの悲劇と呼ばれる事件で、ディミトリは信頼できる者の大半を失ってしまったのだから。けれど、今の彼は更に多くの深い傷を負って、それを癒やすことも叶わぬまま得物を振るっている。あのフェリクスですらそんなディミトリを見て「別人」と言った。嘗て同じ学級で学んだ皆が、そしてベレスが、彼を見て酷く心を痛めても、今の彼には何も届かないようだ。
 そんな考え事をしながら歩いているうちに、シルヴァンは気が付くと大聖堂の前まで来ていた。ガルグ=マク大修道院は、フォドラで生きる者の大半が信仰する、セイロス教の総本山。故に、ここは聖地と呼ばれる場所。シルヴァンはそこまで敬虔な信徒というわけではないけれど、勿論その教えを幼い頃から説かれてきた。天上の女神様とやらは、ディミトリがあのような状態になっても一切の救いを与えてはくれないではないか――シルヴァンはそんなことを思ってしまう。こんなことを言えば熱心な信徒に殴られるかもしれない。シルヴァンは何度か首を横に振って、そのまま大聖堂の中へ足を踏み入れた。
「――」
 大聖堂は静謐な空気に満たされている。今もなおところどころ崩壊したままで、痛々しい姿ではあるのだけれど。そして、こんな時間だというのに先客がいた。その人物は背中を向けているけれど、シルヴァンはそれが誰であるか分かってしまった。ゆったりとした、それでいて上品な衣服。耳飾りは薄いブルー。髪は肩より少し上で切りそろえてあって。
「……?」
 その人物はシルヴァンがなにか言葉を発する前に振り返った。菫色の大きな瞳が揺れる。
「――シルヴァン?」
 驚いた様子で、けれど彼女はすぐに笑顔を作ってみせた。彼女はメルセデス。士官学校の生徒だった頃、同じ「青獅子の学級」に所属していた女性。彼女はふわりと笑んだまま、ゆっくりとシルヴァンに歩み寄った。
「こんな時間に、あなたが来るなんて。珍しいわね。いったい、どうしたのかしら〜?」
 彼女は問う。それにシルヴァンは素直に答えた。なかなか眠れなくて、気が付いたらここに来てしまったのだ、と。メルセデスは「そうだったの」と頷き、それから再び視線を遠くに向ける。彼女は熱心なセイロス教の信徒だ。毎日、女神への祈りを欠かさない。それは彼女が王国にある教会で長いこと暮らしていた、という過去が大きく影響しているのだろう。
「メルセデスは、毎晩ここに来ているのかい?」
「そうね〜、でも、いつもはもっと早い時間に来るわ」
 メルセデスが苦笑する。私もあなたと同じよ、と付け加えながら。そんな彼女の台詞に、シルヴァンは若干戸惑った。自分は気付いたらここに足を運んでいた。だが、メルセデスは違う。女神への祈りを捧げる為にここへ来た。眠れないから、というのは一緒でも、その先にあるものは大きく異なる。
「……君が何を祈っているのか、聞いてもいいか?」
 何故か、シルヴァンはそう問わずにいられなかった。メルセデスが、もともと大きな目をさらに大きくさせる。
「……そうね。早くこの戦いが終わって、フォドラが平和になりますようにって」
 彼女の返事は、まるで模範解答のよう。いや、きっと彼女は本当にそう祈ったのだろう。このフォドラが揺れているのは事実。深い悲しみに包まれているのも事実。毎日どこかで人間の真っ赤な血が流れ、悲鳴と嗚咽が空を揺蕩う。酷く醜い世界だ。そんな悲しくて辛い日々は早く終わればいい。シルヴァンも同意見だ。
「……祈ったのは、それだけじゃ、無いのだけれど〜」
「えっ?」
 メルセデスが小声で呟いたのを、シルヴァンは聞き逃さなかった。だが、彼女は「何でも無いの」と言って首を何度か横に振る。シルヴァンはそれ以上問いかけるのをやめた。詮索はあまり好きではない。それに、彼女だって必要以上に問いただされることを望まないはずだから。

「そろそろ、戻ろうかしら……」
 大聖堂に、メルセデスの声が響く。シルヴァンがここに来て十分と少しが経過した頃だった。時は流れ進み、深夜の空気はいつも以上に冷たい。シルヴァンは彼女の言葉に「そうだな」と頷いて、ふたりは肩を並べ、大聖堂をあとにする。
「ねえ、シルヴァン」
「どうした? メルセデス」
 大聖堂を出て、数分後。メルセデスがぴたりと足を止めた。倣うようにシルヴァンもそこで立ち止まる。見上げればそこには満天の星空。月が見当たらないので、なお多くの星が瞬いているのが見えた。
「もう少し、あなたと……お話がしたいわ」
 シルヴァンはメルセデスの言葉に「えっ」と声を漏らすと共に、心臓の鼓動が急激に早まったのを感じ取る。
「え? あ、ああ。じゃあ、少しだけ」
「……ありがとう、シルヴァン」
 明日は何の予定も無い、休息日である。夜更しをしても構わないだろう。いや、もう既にこんな時間ではあるのだが。微笑むメルセデスに、シルヴァンは同じ笑みをなんとか返した。


「そこに座ってね、シルヴァン」
「あ、ああ……」
 数分後。どういうわけか、ふたりの姿はメルセデスの部屋にあった。こんな夜に自分の部屋に異性を迎え入れる。それがどういう意味を持つのか、メルセデスは分かっていないのだろうか。つくづく危なっかしいところがあるな、などとシルヴァンは戸惑ってばかりだ。けれど、メルセデスはいつもと変わらない様子だ。シルヴァンは胸の奥に小さな寂しさを抱いてしまった。
「……」
 メルセデスの部屋に来るのは、はじめてではない。学生だった頃、借りていた本を返しに来たことがある。それ以外でも何度か来たことがあるはずなのに、今夜は何もかもが違うように思える。
 昔はずっと長かった、亜麻色の髪。今はずっと短く切りそろえられている。シルヴァンはメルセデスを見ながらそんなことを思った。あの頃はシンプルな、けれど上品なリボンでそれをまとめていた。シルヴァンは彼女の髪を幾度と無く褒めたし、綺麗なリボンだなと素直に言ったことが何度もある。その髪を、今のメルセデスは短くしている。それは、なにかの決意の現れなのかもしれない。そして、その決意があるからこそ、メルセデスは戦場に立っているのかもしれない。
「どうぞ」
 こんな時間だけど、と繰り返し言いつつメルセデスは紅茶を用意してくれた。シルヴァンはそれを受け取る。芳しい香り。これはきっと、メルセデスの好む茶葉なのだろう。
「あのね、シルヴァン」
「どうした?」
 メルセデスは自分のカップに薄紅色の唇を寄せて、それからカップをかたんとテーブルに置いてから、彼に言葉を紡いだ。
「私、さっきお祈りをしたでしょう?」
「ああ、そうだったな」
「……早く戦いが終わりますように、って祈ったわ〜。でも、戦いが終わったら……シルヴァン、あなたとも、離れ離れになってしまうのかしら、って思ったの」
 彼女の目は真っ直ぐにシルヴァンへと向けられている。
「そう考えたら、私、なんだか寂しくなってしまったのよ」
 自分たちの戦いに終わりはまだ見えない。けれど、無事にこの戦いを終えたら――皆、戻るべき場所に戻り、また新しい日々を過ごすことになるのだ。シルヴァンはゴーティエ家の跡取りだ。戦後は間違いなく領地に帰り、そこで新しい人生を送るのだろう。紋章を持ってあの家に生まれた以上、それ以外の未来は用意されていない。たとえ、この戦いでフォドラが大きく変わったとしても。
「メルセデス……」
「あっ、ごめんなさい、シルヴァン。私、変なことを言ってしまったわ……」
 メルセデスは俯く。さらりと揺れた亜麻色の髪。いつだったかふたりは約束を交わした。相手のことを守ると。それは、この戦いが終わるまでの約束だったのか。それとも。
「……メルセデス。聞いてもいいかい?」
「えっ?」
「君の……その、もうひとつの祈りが、何だったのかを」
 そう問いかけるシルヴァンは、強い光の灯された目をしている。メルセデスはぐっと手に力を込めて、顔を上げた。濡れた瞳には、シルヴァンの姿がくっきりと映し出されている。
「……私は、あなたと、もっと……一緒にいたい、って……」
 辿々しくメルセデスは言った。つまりこれは――そういうこと、なのだろうか。シルヴァンは自らの左胸に手を押し当てる。そこは、いつもよりも段違いの速さでどくんどくんと動いていた。
「……メルセデス」
 シルヴァンは覚悟を決めた。ここまで彼女に言わせて、自分が何も伝えずにいるわけにはいかない。男として、彼女を想うひとりの人間として――この胸の奥で繋ぎとめてきたこの気持ちを、メルセデスという女性に伝えなければならないと。彼女はじっとシルヴァンを見つめたまま。
「俺も、君と……ずっと一緒にいたい」
 伝えたいことは山のようにある。けれど、言葉にするのは、このあとの一文だけ。
「メルセデス。俺は、君のことが好きなんだ」
 多くを並べ立てては、想いの辿る道を塞ぐ障害になりかねない。だからシルヴァンは心に秘めてきた想いを簡潔に口にした。
「シルヴァン……!」
 メルセデスは立ち上がった。つられるようにシルヴァンも腰を上げる。そしてふたりは抱き合った。どちらともなく寄り添う。シルヴァンの大きな手がメルセデスの背中に回される。何度か彼はそこを撫でた。メルセデスは涙している。それは、早春に咲く花が散るかのようにひらひらと落ちていく。
「私も、あなたが……あなたが、好きよ……」
 いろいろなことがあった。そして、これからもいろいろなことがあるだろう。だが、ふたりでならば乗り越えられる。
 それに、彼らには頼れる仲間もいる。その仲間たちにこの関係を明らかにするべきかどうかは、これから考えなければならない。今は戦時下だ。フォドラの未来が見えない今、そういったことを打ち明けるのは控えたほうがいいのかもしれない。だが、この長い戦が終わった暁には――ふたりは見つめ合う。メルセデスの瞳はまだ濡れている。それを見やるシルヴァンの眼差しはいつも以上に優しげだ。
「愛してるよ、メルセデス」
「……ええ、シルヴァン。私もよ」
 祈りと愛。ふたつの光が重なり合う。それは何よりも美しく、輝かしく、彼らの行く道を照らし続けていくことだろう。


2020/07/10

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